NO. 626罪人の友


”テキスト:ヨハネ11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤ(彼らの反抗)とその姉妹マルタ(彼女は反抗的)との村の出で、ベタニヤ(みじめな家)の人であった。
2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

 

本日は罪人の友という題でメッセージします。
テキストに沿って見ます。

”1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤ(彼らの反抗)とその姉妹マルタ(彼女は反抗的)との村の出で、ベタニヤ(みじめな家)の人であった。”
 

この箇所は、ラザロの死と復活に関する話の箇所です。
ラザロ、マルタ、マリヤの兄弟姉妹を主は愛しておられ、ラザロを蘇らされました。
このことは尊いのですが、このことには隠された意味合いがあるように思えます。

まず、このラザロの姉妹達の名前ですが、ともに、マリヤ(彼らの反抗)マルタ(彼女は反抗的)
というように、反抗、神への反逆、罪に関する名前なのです。ベタニヤ(みじめな家)という
町の名前も暗示的です。罪の結果、みじめな境遇にいる人々、そんな意味合いが推察できるのです。
さらにこの物語の主役であるラザロに関することば、眠り、死、死人のうちから起き上がる
ということばも以下と比べるなら実は罪に関することばなのです。
 

エペソ5:14「それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

ですから、この箇所は、罪により、死んだようなものをも主は生かし、蘇らせる:そのことを
語っている箇所であることがわかるのです。ラザロが実際に罪の中の人と言うことはないのでしょうが、
しかし、たとえの意味合いは罪、死の状態からの復活がテーマです。
 
 

”2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。”

ここでいう、「主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤ」とは以下の記事のマリヤです。

”ルカ7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」”

この箇所もまた、罪とその許しを語る箇所であり、明らかに主はラザロに関して
「罪、反逆」とそこからの復活を語っているのです。


3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく神の栄光のためのものです。
」”

この病気が死で終わるものではなく、「神の栄光のためのもの」であるといわれています。
具体的にいうと、私達は罪に陥るとします。また、それが、最悪であり、霊的に
死にまで至ることがあるかもしれません。

しかし、それで終わりではなく、神はその最悪の中からも救うことができる、その最悪の者を立たせ、
歩ませることにより、神は栄光を得られる、そのことをいっているのです。
 

”5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。”
 

イエスは彼らを愛しておられました。この何気ない記述も、マルタとその姉妹マリヤ、そしてラザロ
に関しての記述がみな、罪を暗示していることを知ると味わい深いものがあるのです。
主は罪人である私達を愛しておられ、罪の結果、眠ったように無力また、ついには、
死に至った様な者を愛し、なお立たせようとされる方である:この箇所が語っているのは
まさにそのことだからです。

”6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。”

主は自分の愛しているラザロが病気であり、かつ死にそうであることを聞きながら、なお、
2日とどまりました。病気だと聞いて2日早く行ったのなら理解できるのですが、
遅くいったとは、理解できません。
何故でしょう?

その理由は上記「神の栄光のため」なのでしょう。
病が重くなり、ついには死んでしまう:もしくは、罪がまんえんし、霊的に死に至る:
それは、人間的には、最悪であり、神様早く何とかしてくださいと願いたいのですが、
しかし、実は遅れることがあるのです、場合によっては、最悪の事態に至るまで遅れることも。
その理由は、その最悪の事態をいやし、神の栄光が現されるためなのです。


7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」”
 

さて、ラザロ達の家はユダヤにあり、それは、まさに先程、主イエスが石打ちで殺されそうであった場所です。ここでわかることは、ラザロの姉妹たちがイエスがすみやかに自分の家に来て欲しいと
願っていることは事実であるとしても、そこに行くには危険が伴う、文字どおり、命を失う場所に
彼らの家はあったということです。

たった今、殺されそこなった場所なので、そこへ行かないという選択もあったのでしょうが、しかし、
イエスは明確に「もう一度ユダヤに行こう。」といわれたのです。
ここで見ることができるのは、一人の罪人、死んだような者を救うために自分の命をかけて
死地におもむく救い主の姿です。

救い、私達の命が救われ、罪が許されることは簡単なようで、実は命をかけたことがらであることを
この箇所を通して知るのです。

まとめますが、罪人の友として来られ、罪人を愛し、その救いのために来られた方を知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー セミナーのお知らせ -----------------------------7d8271375011a Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream