NO.602全地の全ての人に臨む日


”テキスト:ルカ21:
34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
(kJV訳:For as a snare shall it come on all them that dwell on the face of the whole earth.:それは、わなのように全地の表に住む全ての人に臨むからです。)
36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」”
 

本日は、「全地の全ての人に臨む日」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。


34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。”

その日、終末の日はわなのように臨むことが書かれています。
このことは確かに銘記すべき、非常に大事なことと思われます。

聖書は親切な書であり、あらゆることに関して懇切ていねいに書かれています。
救い、教会、神の律法を守ること、みな詳しく書かれているのです。必要なことがらに
関して必要な説明を与えられる:
神はそのようなお方です。
しかし、もう一つの面があり、神は背信の民のためにわなの様な日を設けている、このことをも知らなければなりません。
神の一面、侮られる様な方ではない、このことは繰り返し繰り返し肝に命じていなければなりません。

かつての日、ナザレのイエスキリストが現れた日もまさにそのような日です。
わなの日だったのです。
福音書を読むとあらゆる人がメシヤ、キリストの来臨のことを話題にしていることがわかります。
初降臨のキリストのことです。
バプテスマのヨハネに対して、回りの人が「来るべき方はあなたか」ときいた時、まさに
このキリストの来臨のことをいっていたのです。
メシヤ、キリストがいずれ、ユダヤの地に来臨するということは、神の民に
とって、周知の事実だったのです。広く行き渡り、誰でも知っている、
わかっていることがらだったのです。

しかし、それらの自称「知っている」人々が、全く裏をかかれ、
全くわなにかかるような方法で、実際のイエスキリストはやってきました。
ナザレのイエスという方法がそれです。
ナザレというメシヤ降誕と何らの関係ないところの
出生なので、イエスはキリストでないとみな、早合点し、
偽善者は十波ひとからげで間違えてしまったのです。
彼らはわなにかかったのです。
 

ユダ、エルサレムにおいて背教の歩みをし、偽善の歩みをしていた、律法学者、パリサイ
人はみごとにわなにかかり、何と神のキリストを殺害するという大罪に
手を染め、恐ろしい裁きに直行したのです。

まことにわなは彼らにかけられ、人前の事のみ気にかけていた偽善者達は、
一網打尽にせられ、皆、罪あるものとして断罪されてしまったのです。
 

福音書には多くの事柄が書かれ、多くの面がありますが、
その一つの面は、「わなにかかった背教の神の民」という面が
あることを知らなければなりません。

そして、私達はこの過去の失敗した人から学び、我々終末を迎える時代に生きるものとして、
彼らの失敗から教訓を得なければなりません。

何故なら、同じわな、失敗、とりちがえが必ず終末の日にも再現されると
思われるからです。
 

聖書が終末に関連して、「その日がわなのように、突然あなたがたに臨む」という時、
かつてと同じように再度終末には、わなが設けられていることを暗示していると理解できます。
そう、わなは着々と設けられているのです。
 

かつての日、イエスの時代におけるわなは完璧でした。イエスキリストは、300以上も旧約聖書のメシヤ預言が成就しているのに、皆まったく間違えたからです。みごとに偽善者やら、不法を行う人々はこのわなに落ち込みました。しかし一方、12弟子を始めとした、
主につく人々はこのわなにかからず、正しく神からの人、イエスを見分け、祝福に入ったのです。

これらの教訓をもとに、考える時、
終末に住む我々にとって、大事なことは、
1. このわなが終末に関して再度必ず設けられていることを理解し、
2. そのわなに気付き、避けること
このことなのです。

しかし、残念ながら、上記の終末の「常識」を持っているクリスチャンは今の時代、ほとんどいません。
逆にみな、艱難前(中)携挙説のいつわりにすっかり安住し、自分達は
艱難の前にあげられるから大丈夫と根拠のない安心にひたっています。
まことにこの教え2段階携挙説はサタン由来の教理であり、人々を大いにわなに
かけています。

そうです、艱難前(中)携挙説こそ、終末の日に神の許しの下で、出回ったわなの
ひとつであり、聖書を投げ捨て、人の声に聞き従う愚か者をわなにかけるため用いられています。

愚かな人々、神のことばより人の声を真実とし、聞き従う人々は2段階携挙説(キリストの再臨が2回あるとの嘘説)を始め、あらゆる終末のガセネタをせっせと
発行し続けますが、しかし、そのような行いは、人をわなにかけ、陥れるための
落とし穴を作る愚行であることを知らなければなりません。
 

「その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」

ここでは、わなによくよく気をつけることが書かれています。
そのように聖書が終末の日に関んして語るなら、それはその通りであると考え、謙虚に受け止め、
必ずわなはしかけられると理解し、自分がその失敗に入らないよう、気をつけるべきなのです。
愚かで思い上がっている人は結局は惑わされます。

その日とは終末のある日、具体的には、あの7日目、7つ目のミレニアムであると考えられます。
ですから、我々7つ目のミレニアムに生きる人々は、わながかけられ、
わなや落とし穴がいくつもいくつも仕掛けられている危険な時代に生きているのです。

その目で見るなら、もうすでに人々が気付かない間にキリスト教会には、いくつものわなが
しかけられていることに気付きます。

その一つは、終末の獣国の台頭です。
ダニエル書、黙示録は口をそろえて、終末の獣国に気をつけるよう、
この国を見分けるよう語ります。
この国こそ、終末の鍵であり、キリスト教破壊、聖徒への迫害はこの
国を起点に起きるからです。
 

