NO. 608パンと魚


”ヨハネ6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。”

本日はパンと魚という題でメッセージします。
テキストに沿って見ていきます。
 

”ヨハネ6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
 

この箇所は5000人の給食の箇所です。
ここで、ピリポは、イエスに答え、少年がパンと魚を持っているが、それが
この5000人に対して、何の足しになるかと答えています。

人間的に考えるなら確かにそうなのです。
しかし、イエスにあってはそうでもありません。現にイエスはその少年の5つのパンと
2匹の魚をもとに5000人の人々の飢えを満たしました。

ここでのポイントは無から有をつくり出した、のではなく、少年のわずかなパンと魚が用いられ、
増やされ、結果、全ての人の飢えが満たされた、そこにあります。

我々もこの少年のように、小さなもの、またこの少年が持っていた5つのパンと2匹の魚のように、
わずかなものしか持っていないかもしれませんが、しかし、主にあっては望みがあります。
主は増やし、用いる方だからです。

パンは何度もいうように、みことばに関するたとえです。
さて、それでは、魚は何のたとえでしょう?
魚は水の中に生きる生物です。

それは、水、御霊の中に生きる者としてのクリスチャンのたとえです。
魚を与える、また魚を増やすとして、明らかに主は我々に聖霊に関することを語っています。
 

”10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。”

5000人もの人々が少年のわずかなパンと魚により養われました。
しかし、もし、少年が自分のパンも魚も差し出さないなら、これらの
人々が満ち足りることはなかったのです。

私達の献身も同じ様なものかもしれません。どんなに小さくてもそれを用いるのは、主なので、
語られたなら、ためらわず差し出すことにポイントがあると思われます。

自分のことをいうのは、恐縮ですが、私もそうです。
自分一人が主の働きにつこうとつくまいと一体何がかわるのだろうと正直、私はそう思っていました。

でもある日、確かな語りかけがあったので、結果はともかく、主の働きに携わることにしたのです。
その後、おもいもかけない方向に主により導かれました。
主は私のようなものをも用いて大きなことをされる、これは、私の想像をこえることでした。
しかし、これもあの日私が献身、主の前にもっているものを捧げることをしなかったのなら
決して起きなかったことなのです。


11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。”

主はパンも魚も欲しいだけ、人々に与えられました。
パン、必要なみことばは皆与えてくださるのです。
このサイトの記事を見てもわかるように、主の与えて下さるパン、みことば、教えの
量は大変なものがあります。

「小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」
 

さらに魚、聖霊に関しても必要に応じて大いに与えられます。
とはいっても水をくむ、聖霊に触れるために祈りの時間を持つことは必須です。

ちっとも聖霊の働きがないなんて、枯渇しているクリスチャンが多いようですが、
ろくに祈らなければ、与えられないものなのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d84b335010e Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream