No.603滅びる食物

〜教会で語られる、滅びに至る教えについて見ていく〜

 

【テキスト】ヨハネの福音書6:2227

22.その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。

23.しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。

24.群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。

25.そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」

26.イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

27.なくなる(ほろびる:KJV)食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

 

本日は「滅びる食物」という題でメッセージしたいと思います。テキストに沿って見ていきます。

 

22.その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。

 

この日、群集はイエスや弟子たちを追い求めていました。あのイエス、自分たちにパンを食べさせてくれ、魚を食べさせてくれたイエスはどこにいるのか、私たちはそのイエスを見付けたい、それが、彼らの希望だったのです。

 

パンを食べた群集がそのパンを与えた器、イエスを追いかける、このパターンは今でもキリスト教会では、よくあるパターンです。

 

フリーメーソン、悪魔礼拝者ビリー・グラハムのクルセードに福音派の人が群がり、このエキユメニカル賛成、カトリック擁護、近代神学牧師ウェルカムの話をありがたく拝聴するなんてことがあるように、パン、メッセージには人が群がるものなのです。

 

23.しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。

24.群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。

25.そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」

 

この熱心な群集はさらに船まで利用して、イエスと弟子たちを追いかけたのです。船にはたとえの意味合いがあります。船は水の上を移動するものとして、教会のたとえです。

 

なぜなら、教会も命の水、聖霊の水の中を動き回るものだからです。船には漁師が乗り込み漁をするものですが、同じく教会にも「人間を取る漁師」、牧師や伝道師が乗り込み、漁、伝道を行うのです。

 

ですから、ここで書かれている舟は明らかに水、聖霊と関係した意味合いでの教会を現します。

 

彼ら、群集が舟に乗って、イエスや弟子たちを探しに来たという時、明らかにそのたとえの意味合いは霊的なものを求めて、イエスや弟子、すなわち器を追い求める群集の姿が描かれているのです。

 

現在のことばで言えば、油注ぎの器や、金粉、金歯のしるしを求めて日本中、果ては海外にまで聖会巡りをするクリスチャン、信者の姿を現していると言えます。

 

ベニー・ヒンの追っかけをしている、霊の見分けゼロの海とも山とも言えない、情けない牧師のところに沢山の信者が詰めかけているなんていうのも、この類いです。

 

26.イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

 

さて、このように苦心さんたんで追っかけて来た群集に対して、主は、暖かいことばで、出迎えた、とは聖書に書かれていません。逆に半ばつれないようなことばを語っています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、・・・パンを食べて満腹したからです。」と言われました。このことばのニュアンスから、パンを食べればいい、メッセージを聞けばいいというものではないということが感じ取れます。

 

もっと分かりやすく言うなら、教会と名が付けば、キリスト教の話と言えば、どんなパン、メッセージでもいいというわけではない、そのように聞こえるのです。

 

パンで腹を満たした、腹が満ちた、それだからどんなパンでもいいとは言えないぞ!そんな風に聞こえるのです。

 

27.なくなる(滅ぼす:KJV)食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

 

この「なくなる食物」と書かれた箇所は、KJVでは「滅びる食物」と書かれています。原語の意味もそうなっています。ここで使われている原語は以下の箇所で使われている<殺す>ということばと同じものです。

 

参照 マタイの福音書2:13

13.彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して<殺そう>としています。」

 

ですから、明らかにこの箇所では「滅ぼす食物」について語られているのです。日本語の聖書の訳、「なくなる食物」なんていうトボケタ訳では、本来の意味合いが伝わってきません。

 

いつものことですが、今の日の日本語聖書は、本当に詐欺みたいな訳です。

 

さて、ここで主は食物に関して以下の2種類の食物があることを明らかに語っているのです。

 

 

1.滅ぼす食物

2.永遠の命に至る食物

 

そのように主が言われた以上、食物にはこの2つ、滅ぼす食物と永遠の命に至る食物がある、我々はそう理解しなければなりません。

 

滅ぼす食物とはどういうものなのでしょう?世の中にも、滅びや死に至る食物があります。癌を引き起こす添加物やら、色素、はたまた危険な遺伝子組み換え食品、また、狂牛病菌入りの牛肉などがあるのです。

 

これらは見た目そう見えなくても毎日食べていくうちに死や病をもたらします。同じように、キリスト教会にも一見そう見えなくても、食べ続けていくうちにいずれ確実に死に至り、病に至り、結局は滅びに至り、永遠の命を受けられない、そういう類いの食物、すなわちメッセージが存在するのです。

 

そんな馬鹿な、教会で語られるメッセージは皆、神聖で、神からのものだなんて言う人がいるかもしれませんが、主が明らかに「滅ぼす食物」と言う以上、その類いの食物が教会にはあり得るのだと理解すべきなのです。

 

実際そのようなメッセージ、滅びに至るようなメッセージは教会で沢山語られています。あの愚かな2段階携挙説などもその際たるものです。

 

2段階携挙説は、キリストの再臨が2回にわたって行われる、その最初の再臨は、艱難の前(もしくは中)であり、艱難が過ぎ去る迄、教会は天に挙げられると語ります。

 

艱難時代が終わったら、キリストの2度目の再臨があると語ります。人間には都合が良いが、しかし、全く聖書の教えを逸脱したカルト教理です。

 

しかし、このような教えは人の耳には良いが、結局は人を滅びに追いやる恐るべき滅ぼす食物であると私は断言します。

 

なぜなら、この教えに従い、洗脳される人々は、皆、終末の備えを怠り、油断し、結局は何らの備えなく、艱難時代に巻き込まれ、反キリストを拝み、神の怒りを買い、滅びに直行し、永遠の裁きに入っていくからです。

 

また、カトリックで言う煉獄という聖書的には根拠のない教えも、また、この滅ぼす食物、パンの一つでしょう。

 

この教えのために、今の時代は、まあのんびり、適当にクリスチャン生活をしていれば良い、その後、煉獄に入った後、そこで頑張ればいい、なんて、惑わされる人が多くでるのです。

 

しかし、パウロは、こう言わなかったでしょうか?走る者は多いが賞を得るのは一人だけである、我々はそのように走るべきであると。のんびり、適当にクリスチャン生活を送っても大丈夫であるかのように錯覚させる煉獄の教えは、このパウロのことばと真正面からぶつかる非聖書的な教え、滅びる食物なのです。セカンドチャンスも同じ類いの滅びに至る食物です。

 

 

これらの食物を警戒しましょう。

 

 

終末における主の御心をおこないましょう。

 

 

−以上−