この国はもう既に出現しているのですが、わながかけられ、この国がそれである、
獣国であると気付かないよう、カモフラージュされています。
あたかも落とし穴の上に草がかぶせられ、気付かないようになっているのです。
それで、愚かなお声系の新聞を始めとする人々は、すっかりまどわされ、アメリカは聖書に
出てないなどと、全く逆の嘘迄宣伝するありさまです。
彼らは盲人であり、聞き従う人々は穴に落ち込むでしょう。

また、もう一つのわなは、あの悪魔民族に関する嘘です。
史上最悪の悪魔民族は、何と神の民、約束の民に偽装してクリスチャンを惑わすために
用いられています。まるで、赤ずきんちゃんを惑わす狼、お婆さんに化けた狼みたいなものです。
しかし、この狼、うまく化けたつもりでも、やはり、怪しいところが残ります。
お婆さんにしては、耳が長い、口も大きいからです。
この点に気付き、見分け、逃げ出せば、赤ずきんちゃんの命も守られるわけです。
さて、うまく化けた悪魔民族にもみわける特徴、ヒントがあります。というより、彼らが本物の神の民でなく、逆に悪魔民族であることを見分けるたくさんのヒントがあるのです。
それは、セム族、黄色人種にしては色が白いこと、神の民、平和の民にしては、パレスチナ人虐殺
、土地略奪などを繰り返していること、また、進化論、無神論共産主義、大量殺害兵器原爆製造など、あらゆる不幸や冒涜に関係していることなどです。

もう一つのわなは、悪霊のわなです。聖会の真ん中で、聖霊ならぬ悪霊を下すと言うわなです。

さて、この様にいくつものわなが終末にはすでに仕掛けられているのですが、
情けなくもこれらの全てにひっかかっている教会、クリスチャンもいます。
 
 

”35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。(KJV:それは、わなのように全地の表に住む全ての人に臨むからです。)”
 

それはわなのように全地に住む人々に臨むことが書かれています。
それで、この惑わし、わな、偽りは局地的なものではなく、全地、全世界に
及ぶものであることがわかるのです。
 

上記で見た2段階携挙説の偽り、偽ユダヤ人の偽り、獣の国のわな、悪霊リバイバルの
わななどは、皆どれもこれも全世界的なものであり、全世界の教会に関係するものです。

これらの偽り、わなは相まって、終末のクリスチャンに対して、実際の聖書が語っているのとは、
別の、異なる、非聖書的な「終末のイメージ」をつくり出しています。
結果として、この偽りのイメージが骨の随迄しみ込んだ人々は、たやすく反キリストを拝み、
神の怒りを受けるようになるでしょう。

彼らの心にはいくつもの終末の嘘、わなの教理がおりなす、真実と逆のバーチヤルな「終末のイメージ」ができあがっているのです。

いわく第三の波のリバイバルが広がって世界中に聖霊の風が吹く、
いわく艱難時代はいずれ来るが我々はその艱難の前に挙げられる
いわく、中東のイスラエル人が第三神殿を作り上げる
いわく、いずれヨーロッパに反キリストが出る(今はまだヨーロッパに反キリストが出現していないので、終末には至っていない)

これらの作られた人工的なしかし、非聖書的な終末の幻想は結果としてわなとなり、
終末の日に多くのクリスチャンを惑わし、真実を見させなくするのです。

それは、かつての日、イエスの時代の人々がみな、わなにかかり、ダビデの子として、
政治的な王として、来るキリストというイメージのゆえに間違えたことに通じます。

”36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
(
 KJV:Watch ye therefore, and pray always, that ye may be accounted worthy to escape all these things that shall come to pass, and to stand before the Son of man”ですから、目をさまし、あなたがたが、やがと起ころうとしているこれらのすべてのことがらから逃れるに、ふわわしい者とみなされ、人の子の前に立つことができるよう、常にいのりなさい。)

ここでは、自分がこれらの全てのわなから逃れるにふさわしいものとみなされるよう、
常に祈ることが書かれています。このことばは非常に示唆に富んだことばです。
いわんとしていることは、神がある人を「わなから逃れるにふさわしい」とみなしたら、
始めてその人はわなから逃れられる、しかし、神がそうみなさず、思わないなら、
誰も彼も同じくわなに巻き込まれていく、そう理解できるからです。
全ては神がその人をどうみなすか、考えるかに尽きるのです。

このことは真面目に考え、考慮し、熟考すべきことがらと思われます。
何故なら終末に関してそんなふうに思っている人などほとんどいないからです。
逆にみな、誰も彼も終末に関して、自分だけは大丈夫、絶対間違えないと思っています。
これは根拠のない自信だと思えます。

主は明らかに終末の日は、ノアの時のようである ロトの時のようであるといわれました。
ノア、ロトの時の共通の特徴は、多数の人は滅び、ほんの小数の人が救われたことです。

そして、滅びる大多数の人にとって、その滅びの日は、まるでわなの様に臨んだ、そのことです。
この様な明白な警告を語られているのに、みな何故だか、わながかけられること、そのわなに
大多数の人が結局はかかるのだということに思いをはせません。

逆にそのこと、大きなわなに関して警告を述べる人々を異端扱い、カルト扱いするありさまです。
警告者は、正しい警告を述べたために、人々から、トンデモ扱いをされています。
いわく、悪霊のリバイバル、2段階携挙説の偽り、偽ユダヤ人の嘘..。
これらを正しく述べたために逆に人からうとまれているのです。

あたかもかつての日、洪水の到来を警告したノアが人々から、
笑われたり、また、ソドム、ゴモラが火で滅ぼされることを述べたロトが
嘲笑されたことの再現のようになっています。

しかし、そうではあっても神のことばが正しく、人々がわなにかかると
書かれたことは実現することを知りましょう。

耳のある人は聞いてください。

終末における主のみこころを行いましょう。
−以上ー -----------------------------141511461516657 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""