No. 610 2つの陣営にわける


”テキスト:創世記32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」
7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、
8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。
9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。
10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」”
 
 

本日は「2つの陣営にわける」という題でメッセージします。

テキストに沿って見ます。

”6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」”

この状況はどういう状況かというと、ヤコブがもう20年以上も会わなかった、兄
エサウと再会するという場面です。再会するなら、なつかしいだろうと思うかも知れませんが、
そういう状況ではありません。そもそもヤコブは兄エサウの顔を恐れて、遠く
叔父ラバンのもとに身をよせていたのです。
何故なら、兄エサウは弟ヤコブにうらみを持ち、殺そうとしたからです。

さて、兄エサウは聖書的に見て、特別な意味合いがあります。
新約聖書では、以下の様にエサウを描写しているからです。

”ヘブル12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。”

エサウは俗悪なものであり、それゆえ、結局は自分のものであった、長子の権利を売ってしまうのです。
売るとは買い取ると反対のことばであり、あがないと反対の言葉です。
尊いあがないを失う人々のことかも知れません。
 
 
 
 
 
 

”7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、
8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。”
 

さて、そのエサウの攻撃がヤコブのところに訪れるかもしれません。
それで、ヤコブは彼の陣営を2つにわけました。
このことは、語りかけのあることがらです。
何故なら、ヤコブはイスラエルのことであり、それは、またイスラエル12部族をさす総称でもあるからです。すなわち、ここでは、イスラエル12部族が何故、2つの国に分かれたのか、
その理由を書いてあると理解できるのです。

聖書を読む人にはわかるように、イスラエルは、その後、2つの国にわかれます。
すなわち、北のイスラエル国と南のユダ国です。

そのように分かれた時は人間的にいうなら、ソロモンの子、レハベアムの時の
時代です。彼の横暴に怒った人々は、ヤロベアムのもとへ向かい、結果、イスラエルは2つの
国にわかれたのです。しかし、その裏には、神の方法、意図があり、その神側の理由に関して、この箇所には書かれている、
そう理解できるのです。

その理由とは、それは、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」
ということばなのです。

エサウが撃つと言うことそのことの意味合いは、エサウが俗悪なもの、長子の特権を売り渡すものであることを知ると理解できます。

エサウが撃つ、それは、聖であるべき神の民が俗的なものとなる、結果、その
受けるべき神の祝福、長子の特権を失う、そのことがらと思えます。

さて、さらにこのことば、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」とのことばは、旧約の神の民の間に成就したかどうかを考えて見ましょう。

歴史を振り返るなら、このことは、確かに成就したことを私達は見ます。
北イスラエルは、代々の王の下で、反逆と不信と俗化に入ります。バアル、アシラ
崇拝が大きな位置を占めるのです。
しかし、一方のユダには、神の目が注がれ、ヒゼキヤ、ヨシュアという信仰的な
王の下で民は正しく主に仕えていきました。

まことに、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と
いったヤコブの判断は正しくまた適確だったのです。彼が群れを2つに分けたゆえ、
たとい1つの群れが「エサウ=俗化」に撃たれても他の群れを助けることには、
成功しました。ヤコブの方法は正しかったのです。

もし、神が群れを2つに分けなかったら、このイスラエル、神の民全体が、
堕落し、全てが長子の特権を失う可能性があったのです。
ですから、こういえます。
神の民を2つの群れにわけることは神から出たことであり、
このことにより、2つの群れのうち、1つは堕落、俗化から守られる
のです。
繰り返します。このことは神から出たことなのです。

さて、このことは、また新約のイスラエル、教会のクリスチャンにも通じることだということを
覚えましょう。

何故新約のイスラエル、教会はある日を境に、2つに区分されてしまったのでしょう?
2つの区分?すなわち、カソリック、プロテスタントと神の群れは2つに分かれたのです。
その理由を色々な人が色々いいます。カソリックは唯一の正しい教会は自分のとこだけであり、
分かれていったプロテスタントは異端だとびっくりするようなことをいいます。
しかし、それは、盲人のたわごとです。

本当の分裂の原因、それはこうです。
この分裂は、実は神から出たものであり、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」とのことばを成就するためです。
新約の神の民の一つである、カソリックは全くエサウに撃たれ、完全にこの世に飲まれたもの、
世俗的なものとなってしまいました。

ローマ法皇は金ぴかの服を着て、何やら敬虔そうなふりをしていますが、それは形だけです。
実際は、白く塗られた墓、外見はよくてもその内側はあらゆる汚れたものが満ちています。
今さらいうまでもありませんが、カソリックはこの世の教えに過ぎず、その神父達も
不品行のスキャンダルを大いに起こしています。
アメリカでは、そのスキャンダルの賠償金支払いのため、破産する教区まで出ているとのことです。
この様な情けない状態に陥らないためにプロテスタントは俗世にまみれたカソリックを離れ、群れをわけたのです。
 

何故カソリックとプロテスタントは、分裂し、新約の神の民は2つに分かれたのか?
それは、神から出たことであり、片方の群れ、カソリックがエサウ化、俗化し、この世と全く迎合し、埋没しても、それに巻き込まれないためにプロテスタントは分かれたのです。
 

さて、このことがわかると、あの論議、エキュメニカルは是か否かという質問にも
明白な答えが出ます。
答えは神が分けたものを人の力で無理に再度統一させるべきでないということになります。
エキュメニカル、統一などは全く神のみこころと反しているのです。

他の聖書の箇所に、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とありますが、プロテスタントが
再度、カソリックと一致することは、このことばの再現であることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d83ad1d5010e Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream