NO.604 キリストの肉を食べ、血を飲む


”テキスト:ヨハネ6:48 わたしはいのちのパンです。
49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」”

本日は「キリストの肉を食べ、血を飲む」という題でメッセージしたいと思います。
かつての日、キリストは自分の肉を食べ、血を飲むことを語りました。
そのまま取れば人肉食いを奨励しているのかと誤解しかねない
不思議なことを語ったのです。このことの意味合いを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。

”48 わたしはいのちのパンです。”

パンはみことばに関するたとえであり、キリスト御自身がいのちのパン、みことばであることが
語られています。


49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。”

ここでパンに関連して2つのことが書かれています。
すなわち、
1. マナ:先祖が食べたが死んだ
2. 天からのパン:食べると死ぬことがない

このことを通して何を主は語っておられるのでしょうか?
理解できることは同じパンでも、食べてしかし、やはり死んでしまうという類いの
パンがあり、また、一方、食べると死ぬことがない、そういう類いのパンがある:
その2種類のパンがあるということです。

そのように聖書にかかれている以上そのことは事実であり、教会には
2種類のパンがある、そう理解することが正しいと思えます。

事実教会には2種類のパンがあります。食べて結局死に至るパンもあるのです。
たとえば以下のパン、みことば、教理は人を死や滅びに追いやります。
悪霊の第三の波推進教理、2段階再臨説、魔術的なヤベツの祈り、練獄の教理。

それと反対に真にキリストから来たみことば、教理は人を命に至らせます。
 

「天から下って来たパン」

パン、神のことばに関して天から下ってきたことが強調されています。
真に命に至るパン、神のことばは、天から下る、そう書かれていることに目を止めましょう。
事実私達を生かすパン、神のことばは天から下るものなのです。

天から下るという表現でしか語れない方法で神がみことばを下さることがあります。
そしてそのことばを与えられたとき、我々は生きるのです。

ある兄弟のことを聞いたことがあります。
その兄弟は長い間、神学校へ通っていたのですが、
しかし、その神学校を卒業することも、地方へ牧師として
派遣されることもありませんでした。
 

彼の語るメッセージが
教団の方針と会わないということで、教団内でうとんじられていたのです。
そんなある日、彼は教会のイスラエル派遣(旅行)の一員として
参加しました。その旅行の終わり頃、ガリラヤ湖のホテルへ泊まった朝の早天の
時に彼に預言のことばが来ました。

それはかつての日、同じガリラヤ湖で、主がペテロへ語ったことばです。
彼、ペテロがヨハネのことを気にしてきいた時、主の答えたこのことば、
「たとえ、私が来るときまで彼が生きながらえることを私が臨んだとしてもあなたと
何の関係があるか。貴方は私に従いなさい。」そのことばが来たのです。
 

このことばが来たとき、彼のこころは一変しました。いままで、
自分は他の神学生より、遅れている、自分は用いられないと思っていたのですが。
しかし、「そうだ、自分には自分の道があり、それを主が用意して下さる」と理解できたのです。

それからしばらくして彼は教団を追い出されてしまったのですが、しかし、主の計画してくださった
働きにつくことができました。
このとき、与えられた、天から与えられたことばはまことに神からきたものだったのです。
 
 
 
 


51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。”

このパン、主が天から下さるパンを私達がこの限られたクリスチャン人生でもらうことができるか
いなかは私達の永遠の命に関係します。
簡単にいえば、このパンをもらう経験を多くする人はこの人生において、いのちのあるクリスチャンになります。そうでない人はそれこそ、死んだような歩みに入るでしょう。

これは世の中のことを考えればたやすく理解できることです。同じように
2人の人がハイキングに出かけるとします。一人はリュックの中にパンのサンドイッチがたくさん入っています。彼は疲れてもそれを食べ、力を出して歩いていくでしょう。他方、もう一人の
リュックの中の弁当箱はからっぽです。パンもおにぎりもありません。彼はしばらく歩いていても、
もう夕方頃には空腹で一歩歩けなくなるでしょう。
 

パンがあるかないかは私達の命の大いに関係するのです。信仰の面においても同じです。
キリストのことば、天からのことばをいつももらい続ける人は命にあふれ、決して死ぬことはない、また
弱りません。


53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。”

さて、ここで主は肉を食べろ、人肉を食べろ、血を飲め、人の血を飲めと
普通に聞けば気持ちの悪いことを語っています。

この肉とはみことばのことであり、血は聖霊のことです。そういえば、気持ちが悪い言葉でもないし、
人から誤解を受けることもなかったでしょう。

しかし、主はあたかもわざとそうするかのように、誤解を受ける表現、人の肉を食べる、血を飲むということを語っているのです。何故、そう主は語られたのか?

