NO. 612落ち穂ひろい


”テキスト:ルツ2:1 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。
2 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。
3 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。
4 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。
5 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」
6 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。
7 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」”

本日は、「落ち穂ひろい」という題でメッセ−ジしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。2 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。”
 

ルツ記のルツは、落ち穂を拾い集めました。
落ち穂拾いをしたのです。さて、落ち穂拾いの意味合いを考えて見ましょう。
落ち穂拾いは、落ちている麦を拾うことです。麦はパンに通じ、パンはみことばに通じます。ですから、
落ち穂拾いとは、落ちているパン、神の民が置き忘れ、顧みず、取り残したみことばを
異邦の女であるルツが大事に拾いあげる、そういう意味合いが含まれていることがわかります。

もっと突っ込んだ言い方をすれば、神の民により、見捨てられたみことばが異邦の民により、
用いられる、生かされる、そんな意味あいがあるかと思われるのです。


3 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。”

 ボアズの意味合いは、「彼に力がある」という意味であり、力ある方キリストの
型でしょうか。
異邦の女、ルツははからずもそのボアズの畑に入っていったのです。
その姿ははからずもキリストのみことばの世界に入っていった異邦人である我々の姿とダブります。
我々は異邦の民の間に生まれ、その異邦の習慣の中で育ったのですが、しかし、ある日、キリストを知り、
その素晴らしいみことばの畑に足を踏み入れるわけです。

畑で落ち穂を拾い集めた

畑は既に刈り入れの後です。人の残した、取り入れなかったその残り、あまり、落ちているものを
ルツは拾いました。後から来て拾ったのです。その姿は、もう教会時代も終わり、すでにあらゆる
種類の神学書、教理本、解説書があふれかえったこの終末の日に遅ればせながらやっと、クリスチャンとして登場した今の日の私達の姿とダブります。

今の私達にとり、すでにこのみことばの畑は刈り取られており、大事な部分はみなどこもかしこも刈り取られ、私達にとっては何の実も残されていないように思えます。しかし、黙々と落ち穂を拾い続けたルツ
の様に、どこまでもこの畑の落ち穂を拾い集めるものは思いがけない大きな恵みを受けるようになります。
 

”4 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。
5 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」
6 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。
7 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」”
 

ルツの熱心な働きは畑の持ち主であるボアズの目に止まりました。
それは私達にとっても同じであることを知りましょう。今もボアズ、すなわちキリストの目は、
この畑の落ち穂、みことばに対して熱心な者に対して目が注がれており、その人は神の民の
取り残した落ち穂、決して誰も拾うことのなかったみことばの恵みにあずかるようになるでしょう。
黙示録に「隠れたマナ」と記されているのはこのことです。

ルツ記の主題は「落ち穂拾い」であり、その主旨は、「神の民の取り残した麦の穂があり、それは
異邦人に刈り取られる」ということがらです。
このことは、主イエスの時、実現し、4000年もの間、続いた旧約のみことばは、パウロの宣教を通して、異邦の民へと受け継がれ、その刈り残された落ち穂の恵みは異邦人により建てられた教会へと
移っていったのです。

新約聖書を、なかんずく、パウロ、ペテロ、ヨハネ等の書簡を見るとき、その
落ち穂の恵みは驚くべきものがあることがわかります。
新約のみことば、それは、落ちた麦であり、旧約の神の民が取り残した落ち穂なのです。
 
 


 
 

”8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」”
 

ここでもボアズはルツに対して、畑の落ち穂を集めることを語っています。
畑には必ず、落ち穂があるものであり、しかし、それは拾い集められるべきものであることがここで
語られていることを知りましょう。それは、
かつての日、主が5000人の給食の記事で、「パンを1つもむだにしない」よう語られたことと
通じます。そしてそれは、また、「子供のパンを犬にわけてあげるべきでない」とつれなく言った、
イエスに対して、「子犬でも主人の食卓から落ちるパンはも拾う」と謙虚に答えた異邦の女の
答えに通じます。

これらの記事の主旨は一貫しており、いわんとしていることは神の麦、パンは、まず最初に神の民に
対して与えられたものであるが、しかし、必ず、神の民から落ち穂がある、そしてその神の民が
見捨てた、取らなかった麦は、結果として異邦人に与えられていく、それが結論なのです。

さて、このことは、終末の時代、再度繰り返されると思われます。
何をいっているのかというと、終末の時代においては、長い教会時代の刈り入れの間に
残った落ち穂があり、その落ち穂拾いが行われると想像できるのです。

この終わりの時代、長い教会時代に終わりにおいては、もう全ての教理が語り尽くされ、
発見し尽くされたかのように思えます。しかし、ルツ記の主題は、それでも神の民の畑には、
落ち穂があるということであり、それはこの終わりの時代にもやはり成就すると言えるでしょう。

事実多くの取り残された麦、みことば、メッセージがあります。
獣の国アメリカに関するメッセージもそうでしょうし、また太陽、月、岩、石に関する
メッセージもそうです。いくつかの落ち穂は、既に拾われたかもしれませんが、しかし、
まだ多くの落ち穂が残っています。
それを拾うことにみこころがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー セミナーのお知らせ -----------------------------168071508944249 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""