NO. 605神からの教え

 

 

”テキスト:ヨハネ7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。”

本日は、神からの教えとしてメッセージします。
上記テキストで主はあきらかに2種類の教え、メッセ−ジがあることを語ります。
それは、神からの教えそして、自分からの教えです。このことを見ていきたいと思います。
 

テキストに沿ってみていきます。

”14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。”

主は宮で教えられました。宮と教えがセットになっているのです。
これは、現在の教会においても同じです。
宮は神を礼拝するところですが、現代のクリスチャンは、教会で神を礼拝します。
そして、教会はまた学びを受ける場所でもあるのです。

クリスチャンは世界中の教会で礼拝をし、かつみことばを学び、教えを受けています。
本日の箇所は、その教え、みことばの教えに関する箇所です。

"

15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」"
 

ここでは、教えと学びに関して語られています。
私達がメッセンジャーになる、有名な牧師になる、すばらしい説教ができるようになりたいと
願う時、気にかけるポイントはどこでしょうか。
有名な神学校を出る、外国の神学校を出る、そんなことでしょうか。

しかし、模範的なメッセンジャーである、イエスキリストの方法は違います。
主は、正規に学んでいない、今でいうなら神学校を出ていないで、メッセージをしています。
私の理解では、主はひとつの模範をここで示していると思われます。
ここで、主イエスが律法学者のように、学びの学校へ行き、それにより、
素晴らしい知識を得て、働きに入ったというなら、我々はそれを模範にするべきです。
しかし、主がそうでないのなら、逆にこのこと、学校は必ずしも、神の働きにおいて、必須ではない、
逆にこの当時の律法学者、パリサイ人のように、下手な学びが逆に仇になる、惑わしにはいるもととなる、そのことをも知るのです。

”16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。”

ここでは、2つの教えについて書かれています。すなわち、
1. 自分からの教え
2.遣わした方の教え

ここには、いやしくも神のメッセンジャーとなることを志すなら気をつけるべき、
大変大事なことが書かれていると私には読めます。

世界中の教会で、メッセージが説かれ、語られていますが、そこには、2つの区分があることをあきらかにこの箇所は語ります。
2つとは?
すなわち、
1.自分からの教え、自分で考えだし、ひねくりだし、構想したメッセージを語る人。
2.遣わされた方すなわち、神からのメッセージを語る人

この2種類の区分があるのです。

もちろん、メッセンジャーに聞けば誰でも彼でも自分は「自分からのメッセージなど語っていない、
.神からのメッセージを語っている」というのですが、しかし、主がこのように、
区分した以上、その区分は必ずあるのです。神であるキリストはわざわざ決して起きない問題、
あり得ない危惧に対して警告を発したりしません。逆に大いに起こり得ること、
神からといいながら、実は自分の考えやら、どっかの注解書で拾ってきた、人間のたわごと教理を
語っていることは大いにあり得るからそういわれているのです。


17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。”
 

さて、もしそうであるなら、その区分はどうして行うのでしょうか?
すなわち、メッセンジャーが自分で考え出したメッセージを語っているのに過ぎないのか、はたまた、
その人が遣わされた方、神からのメッセージを確かに語っているのか、それをどう見分け、区分すべきなのでしょうか?

その答えがこの箇所です。
それは要するに聞く人の心次第であるということでしょうか。

1. その人が、神のみこころを行うつもりがあるなら、神からのメッセージを理解できる。
2. その人が神のみこころを行うつもりがないなら、神からのメッセージを理解できない。

そんなことになります。

そのようなわけで、神の前にメッセージ、教えを聞く人は区分されてしまう、このことを覚えてください。

このことは事実であり、主イエスの時代においても、イエスのことばを神からのものであると
正しく見分けた人とそうでない人とにわかれたのです。
理解できた人はどのような人でしょう?
それは、12弟子を始めとした神のみこころを行うつもりがある人でした。
彼らは、ナザレのイエスすなわち、聖書的にいうなら、神のキリストも預言者も
出るはずのない地域からの出身者、イエスのメッセージ、教えを聞き、これは、
確かに神からのものであることを理解したのです。

しかし、その反面このナザレ出身のイエスをまがいものであると杓子定規に決めつけ、
その教えを聞いても受け入れない人々もいました。彼らは、律法学者、パリサイ人です。
彼らは、白く塗られた墓のような偽善者であり、外見はともかく、その心の内側は、
神のみこころを行おう、正しく従おうなどとは思っておりませんでした。
結果、彼らはイエスの教え、メッセージをまじかに聞きながら、それが
神からのものであることを理解できなかったのです。

