NO. 623命を得るために自分から命を捨てる


”テキスト:ヨハネ10:
17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」”
 

本日は、「命を得るために自分から命を捨てる」という題でメッセージします。

テキストに沿って見ます。

”17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。”
 

ここでは、主が御自分の命をすてることに関して書かれています。
それは、私達がよく知っているように十字架の死のことを意味します。
さて、その死は私達がよく知っていることなのですが、しかし、ここでその目的、死の目的に
ついて書かれているように思えます。

何故主は命を失ったのか?奉仕のやりかたがまずかったから、人の怒りを買う方法だったからか?
私達はもっとうまく立ち回り、失敗しないようにすべきなのか?

ここでその死の理由が書かれており、それは、実は主御自身が、決して死を逃れようとはしていなかった、逆に自分から命を捨てたことが書かれています。

それでは何故主は自分から命を捨てたのか?自殺願望があったのか?この世を悲観しておられたのか?
自暴自棄になっていたのか?もちろん、そうではありません。
その理由、主が自分から命をすてることを志したその理由として、聖書は、「自分のいのちを再び得るために」自らの命を捨てたと書いてあります。

本日はこのことばを考えたいと思うのです。

「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」とは、このままでは、わかりずらいですが、
しかし、こう考えればわかります。
すなわち、永遠の命を得るために、今の世の命を捨てると言うことなのです。
 

他にもこのことを語る箇所があります。

”ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。”

ここでいわれていることは、この世において、自分の命を愛し、それを大事にするものは、
結局は永遠の命を失い、逆にこの世で、自分の命を憎む人は永遠の命を得ることが
書いてあるのです。

このことは狭い意味では、殉教を意味するでしょうが、それに留まらないといえます。
たとえ結果として、殉教をしないとしても、自分の生き方やら、理想やら、プライドやら、自己実現だの目的だの、すなわち自分の命を愛することをせず、それらを捨てて従うものは、結果として、真の命、
永遠の命を得るのです。

他にも同じことを語っている箇所があります。

”1コリント15:35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。”

ここでも復活と関連して種をまくこと、その種が死なない限り、種は生えないことが書かれています。
すなわち、私達が肉の命の死を求めない限り、復活、永遠の命を得ることはできないのです。

さて、冒頭のことばにもう一度帰りますが、
 

「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」

このことばは明らかに永遠の命を得るために、自分の命を捨てることを語っています。
私は好んで極端なことを語っているわけでもなく、また語りたいわけでもありません。
しかし、みことばに忠実でありたいと願っているのです。

ここでは、明らかに主が自分の命を捨てると言う行為のその理由、目的について書かれています。
その理由、目的は明確であり、自分の命を再び得るためであると書かれています。

このことをどう考えるべきなのでしょうか?
いわば海老で鯛を釣る様なものなのでしょうか。せっかくの海老がエサに取られたら、
悲しいですが、しかし、それに優る鯛がとれるなら、よしとせよ、そんな風に説明すべきでしょうか。

聖書の多くの記事は逆接的ですが、この命を得る、すてるということに関してもそうです。
今の世の常識は、自分の命を大切に、一人の命は地球よりも尊い、さらに自分の人生を良く生きるなんていうことなのでしょうが、しかし、聖書は全く逆のことをいいます。

すなわち、
「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」ということをいうのです。
後の日に永遠の命を得るために、
今の自分の人生をすてること、極端な場合、自分の肉体の命をも捨てることを語るのです。

このような考えは、
いのちが大事、自分の人生を良く生きるなんてことばに囲まれて生きてきた我々にとっては、
寝耳に水、なんのことやら、あまり実感のないことばなのですが、しかし、
聖書のことばこそ、真実なので、よく考える必要があります。

主は文字どおり、そのように生き、
「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」という生き方をし、
避けようとすれば、避けられた十字架を避けず、しかし、自らの命を捨てました。

そして、結果として、永遠の命を得、復活したのです。
そして、そして、この方が我々の主であり、信仰の導き手また完成者、すなわち、我々の信仰の模範なのです。

何をいっているのかというと、聖書は明らかに我我のあるべきクリスチャン生活の模範、規範は
イエスにあると語っており、そのイエスの生き方は、他でもない
「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」という生き方なのです。

ですから、私はこの世の教師でもまたこの世についた教会の教師でもなく、しかし、
主のいわれたことのみ語ろうと志す教師のつもりですので、こういいます。

私達のあるべき姿、特にこの世における自分の人生また、肉体の命に関するあるべき考え方は、
あきらかに、
「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」という生き方であると聖書は
語っていることを知ってください。

具体的に、自分の命を捨てるとはどうするのか?
それは、主の生き方を見るなら、殉教の生き方かもしれませんし、また
そうでなくても、自分の欲、願い、理想、目的を行う生き方でなく、主の働きの
ために、自分の人生をささげるということなのかもしれません。

捨てるということば、あげるとか、ささげるということばは、今の時代では、あまり人気がないかもしれません。
100円でも取られたら惜しいし、また100万円取られたらもっと悔しいです。
ましてお金に換算できない、自分の人生やら、肉体の命を神の働きのためにささげる、
これは惜しいと思うのはふつうです。

ただしかし、私は書くべきことを書かなければなりません。
海老で鯛を釣るのであり、聖書的にいうなら、ひと粒の麦を犠牲にし、
その結果、多くの実を結ぶということをです。

多くの実、畑いっぱいの収穫は誰もが臨むことですが、そのためには、
まず、犠牲が必要、自分の持っているなけなしのひと粒の麦がまかれ、死ぬことを
受け入れなければならないのです。

このことをさして、他の箇所ではこう書かれています。

”ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”

イエスは単に無意味に自己儀静的に自分の命を捨てたのではなく、
明確な目的、理由を持って捨てられました。その理由はここでは、前に置かれた喜び、
神の御座の右に座することと書いています。
これは、我々にもいえます。私達が自分の命を主のためにもしすてるとしたなら、それは、
単なる自己犠牲のためではなく、私達の目の前には受けるべき重い栄光と坐す座があるのです。

”18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」”

ここで主は御自分の命を捨てることは誰かに強制されたものではなく、自分の意志であることを
語ります。
それは、私達にあっても同じです。殉教は、私達の意志にかかっています。
そんなこと、キリストのために命を捨てることなどまったく望んでいな人が殉教することはありません。

「わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」
 

主の殉教は父なる神からの語りかけによることがここで、書かれています。
同じことは我々にもいえるでしょう。神から
殉教のかたりかけを受ける人がそうするのであり、全ての人がそうするとは限りません。

耳のある人は聞いてください。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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