それを考えてみましょう。
一般的な考えとして、人の肉を食べる、血を飲むということは抵抗が在る、人には受け入れがたいことであると言うことがあります。そして、この時、ユダヤ人達もまさにイエスのことばに
対して、そのように、人肉を食べる、人の血を飲めなどととんでもないことをいうと
反応しました。

そのようにあえて、イエスがいわれたことには意味があり、それは、イエスの体、
パンであるみことばとは、まさにそのようなもの、人がすぐには受けられないもの、
食べろといわれても、すぐには食べられないものであるからなのです。
人肉を食べろといわれてもはいそうですとはいきません。同じく主のいわれたこと、
また聖書のことばとは、さあ食べろ、信じろといわれてもはいそうですかと簡単には信じられない、
そういう類いのものなのです。

はっきりいいます。イエスに関することがら、また聖書の
ことば、それは人にすぐ受け入れろ、食べろ、信じろといわれても、そうしがたい、
いいかたを変えると食べづらいものなのです。

イエスは処女マリヤから生まれたと聖書はいいます。
しかし、男女が結婚して始めて子供ができると思い込んでいる
人々にそれを受け入れさせるのは難しいです。

さらに復活の事があります。
人は死んだらそれっきりであり、どんな偉大な王も学者も政治家も
二度と生き返ることはない、これは常識中の常識です。
しかし、イエスは復活したと聖書は記します。そんなことはー私は
この世の考えに沿っていいますがー信じられるでしょうか?

「あの人のお父さん、病院で死にました。」
「それで?」
「ところが3日目に生き返って今では元気に会社に行っています。」
「そんなばかな!!」
普通の反応はこんなものです。

イエスキリストだからというのではなく、たとえ相手が誰であっても
生き返る、蘇るということは信じがたいことなのです。
 

それだけではありません。
このキリストが再臨する、2000年前のキリストが再度、
地上にやってくると聖書は語ります。
いったいそんなことー私は再度人間的なことを語りますがー
誰が信じられるのでしょうか?

紫式部は、キリストより1000年程後の人です。
その彼女がたとえば、世の終わりに雲に乗って来ると
いわれた時、私達はその話を信じられるでしょうか?
相手が紫式部だろうとはたまた、光源氏であろうと、
雲に乗ってくるといわれて、そうですねとはやはり信じがたいのです。

そんなわけで、キリストのことばを信じる、食べる、全て受け入れると言うことは、
人間的に考えるなら、なかなかハードルが高い、難しいことなのです。
ことばを変えた表現でいえば、それこそ、人肉を食べるにも似た、
勇気のいること、決心のいることなのです。
 

主があえて、キリストのことばを受け入れることを人肉を食べることとなぞらえて
語られたのには意味があり、このこと、キリストのことばの受け入れがたい面を語っていると
思われます。

しかし、キリストのことばのもう一面があり、それは単に受け入れがたい、
万人に受け入れられないということだけではありません。
 

それは、このように受け入れがたいことばではあるが、しかし、そのことばを
受け入れ信じ、食べる人は命を得る、永遠の命を受けると言うことです。
万人には確かに受け入れがたいが、しかし、それをあえて受け、信じ、食べる人には
特別な恵みがある:そういうことなのです。

私が子供の頃は富山の薬売りのおじさんが東京の家々を回っていました。
その薬の一つに「熊の胃」という薬がありました。色は黒いし苦いのです。
しかし、それを飲むと腹痛がなおります。

黒いし、苦いし、その上、熊の胃だの何だか恐ろしげな名前で、
飲むには大いに抵抗があるのです。しかし、それをあえて飲むと、腹痛が
おさまってきます。
みかけは悪いのですが、しかしあえて受け入れ、飲むと効果は抜群なのです。
キリストのみことばもそんな面があるのです。
 

私達はキリストのみことばを受け入れ、その全てのことばを真実としていますが、
しかし、そのように思える、受け入れられるのは神の特別な恵みがあって始めてできることであり、
やはり、このことばは、万人に抵抗なく受け入れられるという類いのものではない:そのことを
覚えておきましょう。

”54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。”
 

このように受け入れがたいキリストのことばを受け入れる人こそ、永遠の命を受けるものです。
そして、その人こそ、終わりの日によみがえるのです。

私の肉を「食べ」、血を「飲む」と書かれたことばにも目をとめましょう。
食べると言う言葉を考えてみましょう。

食べると言うことは全面的に受け入れることをさす、そう理解できるように思えます。
おにぎりがあって、よくにおいをかぐと腐ったようなにおいがする、そんな時、我々は
そのおにぎりを食べるのはちゅうちょします。手にもったり、運んだりはできるのですが、
しかし、いざ、自分の口に入れ、腹にうけいれることはちゅうちょするものです。誰でも、
安心したもの、うけいれられるものしか食べられないものなのです。
肉を食べるという時、このように一見受け入れがたくみえるキリストのことばを全面的に
受け入れるのか、否かということが問われているのです。
 

