NO. 614悪魔を父とするクリスチャン


”テキスト:ヨハネ8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。”
 

本日は、「悪魔を父とするクリスチャン」という題でメッセージをします。
クリスチャンが悪魔を父とすることがあり得るなどというと、異端教理だ、
とんでもない教えだといわれることはわかっていますが、
しかし、繰り返すようですが、我々は「みことばに従って教理を立て」なければなりません。

思い込みや洗脳された教理や、伝統的であるが、しかし、みことばと食い違う教えの色眼鏡に
従ってみことばをかいざんすべきではないのです。
今迄見てきたように、キリスト教会の伝統的な教理はかなり、もしくはだいぶ聖書の
みことばからずれています。我々はこれを糺すべきなのであり、盲従すべきではありません。

論議をするつもりはまったくありません。しかし、みことばがどう語っているかを見ていきましょう。

”30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。”

ここで多くのユダヤ人がイエスを信じました。さて、
質問です。イエスを信じる人のことを何といいますか?
答えはもちろん、クリスチャンです。ですから、この箇所はクリスチャンに関する箇所なのです。
この章の先で、主はこれらの人々に対して、「あなたがたの父は悪魔である」と明言しています。
ですから、「クリスチャンでもなおかつ悪魔を父とすることはあり得る」とは、不思議でも異端でも
過激でもなく、しかし、まっとうなみことばに基づく教えです。

そう読み取れないのは、国語力がないか、変な洗脳教理にだまされているか、いままで全然聖書を読んだことがないか、それらのどれかが原因です。

”31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。”

ここで、イエスを信じたクリスチャンがそのことばにとどまるなら、
本当の弟子となることがいわれています。
このことは本当です。ペテロやヨハネを始めとした12弟子はイエスのことばを真実とし、
そのことばに最後まで留まり、結果として多くの恵みを受けたのです。

ことばに留まるかそれとも留まらないかでクリスチャンの結末は大きく異なり、留まらない人々は、
ここでの「あなたかたの父は悪魔である」と主にいわれたクリスチャン達の様に
恐るべき、滅びと、惑わしと、誤りに入っていくのです。このことを軽視すべきではありません。
 


32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」”

イエスを信じるということ、クリスチャンになるということは、それはたとえていえば、マラソンの
スタートに立った様なものでしょうか。皆いっせいにスタートするのですが、しかし、全員がめでたく
ゴールするかどうかは、また別です。途中で疲れてやめてしまう人もいるでしょうし、道に迷って
別のところへ行ってしまう人もいるかもしれません。

ここで主はこれらのクリスチャン達に対して、「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とかたっていますが、しかし、その示されたあるべきクリスチャン生活を全てのクリスチャンが
送るかどうかはまた別です。

事実これらのイエスを信じたユダヤ人達には「あなたがたの父は悪魔である」と語られており、
彼らは真理からもまた罪からの自由からも遠いクリスチャン生活を送っていることが
想像されます。
 

”33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」”

彼ら、イエスを信じたユダヤ人クリスチャンは、自分達が奴隷といわれたことに心外でした。
同じく今の多くのクリスチャンも自分が奴隷かと問われれば「とんでもない、クリスチャンには、キリストにある
自由があるのです」と答えるでしょう。しかし、問題は「実際は」どうかということです。
 

”34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。”

たとえ、たてまえはどうであろうと、我々が罪を行い、今、罪を犯しているなら、
それは罪の奴隷なのです。


35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。”

家にいる、いないとは以下のことばと関係すると思われます。

”ヨハネ14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。”

家にいるとは、要するにここでいうイエスの備えた天の住まいに住むことであり、
家にいないとは、その住まいに入らないことです。
ですから、私達が今罪から本当に解放され、奴隷の身から解放されないのなら、後の日に天にははいるべき、家がありません。
それこそ、命の書の名前が危ないのです。

”36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。”

そしてこの罪の奴隷状態からの解放はただ、イエスのみにあります。

”37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。”

イエスを信じるといいながら、しかし、逆にこのユダヤ人たちはイエスを殺そうとしていました。
同じく、罪の奴隷であり、悪魔を父とするクリスチャンは、イエスを亡きものにしようとします。
すなわち、史的イエスなどとのへ理屈をいい、イエスは実際は神の子でもあがない主でもなかった、
だからイエスのことばを本気にする必要はないと説くのです。
また、同性愛擁護、フェミニズム運動など、イエスのことばに逆らい、亡きものとし、
すなわちイエスを殺そうとの試みは、悪魔の子、背教クリスチャンの間でさかんになっています。

彼らがその様に冒涜、背教に進むその理由は何故か?それは、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです」とのことばどおり、イエスのことばを受け入れないからです。
ですから、大事なのは、クリスチャンという名前でももしくは、洗礼を受けたと言う経験でもなく、
今罪の奴隷から解放され、またイエスのことばを受け入れることです。
 

”38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」”

ここでいう「あなたがたの父」とは誰か?これらのユダヤ人クリスチャンの本当の父は誰か?
それは、後の節で出てくるように悪魔なのです。

ですからクリスチャンであるといいながら、その実、実際は悪魔を父とするということは、妄想でも、
とっぴな考えでもなく、まさに主のいわれたことなのです。

これらの「悪魔を父とするクリスチャン」は一体教会へ出席して何を行うのか?
ここに書いてあるように、彼らは「あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」

事実教会に対するあらゆる悪魔の攻撃はこれらの「悪魔を父」とするクリスチャンにより
行われてきました。

近代神学、自由主義神学などの冒涜的な神学は、これらの「悪魔を父」とするクリスチャンにより、
行われ、大いに教会の土台を揺るがしました。

かつての歴史においては、英語へ聖書を翻訳したツインデルを始めとした人々も同じく、自称クリスチャンの人々により、殺されたのです。
 

”39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。”
 

彼らはアブラハムの子孫であるイスラエルの国籍のある者であると誇っていました。
しかし、主はそんな外見のことがらではなく、そのわざ、行いが大事であると語りました。形だけでは
意味がないのです。今の時代のクリスチャンに対しても同じです。自分達は霊的イスラエルだ、
などといっている、そのことが大事なのではなく、行いが大事なのです。
行いが罪に満ちているなら、神の子というより、悪魔の子と呼ばれてしまうのです。
 

さて、かくのごとく明らかに主はイエスを信じる、クリスチャンであるといいながら、その
実、悪魔を父とすることはあり得ると語りました。そのような人々の特徴は、罪から解放されず、
みことばを信じず、イエスを亡きものとしようとすることです。

このようなクリスチャンは日本においても自由主義神学を奉じる人々を始め、
たくさんいます。しかし、彼らの行く末は天の御国でないことを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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