NO. 598 平和のことを知っていたなら


”テキスト:ルカ19:
41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

 

本日は、「平和のことを知っていたなら」という題でメッセージをします。
テキストに沿ってみていきたいと思います。


41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。”

この日、主イエスは、エルサレムを見て泣かれました。
イエスの泣かれたことは意味があります。主は目に見えない神の形として、現れた方であり、
ある意味ここでは、神御自身が泣いているともいえます。
神は、エルサレムを見、嘆き、泣かれたのです。
その理由は明らかであり、このエルサレムがいずれ、神の裁きの中で、
滅びるからです。

「しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」

イエスにとり、エルサレムの滅びは確定的でした。事実、この時から、40年後、
エルサレムは ローマ軍に包囲され、最後の一人迄殺されました。
しかし、この確定的な未来は、エルサレムの住民の目から、隠されていました。
結果、エルサレムの住民のうち、そのことを知っていた人はいなかったのです。

繰り返します。この時は、以下の様な状況だったのです。

1. 近未来のエルサレムの崩壊はイエスの目にはっきりと見えており、
イエスはそのことを嘆いている。

2. しかし、エルサレムの住民の目には、そのことは見えず、
全く実感も恐れもない。
 
 

このことはそのまま正確に終末の日に繰り返されると思われます。すなわち、
1. 黙示録には、終末の日の教会の滅び、裁きが明確に預言されている。すなわち、
神の目には、その日が見えている。

2. しかし、終末の教会の目には、そのことが隠されており、何も見えない。
彼らは黙示録を読んでもそれが、何に関する裁きなのかということさえ、理解していない。


43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、”

この日における敵とは、具体的には、ローマ軍による攻撃です。このことは、正確に
成就し、エルサレムはローマにより、包囲され、四方から攻められたのです。
このイエスのことばは正確に適格に成就したのです。
聖書のことば、神のことばの正確さをここに見ます。
このことばは軽視すべきことばでなく、今の混沌とした世界において、唯一正しく未来を語るものなのです。

さて、多くの主イエスのことばは、その当時から見ると近未来のエルサレム攻撃において
成就しました。しかし、それは、また、終末の日をも見越した2重の預言であり、世の終わりに再現することをも知りましょう。

「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き」

教会の敵とは誰か?
イエスを憎み、ののしるタルムード偽ユダヤであり、クリスチャン殺害を叫ぶ、悪魔民族のことです。
塁とは何かというと、城壁を乗り越えるために用いるものです。
教会は以前は城壁に囲まれた安全な場所でした。そこには、
入り込む敵もなく、外は危険でも中は安心だったのです。
しかし、敵が塁を築き、城壁の中は入り込むようになると状況は一変します。

敵が大手を振って都の中を闊歩し、荒らし放題になるのです。

今教会で起きていることはまさにこのことばの通りなのです。
敵は塁を築き、もう城壁の中への侵入を成功しているのです。

キリスト教会のど真ん中で、悪霊リバイバルがぼっ発し、トロント、ペンサコーラを発信地にした
悪霊の金粉、金歯リバイバルは、世界中の盲人教会を席巻しています。
これは、もう敵が城壁の中に侵入していることを示すのです。

”44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」”

「地にたたきつけ」と書かれています。
地にたたきつけられるとどうなるかというと、泥がついて、服やからだが汚れてしまいます。

地は、天とは対照的なところ、この世をさすといえるでしょうか。
現在このことばは成就しており、今の教会の傾向をひとくちでいうと、
この世につく、世俗化でしょうか。

教会音楽も変化し、恋愛ソングみたいな、はたまた、
ロックのビートにのっているものがもてはやされています。
みためはでで、退廃的、この世の歌手とどこもかわらないような輩が徘徊しています。

はたまた不良牧師といって、いれずみしたり、ため口をきく、
不良が売りというわけのわからない牧師迄、出現しています。

ナルニヤ物語を始め、魔法推進のムーブメントももてはやされています。
まことにまことに教会は、世俗化しており、地にたたきつけとのことばは成就しています。

「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る」

石は以前見たように、弟子に関するたとえです。石が崩されるとは、弟子の歩みが崩される、
崩壊するというたとえでしょう。
このことばは、たとえばカソリックで成就しています。
カソリックで弟子の歩みをしているはずの神父は現在では、破廉恥なスキャンダルで有名です。スキャンダルのために払う賠償金の支払いのために破産する教区もアメリカにはあるとのことです。

”45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、”

