NO. 600いちじくの木の下で


”テキスト:ヨハネ1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」”
 

本日はいちじくの木の下でという題でメッセージしたいと思います。

テキストから見ていきます。

”44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」”

この日、ピリポはイエスをナタナエルに紹介しようとしました。

”46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」”

しかし、ナタナエルは言下にこのイエスを受け入れることを拒絶しました。
それは、このイエスがナザレ出身であると聞いたからです。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」
このナタナエルのことばは、聖書に基づいたものです。聖書は、 ナザレからメシヤから
出るなどといっていないのです。

彼の判断は一般的には妥当と思われるもの、聖書的なものでした。
しかし、我々は、その判断は最終的には誤ったものだったことをも覚えておかなければなりません。
このことはあたかもひっかけ問題みたいなものです。何故なら、
主が生まれたのは、両親が人口調査のための旅の途中の地、ベツレヘムだったのです。
しかし、多くの人はそんな事情まで知らず、ただ表面的なこと、「ナザレ出身」ということしか
見ず、結果、このイエスを見誤りました。
ただ、正しく主につく人々のみ見分けたのです。

同じことが終末にもあるでしょう。
表面しか見ず、真実を見失うということが。
 


47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」”
 

さてこの様にしてあまり期待せずにナザレのイエスにあったナタナエルに関して、
初めてあったにも関わらず、主はよいことばを語られました。
このナタナエルが本当のイスラエル人であること、偽りのない人であることを
既に知っておられたのです。初めてあったにも関わらず、既に彼を知っておられたのです。

この箇所で注目すべきことは、このこと、私達が主に会う、それより早く主は我々を御存知である、
そのことと思われます。


48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」”
 

初めて会ったにも関わらず時分の事をいわれたナタナエルは当然の質問をしました。
何故あなたは私を知っているのか?
それに対する主の答えは普通にきくと何気ないことばのように思えます。
「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」といわれたのです。
当事者でない我々にはこのことばが特別な意味があるようには聞こえません。
イエスがナタナエルを井戸のそばで見ようと、山の上でみようとはたまた電車内で
見かけようとどれも変わりないように思えます。

”49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」”

しかし、このことば、「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」は、
ナタナエルのイエスへの態度を一変させてしまいました。
突然彼は態度を豹変させてしまったのです。
 

何が彼をそう激変させてしまったのでしょう?一体いちじくの木の下で
ナタナエルは何をしていたのでしょう?

そのことは何も書いてないので、我々にはわかりません。ただ、このイエスのことばが
ナタナエルの心の核心をついたのだろうことは想像できます。

いちじくの木の下で何があったのでしょう?
個人的な想像ですが、私にはこんな風に思えるのです。

彼、ナタナエルにとっていちじくの木の下は特別な場所、恐らく彼がいつも
祈っていた場所なのではと思えるのです。
彼はたとえば、夜の10時頃になると家族の誰にもいわずにそっと家を抜け出し、いちじくの木の下で
祈っていたのかもしれません。
そのいちじくの木の下へ行って。彼がどんな祈りをしていたのか、それも全く想像の世界なので、
あまり確定的なことはいえません。でも思うには、この背教の道を進む
イスラエルの同胞を救うための王、神の子があらわれる日のために祈っていたのかもしれません。
その場所、いちじくの木の下の場所は誰も知らず、彼ナタナエルと神だけが知っている場所、
またその祈りも誰にも告げずただ、彼ナタナエルと神だけが知っている祈りだったのかもしれません。

彼、ナタナエルの心の秘密、もっとも気にかけていたことは、「いちじくの木の下」ということばで、
現すことができるのかもしれません。そして、初めて会った人と思っていた、イエスがまさに
いきなりそのことば、「いちじくの木の下」について言われたので彼、ナタナエルはびっくりしてしまったのです。

初めて会った人にいきなり、ナタナエルにとって、もっとも核心的なことをずばり
言われたので、びっくりしてしまったのです。

さて、このことは ナタナエルにとって、真実ですが、しかし、私達にとっても真実であることを
覚えてください。

この聖書の箇所のメッセージ、語っていることがらは、私達が主に会う、その前から、
主は私達のことを御存じであること、また、私達が、もっとも気にかけている、まさに
その問題を主は御存知である、それがメッセージです。

”「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」”

何故、彼ナタナエルはイエスを神の子と呼んだのでしょう?
それは、神しか知り得ないことをイエスが御存知だったからです。
彼のいうことは、正しく、このイエスは神の子でした。