さてこのことは過去のことですが、しかし、未来に対しての
預言また、警告です。
何をいっているのかというと、同じことが終末の日に繰り返されるということをいっているのです。
かつてのイエスは明らかに正統派に属していたのでもなく、律法学者のエリート集団にいたのでもなく、
ありえないところ、ナザレ出身の大工に過ぎませんでした。
外見やら、その所属や資格を考えるなら、資格なしとして、退けられ、間違えられ
やすい存在だったのです。
結果、多くの人間的なことしか見ない人はイエス の見分けに失敗し、
振り分けられ、間違えてしまったのです。

何故か?何故神はそんな間違えやすい方法でキリストを遣わしたのか?
そう思わないでもありませんが、しかし、昔も今もこれが神の方法であることを知りましょう。
真に神のみこころを行う意志のある人々とそうでない人とをふるいにかけるため、あえてわかりにくい、
この方法を用いられたのです。

繰り返しますが、今も同じ方法が使われるでしょう。
人間的には、そんな馬鹿な、あり得ないという類いの人が真に神からのメッセージを、
語り、逆にいかにも正統、学歴優秀、立派な神学校を出て、有名、そんな教師が
実は人間的な教え、自分からのことばを語っている、そういうことはありえるのです。

そして人間的なこと、外側しか見ない人は結局は見分けられないでしょう。

そうです、よりわけが起ころうとしており、人々がふるいにかけられようとしているのです。

人の外見にかかわらず、その人が語ることがもし、神からのメッセージであるなら、それはそれと理解できるように求めること、
そのことが大事なのでしょう。
 

18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。”

メッセージをする人には、2種類の人がいることを語りましたが、その一つは、
自分から語るものです。自分から語るとは要するにその源をさすと思われます。
自分の持っている生まれつきの力、能力、雄弁さ、これらから語るものは結局は、
自分自身の栄光を求めるようになる、それが、結論である:この箇所はそう語っているように
思えます。

もちろん、教会のメッセンジャー、礼拝のメッセージを語る人に、
私は自分の栄光を求めています等と言う人は誰もいないのですが、
しかし、聖書がそういうならそうなのです。

自分の能力、生まれつきのものに頼った説教は結局は自分の益、ほまれを求めるようになるのです。

しかし、もう一つの方法、メッセージの方法があり、それは神の栄光、メッセンジャーを遣わした方の
栄光を求めると言う方法です。
その様にして行われるメッセージは、「真実であり、その人には不正がありません。」

このことを具体的に見てみましょう。
自分を遣わした方の栄光を求める方法とは、たとえばどんな方法でしょうか。
主イエスの方法、メッセージの仕方は我々にとって、模範となるでしょう。
 

主は律法学者達に対して、蛇よまむしのすえよ、と語り、説教しました。
このことは少し極端な例かもしれませんが、しかし考えてみましょう。

もし、主が自分のこと、人からの評判、また自分の命の危険性を考えていたなら、こんなことばは
決していえなかったはずなのです。

律法学者はイエスの多少のことには目をつぶっていてもしかし、いざメッセージが自分のことに
及び、自分達の評判やら、地位迄危うくなりそうなので、怒り出したのです。
このイエスの語る言葉により、律法学者は、怒りだし、イエス追放、否殺害の
気持ちを固めていったのです。

ですから、もし、主イエスが自分の評判、自分の地位、自分の命の危険を顧みていたなら、
このことば、律法学者に対する「蛇よまむしのすえよ」とのことばは決していえないことば、
語れないメッセージだったのです。

このことばはいうのは簡単そうでもしかし、その結果、失うもの、払うべき代価を考えたら、決して
いえない、ことば、自分の評判を考えたら、いえないことばだったのです。
しかし、主はあえてそう語り、結果、怒った
パリサイ人、律法学者に命を狙われ、事実十字架で命を失いましたが、しかし、
何はともあれ、主は語りつづけたのです。

何故、主はそんな危険を犯して迄、律法学者の怒る様なことば、「蛇よ、まむしのすえよ」との
非難を語り、しかも、激しいことばで、明確な非難を語ったのでしょうか?

私にはたった一つの理由が見えます。その理由はたったひとつ、それは、
イエスを遣わされた方、神御自身がそう語るよう、うながしたからです。

さて、これが自分の栄光を求めず、自分を遣わした方の栄光を求めると言うことなのです。
いうはやすし、しかし、払うべき価の大きな道であることを理解いただけるでしょうか。
 

さて、今の時代においてもやはり、2種類のメッセージがあり、2種類のメッセンジャーがいることを覚えておきましょう。

はっきりいいますが、今の時代は多くのメッセンジャーが、自分からのことば、教えを語り、
自分の栄光を求め、人から非難を受けまいと歩む時代です。

結果、どこにもあのあほたれ和製シオニストを非難する人も、またあの
トンデモ教理、2段階再臨説を非難する人も、はたまた聖書かいざんの偽りを非難する人もいません。

しかし、正しく主の栄光を求め、これらの公然たる神への反逆に
剣を持って戦うものにみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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