この日、宮に入られたイエスは商売人たちを追い出し始めました。
宮は神を礼拝するところとして教会のたとえです。

商売人とは、売り買いを行うものとして、教会の教職者のたとえであると理解できます。
あがないとは買い取るという意味合いであり、お金に関係する言葉です。
売り買いすなわち、あがないを飯のたねにする、教職者こそここでいう
商売人で例えられる人々をさすと思われます。

彼ら、あがないに関係する教職者は、何と、宮から追い出されてしまうとここでは書かれているのです。
宮から追い出されたらどうなるのでしょう?
神であるキリストにより宮から追い出されたのなら、その人は神の前ではもう
宮にはいないことになってしまいます。よって、彼の宮における奉仕は神から受け入れられなくなります。

たとえ、物理的に彼が教会で、そのまま奉仕を続けていたとしても、その奉仕は神の前には、
無効、意味のないものになってしまうのです。
恐ろしいことです。

しかし、今はこのように、「宮から追い出される商売人」すなわち、教職者の大いに増える時代であることを知りましょう。
 
 
 


46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」”

ここで、主はこのエルサレムの問題、すなわち、平和のことを知るべき、神と和解すべきなのに、
その時を知らず、そのことを理解しない:そのことと関連して2つのことを述べています。
すなわち、祈りと強盗行為です。

この2つが彼らエルサレムの人々が、盲目になり
和解せず、滅びに向かったその原因となったのです。

「もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら」と主は嘆かれましたが、このことばの
ニュアンスは、KJVを見る限り、神と和解すべき最後のチャンスの時なのに、
その時を知らない、理解していない:そんな意味合いに理解できます。

この日はある意味、彼らが神と和解し、立ち返る最後のチャンスだったのです。
しかし、彼らは時を理解せず、自分のおかれている立場、状況を理解せず、
みすみす滅びに突進していきました。

その理由は祈りと強盗行為です。
そのことを考えたいのです。

彼らが時を知らず、神と最後の和解のチャンスを逃がしたその理由の一つは祈りです。祈りがなかったのです。結果、時を理解せず、時代を見分けず、偽りに入り、むなしく滅びに直行したのです。
今の時代も同じく祈らない人はたとえ、いくら万巻の書に通じていたとしても、
しかし、時をみわけることはできないことを知りましょう。

はっきりいいますが、ろくに祈らない人は偽りや惑わしから免れるのは難しいのです。
あらゆるヨタ教理がばっこしている、この時代にあって、正しく時代を見分けるのは、
祈りの中で真の羊飼いの声を聞いている人だけです。

もう一つの強盗の巣ということを考えてみましょう。
強盗とはぬすっとのことです。そして、以前見たように、神のことばを盗むというたとえの意味合いがあります。

神のことばを盗む商売人、教職者がばっこするそういう時代だから、人々は
神のかえりみの時を理解せず、最後のチャンスを見のがし、滅びに直行する、そう聖書は語っているのです。

このイエスの時の教職者であるパリサイ人、律法学者はまさにその様に神のことばを
盗みかいざんすることに精を出していました。

その証拠に神のことばに基づき、来らんとするエルサレムの裁きを語る律法学者など、この
時代には誰もいませんでした。
また、正しい義人イエスを十字架につけることが裁きをもたらす行為であると、
とどめる人も誰もいませんでした。皆、盲目だったのです。
彼らは神のことばをあずかる立場にいながら役立たずだったのです。

裁きを語る神のことばを盗み、人間受けをすることばをつらねていたのです。
彼らはぬすっと、強盗です。

さて、今の時代も全く同じ様な状況であることを知りましょう。

神のことばを盗む強盗が宮、教会の中にばっこし、多数派になっているのです。
たとえば、キリストの再臨のことを考えてみましょう。
聖書は明らかに終末の神の民の苦難とそれを救うために来るキリストの再臨について語ります。
しかし、愚かで、神をも恐れぬ冒涜者ども、あの強盗教師、牧師どもは、
この終末に関するみことばを盗み骨抜きにして恥じようとしません。

愚かな人々、牧師とは、いまだにあの冒涜教理、2段階携挙説、艱難前やら、艱難中携挙やらの
よた話を吹聴している人々の事です。

愚かで盲目な人々はよくよく聖書を自分で読み、再度確認するべきです。
聖書のどこにキリストが「2回」再臨すると書いてあるのか?
確かに再臨については書いてあるだろうが、その再臨が「もう一回ある」と
どこに書いてあるのか?

聖書を10回でも20回でも繰り返し読み、そんな箇所、キリストの再臨が「2回」あると
書かれた箇所がどこにもないと気付いたのなら、その冒涜、妄想教理を悔い改めるべきではないのか?
 

全ては神のことばのいうことが正しく、神のことばを盗み、かいざんする愚かな
教会は、宮から追い出される危険のあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
 
 
 
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