このパン、神のことばを食べる、全面的に受け入れた人の良い例はあの
3人、
ダニエル書に書かれたシャデラク、メシャク、アベデネゴがいます。

彼らは神のことばに信頼し、たとえ、自分の命を失ってもこのことばを受け入れ、たよることに
心を決めていたのです。ネブカデネザル王の怒りがすさまじく、炉の火が7倍熱くなっても、
彼らは神のことばに信頼しつづけたのです。彼らこそ、神のことば、パンを「食べた」人々、
全面的に受け入れた人々です。

しかし以下の人々はキリストの肉、神のことばを「食べた」ことにはなりません。
*ダビンチコード、ユダの福音書は正しい、キリストは十字架に
かからず、マグダラのマリヤと結婚して子供をもうけたなどとたわごとをいう人々
*復活はない、再臨はないといっている人々
*進化論は正しい、創世記は神話であるといっている人々
 

これらの人々はキリストのことば、肉を食べたわけではないので、
従って、永遠の命も受けず、終わりの日に復活することもありません。
 

”55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。”

人がその体を大きくし、成長しようと思うなら、良く食べ、飲むことは必須です。
お相撲さんもよくちゃんこなべを食べて大きくなるのです。
同じく私達がクリスチャンとして成長し、神の前に大きくなろうと志すなら、
キリストの肉、すなわちそのことばを「食べる」ことは必須であることを知りましょう。

アブラハムはそのようにして成長し、神の友と呼ばれたのです。
彼は神からの「子供が与えられる」とのことばを受け入れ、食べ、
それを信頼し続けたのです。
彼自身の体が100才にもなり、また妻も年をとっていても、しかし、
そのことばを受け入れ続けたのです。結果、みごとに子供が生まれたのですが、
しかし、その後も、神のことばを受け入れがたいことが続きます。

そのようにしてやっとの思いで授けられた子供、イサクを何と今度は
神の前にささげものとしてささげろとの神のことばが来たのです。
これもまた受け入れがたいことばでした、しかし、彼、アブラハムは
このことばを受け入れ、食べたのです。

たとえこの子供が死んでも、神は死者を蘇らせる方であることを信じ従ったのです。

結果、彼、アブラハムは、神に受け入れられ、命を受け、また永遠の命を受けるようになりました。
これは一つの型であり、アブラハムと、おなじく神のことばを受け入れ、真実とする人々は、彼と
同じ祝福を受けることになります。

このアブラハムの生涯を通して、キリストのことば、神のことばを受け入れ、食べ、全面的に
受け入れることはそれこそ、人肉を食べるように難しいことであることを知りましょう。
しかし、はっきりしていることは、それでもあえて受け入れる人は命を受け、また終わりの日に
よみがえるということです。

私達クリスチャンのこの世における生活とは、このようにちょっと目受け入れがたい、
しかし、真に受け入れる人には命となるみことばを受け、食べ、歩む生涯であることを知りましょう。
そのように、このクリスチャン人生において、常にキリストのことばを受け、食べ、真実とする人は、
命に満ちた歩みをし、終わりの日にはよみがえることになります。
食べつづける人は命を受け、その人はよみがえるのです。
人間の世界でも、ろくに食事していない人は力が出ず、仕事もできません。
しかし、食べて栄養をつける人は命と力にあふれます。

私達がキリストのことばを食べつづける、受け入れ続けるなら、命があふれ、よみがえりに至るでしょうが、反対にいつもキリストのことばを拒否し、受け入れず食べない人は欠食児童みたいなもので、
がりがりにやせて、蘇るどころか、御臨終、死にいたります。

何でもかんでもキリストのことばを否定し、史的イエスだの、きいたようなえらそうな言い方で
阿呆神学を振りかざす阿呆教師、阿呆学生達こそ、この死に至る欠食児童達です。
彼らのためにゲヘナの火は用意されているのです。

”59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」”
 

キリストのことばは全ての人に等しく、へだてなく受け入れられる、そういう類いのことばではない、
そのことはよくよく覚えておきましょう。
この時も弟子達、キリストのことばに従おうとした人々でさえ、そのことばにもうついていけず、離れてて行ったのです。

今も同じであり、多くの自称弟子がキリストのことばをそのまま受け入れることも、食べることもせず、
逆に、勝手な注釈をつけています。いわく復活は本当には起きなかった、再臨はない、
同性愛は犯罪的なものでないなら、許される、大
艱難時代の前にクリスチャンは挙げられる。

これらのことを言いつのる人々は、決してキリストのことばを食べている、すなわちそのまま
受けているのではないのです。逆に勝手にことばをすりかえ、改ざんしているのです。

しかし、ポイントはキリストのことばを食べる、そのまま真実として受け入れる人にあります。
その人々こそ、後の日によみがえるのです。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------168071508944249 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""