それでは、何故、ナタナエルはイエスを「イスラエルの王」と呼んだのでしょうか?
彼は、ナタナエルはイエスを預言者とは呼ばず、祭司とは呼ばず、しかし、この時、
イスラエルの王と呼びました。このことに何か意味があることがわかるのです。

王とはどういう人かというと、統治する人、正しく治める人のことです。
正しい統治とはどういうことかというと、領土をあまねく見渡し、
正しいものには良い報い、報賞を、また悪事を働く者には罰を与える、
そういうことといえます。

彼ナタナエルは自分の祈り、願い、神に仕えていること、それは、
誰にもいわなかったのかもしれません。
人は誰も知らない、その隠れた祈り、それを正しく評価し、
答えた方の存在にびっくりし、この方こそ、イスラエルの国をあまねくみそなわし、
真に統治される方、王であることをたちどころに悟ったのです。

さて、イスラエルの王ということばは、我々新約のクリスチャンにとっても無縁のことばではありません。
何故なら、我々クリスチャンも新約のイスラエルだからです。
そして、彼、イエスは、新約のイスラエル、教会の真の王であることを知らなければなりません。

イエスが教会の王であるという時、我々は名目をいっているのでもなく、
表面的なことをいっているのでもなく、実際にそうであるといっているのです。
 

真に教会を支配し、統治しているのは、牧師でも教団の長でもなく、
しかし、真の王であるイエスである、このことを正しく正しくとらえなければなりません。

”50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」”

このことばの意味合いはどういうことでしょう。私にはこのように理解できます。
あなたは、「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と私がいっているので驚き、
また私がこのイスラエルの国を統治しているのをみて、信じている。
しかし、私の統治はこの程度ではない、あなたはさらに大きく、私の統治を見るようになる。

”51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」”

「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」と書かれています。
このことばの意味合いは何でしょう。

私にはこう思えます。
御使いは、神に仕える霊です。
上り下りするのは、あちこちに足しげく通い、見渡し、
神の命令を行うために行き来するのです。

神の命令?すなわち、正しいものの祈りはそれを聞き届け、それに対する神の答えを行うために
御使いは上り下りするのです。はたまた、悪を行う人がおり、そのことに関する、
訴えがあちこちから起きてきたら、それを聞き届け確認するために御使いは上り下りします。そして、場合によっては、神による罰を下すために下ることもあるのです。

その様にして、神のもとに神の命令を行う御使いは上り下りするものなのですが、
しかし、ここでは、「人の子」の上、すなわち、イエスのもとに神の御使いが上り下りすることが書かれています。すなわち、イエスこそ、この教会を統治する王であり、御使いはイエスの命を行うために
行き来するこのことが書かれているのです。

この世の王もそのように国を治めます。国の
あちこちに王の役人やら、警官やらが配置され、その報告に基づき、正しい人は勲章を与えたり、賞状を与えたりします。また、盗人や、殺人者は逮捕したりするのです。

イエスこそ、全世界大の教会の王であり、その統治には見過ごすところがない、
このことを正しくとらえましょう。
私達の目には、見えることしか見えず、教会を治めているはずのイエスのことなど、
見えず、ただ人間である、教団のリーダーやら理事しか見えないかもしれませんが、
しかし、真にこのこと、主イエスが統治者であることを見る目は幸いです。

現実問題、教会の統治はイエスによってなされています。
また、イエスの統治は、善には正しく報い、また悪には、罰を下すようになされています。
 

たとえば大平洋戦争時における日本の教会のありかたには問題がありました。警察、特高から、詰問を受けた教会牧師は、皆、妥協し、背教していったのです。
その結果、戦後どうなったのかというと日本の教会は、力を失い、おかしな
教理に席巻され、世に勝つことができなくなったのです。成長も止まりました。

逆に韓国では、信仰で妥協せず、その結果、終戦後、韓国の教会は大いに伸びていったのです。
この2つの国の戦後の教会の成長は全く対照的です。その理由は何故か?
その理由は明確であり、教会を治める方が現に存在している、その方が忠実な者には正しく報い、
また裏切る者、不正な者には、その行いにふさわしく報われる、そのためなのです。
 

まとめますが、ナタナエルは自分の隠れた行い、誰も知らない、いちじくの木の下の
できごとを正しく知り、また理解、評価する方と出会い、この方こそ、イスラエルの真の王であることを理解しました。そして、ナタナエルの経験は、私達新約のクリスチャンにとっても真実です。
私達それぞれの「いちじくの木の下」のできごとがあるでしょうが、それを正しく見ておられる方を我々は教会の真の王として、
いただいていることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

−以上ー
 
 
 
 
 
  -----------------------------011013906415445 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""