NO. 607 ユダヤ人がイエスを殺そうとする


”テキスト:ヨハネ7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。
11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。
13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。”

本日は、「ユダヤ人がイエスを殺そうとする」という題でメッセージします。
テキストに沿って見ます。
 

”1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。”

救い主として来られたイエスはあろうことか、この時、命をつけねられわれていました。
一体誰が救い主であるイエスの命をねらっていたのか?その不届きな人々は?
この箇所に明確にその人々について書かれており、それは、ユダヤ人であることが書かれているのです。
 

ユダヤ人がイエスを殺そうとしている、なんていうとすぐ反ユダヤ主義だ、けしからんという良識があるのか、はたまたただの惑わされた偽善者だか、わからない人々が文句をい
いますが、しかし、文句をいわずにきちんと聖書を読むべきです。この箇所には、明らかにユダヤ人が
イエスを殺そうとしていたと書かれているのであり、ギリシャ人がイエスを殺そうとしていた、はたまた、
ローマ人がイエスを殺そうとしていたとも書かれていません。

聖書の恐るべきところは、この箇所は、当時、イエスがおられた時の事実を書かれたのに過ぎないようですが、しかし、実際は、未来への預言ともなっていることです。
今の時代、イエスを殺す、すなわち、キリストの教えをないがしろにし、イエスを冒涜し、はたまた、
クリスチャン殺害を企てている人々は、誰でしょうか?
 

上記ことばがそのまま答えになっており、それは、ユダヤ人、正確には、偽ユダヤ人、悪魔礼拝者ども、
ユダヤ人であると嘘をついている人々です。

彼らこそ、そのタルムードの中で、繰り返し我らの救い主イエスキリストを冒涜し、またクリスチャン殺害を命じている人々なのです。

彼らのキリスト教破壊、教会撹乱また教理破壊への執念はすさまじいものがあり、
教会の奥深くまで、スパイを潜り込ませ、教会の根底を覆そうと試みています。
海外の教会はともかく、日本ではそんなことはないだろうって?

どうしてそんなのんきな寝言をいっていられのでしょうか。
私は耳のある人だけにいいます。すでに大いに潜入され、撹乱され、結果惑わされている日本人クリスチャンが多いのです。本当ならそんな輩をどうやって、見分けるのか?
敵に塩を送ることになりますので、すべては公開できませんが、ヒントをいいます。
以下に気をつけることです。

*何故だか日本語が流暢な外人
*露出の多い外人
*伝統的なクリスチャンがいわない新しいムーブメントを持ち込む外人
(第三の波系、リバイバル運動、霊の戦い、カルトハンター、パーパスドリブン、不良牧師、ホームスクール等)

”2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。”

ここでは、「仮庵の祭り」がユダヤ人の祭りであることが書かれています。
「仮庵の祭り」はユダヤ3大祭りの最後の祭りであり、収穫祭です。そして
それはまた、終末の大収穫、最後の刈り取りの予表です。

そして、この終末の最後の祭りは「ユダヤ人の祭り」であることが書かれています。
これも暗示的な表現です。
今のキリスト教会においては、よく終末のリバイバルやら、後の雨、はたまた仮庵の祭りに
ついてよく聞きます。それらをあたかも良いものであるかのように誤解している人もいますが、
それは、そもそも「ユダヤ人の祭り」であることを知りましょう。
 

トロント、ペンサコーラ リバイバル
は、「ユダヤ人の祭り」であり、ユダヤ主導の祭りです。その証拠に、
ペンサコーラリバイバルでは、ユダヤ人ラビが登場しています。
また、これらのリバイバルでは、偽ユダヤゆかりの錬金術が用いられ、歯が金になったり、金粉が舞ったりしています。
確かにこれは、ユダヤ人の祭りなのです。
 

”3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。”

兄弟達は、隠れるな、自分をあらわせといいました。しかし、このことばは、イエスを信じていないもののことばです。
終末の時、仮庵の祭りで象徴される時において、真に神につく人は、
自分をあらわすとか、公になるということをあまり考えない方がよいでしょう。


6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。”
 

「私の時」といわれたある特定の時に関してここでイエスはいわれています。
この私の時とは、どのような時なのでしょう?
他の箇所と比べてわかることは、この時こそ、主が逮捕され、命を失う時だったのです。
しかし、その時は、「まだ来ていない」と主は語られました。
 

