NO.597 帰ってくる王


”テキスト:ルカ19:

11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。
12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。
15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。
26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。
27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」”
 

本日は帰って来る王という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。


11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。”
イエスがエルサレムへ向かっていく時、その当時の人々は、イエスが王になれば、
すぐ神の国が実現すると思っていました。

何故彼らはそう思ったか?
このことを理解するには、イスラエルの歴史を理解しなければなりません。
イスラエルはかつてダビデ、ソロモン王の時、神に支配される国として、
他国に対して、独立を保ち、すばらしい繁栄を誇っていたのです。

しかし、この時、イスラエルを治める(真の)王はなく、
国はローマの属国となっていたのです。ヘロデが王として治めていましたが、彼は
ダビデの血筋とは無縁でした。

しかし、神の前には、この時がキリストが王として治める時ではなく、それは
キリストの再臨の時に実現します。本日のテキストの箇所は再臨に関する箇所です。


12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。”

ここで書かれた身分の高い人とは、イエスキリストのことです。
王位を受けて帰るとは、王として再臨するキリストのことです。
キリストが王として戻って来る、再臨するというと、あたかも、
おとぎ話みたいに思い込んでいる人、クリスチャンであってもそんな人が多いです。

そんな風に思えるのは、今の時代を見分けもせず、聖書もよくわかっていないからです。
ダニエル書、黙示録には、終末の時代、獣の国の横暴、クリスチャン迫害のまっただ中に
キリストの再臨があることが明確に述べられています。
今はもうすでにこの獣の国は出現し、この国のため、あらゆる方法で、聖書につき、キリストにつく
人々を迫害するための準備がなされています。

もう既に迫害時にクリスチャンを収容するための収容所さえ、アメリカの国内にいくつも建設されています。(小石牧師のHP内、荒野の声 2008. 2月の記事参照下さい)


13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』”

ここで10人のしもべが書かれています。しもべとは、主に仕える、献身の歩みをする
人の事です。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』とのことばの様にキリストが帰る迄、
すなわち再臨の時まで、しもべである我々は商売をするよう求められています。
商売とは売り買いのことであり、買い取ること、すなわちあがないと関係したことばです。

ですから、我々がしもべとなるつもりがあるなら、我々は、
主から商売、伝道を命じられていることを覚えましょう。

私達はその持ち場立場で、この命を行っていきたいと思うのです。
たとえばと、私のことをいうのは、恐縮ですが、私も自分のできることをしています。
私は平日は某会社員として、サラリーマンとして、勤務していますが、しかし、
時間の許すかぎり、こんな風にネット上で文章を書いたり、また、日曜の礼拝を開いて少しでも
みことばを述べるべく努力しています。持ち場立場でそれぞれ、
自分のできる範囲で主の命を行っていきたいと思うのです。


14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。”

さて、ここで少し気になることばが書かれています。
それは、その国民が彼を憎んでいたということ、そして、
この王を拒否したということです。

このことばを実際の歴史と重ね合わせて考えましょう。
するとわかることがあります。このことは思い掛けない、あってはいけないことなのですが、しかしながら、
実際にキリストの生涯で実現したことを見るのです。

イエスがエルサレム入場した時、エルサレム中の人々、国民がこそって彼を迎え、
「ダビデの子にホサナ」と叫びました。
このことは麗しいことだったのですが、残念ながら、それは長く続きませんでした。
民衆、すなわち国民は律法学者達にたきつけられ、心変わりし、イエスを憎み、ピラトの前で「十字架につけろ」と絶叫したのです。
キリストが十字架につけられた時、その罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。このことは、
まさに上記ことば、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』とのことばと
呼応しています。

さて、このことは、かつて起きたことですが、しかし、何度もいうようですが、
イエスの時代に起きたことは、終末の時代に起きることの型なのです。
何をいっているのかというと、終末においても再度、民が『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言うということは、再現すると思われるのです。

恐らく終末にも以下の2つのことは成就するでしょう。
1. 国民すなわちクリスチャンがイエスを憎む
2. 国民、すなわちクリスチャンがイエスに自分達の王となってもらいたくないという

クリスチャンがイエスを憎むなどあり得ないことの様に思えますが、今、
このことは起こりつつあります。
盲人は何が起きているのか、何一つ理解していませんが、目の開かれている人々は今の
時代の変化を読み取っているはずです。

今世界全体に進んでいるトレンドは明らかに、イエスは嘘つき、イエスは詐欺師であるという
トレンドです。ダビンチコード、ユダの福音書、イエスの墓に関する映画等の嘘八百により、このことは広げられつつあります。イエスは十字架になどかかっていなかった、マグダラ のマリヤと結婚して子供までもうけていた、
なんて見てきたような嘘をいう人々が現れているのです。日本でも幻灯社のヨタマンガ、
ジョージ秋山の「聖書」などにより、この嘘は広がっています。

この先に何が待っているのか、このトレンドを操る人々は何をめざしているのか、それは、
ユダヤタルムードの思想、イエスへの憎しみが実現する日、おろかなだまされやすい
クリスチャンが救い主を憎み、軽蔑する日です。

クリスチャンがイエスを自分の王ではないという日が来ようとしています。
黙示録に書かれた反キリストが教会を席巻する日はまさにその日でしょう。
彼らは、反キリストをキリストのかわりに拝み、王とするのです。

そんなわけで、終末の日、全世界に住む全てのクリスチャンに対する、試み、
惑わし、ゆらぎの日が来ることを覚えましょう。
全てのクリスチャンの真のこころのうちが明らかにされるため、偽りが世界を席巻するのです。
イエスは詐欺師、イエスのことを聖書どおりに信じている人々は遅れた非科学的な人、
みながそういうようになります。