ここを通して教えられることは、こういうことです。
我々も主にあって、終末を迎えるなら、恐らく困難な時を迎えるでしょう。
その時はいずれ、来るのかも知れませんが、主が定めた時までは、逮捕、投獄は決して来ないということです。
伝道の書のいう「全てのことには時」があるのです。

その時、神の定めた時がくるまでは、逮捕も艱難も殉教もないでしょうから、今から、
行動を自粛する必要はありません。
定められたときまでは、我々は守られる、そう思えるのです。
 
 


7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。”

ここで世がキリストを憎むことが
書かれています。そして、その理由は世の行いが悪いことをイエスが語るからだと書かれています。
翻って、福音書を読み、イエスにより、その行いが悪いことを述べられ、そのため、
怒りを燃やした人たちは誰かと考えます。
それは、他でもない当時の宗教界のリーダー、律法学者、パリサイ人達だったのです。
ですから、結論としてわかることは、この当時の宗教のリーダーはこの世のものである、
そしてそれゆえに、イエスを憎んだ、そう理解できるのです。

神に仕えているはずの宗教指導者が、実は、この世のものになりさがり、
その上、その罪を指摘した人を殺す:このことは、イエスの時代に実現したのです。

このパラドックス、反語のような状況を正しく理解してください。

何故なら、終末にもかならず、宗教指導者が世的になり、結果、
正しい人、その罪を指摘する人々を迫害する:このことが再現するからです。
 

何故なら、この世の人集めの方法を用いるパーパスドリブンチャーチ、またこの世の方法である
カウンセリングなど、明らかにキリスト教会はこの世とつきあい始めているからです。

一方、これらの方法、パーパスドリブンチャーチ、ヤベツの祈り、第三の波の怪しいリバイバル等に
警告を発し、その罪を指摘する小数の人々もいますが、彼らはいずれ、イエスの時のように
迫害されるでしょう。


8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」”

この仮庵の祭り、収穫祭に関して、イエスは行かないといわれました。
しかし、イエスを信じていない兄弟には行けといいました。

これがイエスの仮庵の祭り、収穫祭に対する態度だったのです。
それで、私達も、今行われつつある、大収穫祭、リバイバル、後の雨運動に対してどう対処すべきか
わかるのです。

イエスは行かないといわれたので、この祭の中には、イエスはいない、主の臨在も、
祝福もないのです。いくら、ベニーヒン、ビルハモンがおおげさなパーフオーマンスを行ったとしても、
そこに主が臨在していないなら、意味のないリバイバルなのです。

繰り返していいます。
私達は第三の波を始めとした今のリバイバル運動、すなわち、収穫祭には、
積極的に賛成できません。
その理由は、上記の通り:
1. このリバイバル運動が実は、ユダヤ人により画策された
祭りであり、彼らのよた教理、悪霊を広めるために計画されたものだから。
2. この祭りには主が臨在しない
からです。
 


10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。”

さて、ここではこの祭りにイエスが公にではなく、逆に内密、秘密に
上っていかれたことが書かれています。
だから、正確にいえば、これから起きる大収穫のリバイバルにおいても、イエスが全く無縁なのではないのでしょう。しかし、それは、秘密、内密である、公にはイエスを認めない祭、それが、
終末の日の大収穫の祭であることを知りましょう。
 
 
 
 

"
11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。"
 

この祭りの時、ユダヤ人たちはイエスを探していました。
何故探していたのか?
前の節の「ユダヤ人達がイエスを殺そうとしていた」との記述から、想像するには、
命を奪うためなのかもしれません。

神に従う人の命を奪う、まことに物騒な祭り、それが仮庵の祭りであることを知りましょう。
私達はその物騒な祭りをこれから迎えようとしているのです。

”13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。”
 

この日、ユダヤ人を恐れたため、イエスについて公然と語れなくなりました。
このことも終末の日に再現するのでしょうか。
今、福音書の反ユダヤ的な表現を書きかえ、削除する動きがアメリカであると
聞いています。

このことばが成就する日がいずれ、来るのかも知れませんが、今の時点でははっきりしません。
何はともあれ、ここで書かれた「ユダヤ人がイエスを殺そうとした」とのことばは、
預言的であり、あらゆるイエスへの攻撃、福音書への攻撃、人格、神性への攻撃は、実は、
教会に潜り込んだ「偽」ユダヤ人から来ることを知りましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー
 
 
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