このこころみの日が許されるのです。そして、その日、人々の心の真実が明らかにされるのです。
とりこにされるべき人はその日、とりにになり、トレンドに迎合し、
イエスを捨て去るようになるでしょう。
 

”15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。”

「彼が王位を受けて帰って来たとき」とはイエスが再臨して戻ってこられるときのことです。
その日我々はそのイエスのもとに集められ、おのおの、収支報告を出すようになる、そのことを知ってください。
セールスマンは、営業に出た後、上司に売り上げの報告義務があります。
今日はいくら売り上げた、何件お客を回ったなど。
同じ意味合いで我々クリスチャンがしもべとして歩むなら、その報告を出す日がくる、そのことを知りましょう。
 

”16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』”
 

一人1ミナを与えられ、それを増やすことが求められています。
ひとりひとりに与えられた1ミナとは何でしょう?
私の想像では、これは個々のクリスチャンに与えられた救いと思われます。もし、そうなら、
1ミナを10ミナに増やすとは、10人救いに導くことでしょうか。
このことは、主人によりほめられました。

「あなたはほんの小さな事にも忠実だったから」

1ミナを10ミナに増やすには、小さな商売を何度もかさねて、少しずつ、
その額を増やしていくわけです。
これは商売の方法ですが、伝道も同じ面があると思われます。
うまずたゆまず、機会を見つけて神のことばを告げ、結果として少しずつ、
広がっていくわけです。

小さなことに忠実だった人が実を結ぶようになります。
 

"
あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』”

1ミナに忠実であり、それを10ミナに増やしたしもべは、主人の帰ったあと、
10の町をまかせられるようになりました。
わずかな金に忠実であったために大きな報い、出世をするようになったのです。

そんなわけで、私達の今のクリスチャン生活の一面をこのことから
正しく理解しましょう。
私達の今のクリスチャン生活は、いわば試用期間みたいなものであり、
ある意味試されているのです。

その成果、実、報いは次の時代に来るのです。
さぼったり、この世のことにかまけたり、的外れになるのは、
損なことであることを知りましょう。

この世の人はこの世で認められ、出世し、評価を高められるため、
日々まい進しています。

我々クリスチャンも同じく、報いを望む存在ですが、土俵が違います。
我々は天からの報いを望み、再び来られる方からの報いを望むものなので、
この方からの命令を一番に行っていきたいと思うのです。

”18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』”

5ミナもうけたから、5つの町を支配せよといわれています。
5ははっきりした数字です。ですから、報いとは具体的なものです。
我々が受けるものは情緒的、観念的なものではなく、
数字で表わせる、具体的なものになるのでしょう。
しかも5ミナで5つの町というように、働きとふつりあいなほど、大きな報酬を受けるのです。

”20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』”

さて、問題はこのしもべです。彼は自分の1ミナを大切にして、それをふろしきに
包んでしまっておいたのです。1ミナは商売のもとでですから、その1ミナを用いなければ商売はできず、まして、増えはしません。このしもべは間違っているのです。
1ミナをふろしきにいれておくとは具体的にどういう状況を現すのでしょう。
どういうクリスチャンがこの人に該当するのでしょう?
具体的には、自分の救いも表明せず、もちろん証もせず、誰にもクリスチャンであることを
気ずかれずにクリスチャン生涯を送ると言うことでしょうか。
時々そんな人がいますが、それは全然間違っているというのがこの箇所の教えです。

彼は自分では生涯の終わりまで、クリスチャン信仰を保っていたとでもいうつもりなのでしょうが、
しかし、これは全然間違っているのです。

”22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。”
 

ここで、預けなかったものを取り立てるとか、蒔かないものを刈り取るということばが
書かれています。
そして、そのことばが、このしもべへの非難、罰と関連して語られています。
このことばを考えてみましょう。

「預けなかったものを取り立て」

預ける、取り立てるとは、我々の用語としては、お金に関する言葉です。

お金を預金する、借金を取り立てるといわれます。
この箇所で、主人は預けなかったものを取り立てる人として書かれています。
理不尽なようですが、しかし、このことばに基づきこのしもべは非難されているのです。
それで、我々もこのしもべと同じ罰を受け、同じ非難を受けないためには、
預けなかったものでも取り立てる方の前に出ることを考えなければなりません。

お母さんから1000円預かったなら、普通そのまま1000円返せば
文句もいわれず、非難もされません。
しかし、
「預けなかったものを取り立て」る人の前では、そうはいきません。
1000円が増えて2000円にも3000円にもなっていないと、怒られてしますのです。

そして、明らかにこの箇所で、神は、
「預けなかったものを取り立て」る方として描かれています。
我々は自分の受けた1ミナ、救いのみ堅持すればよいのではなく、
しかし、他からお金を稼いでくる、具体的には伝道が求められているのです。

「蒔かないものを刈り取る」

蒔く、刈りとるは、麦に関することば、みことばに関することです。
ですから、我々はみことばを蒔くことについても求められているのです。

ですから、うまずたゆまず、みことばを蒔く機会があれば、蒔くようにしましょう。
自分の事をいうのは、恐縮ですが、私もこのみことばに関する奉仕を何年も続けています。
「こんなHP、誰が読むのだろう」と思わないでもありませんが、
時々、このHPのみことばを通して、正しくみことばを理解したり、また救われる方も
あるようです。みことばを蒔き続けることはむだではありません。
 
 
 
 

”23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』”
 

銀行とは何でしょう?お金がたくさんあるところとして、教会のたとえでしょうか。
銀行へ預けておけばとは、教会に加わり、その中で、伝道を行うということと理解できます。

一人で、個人伝道をおこなうのは難しくても教会としての伝道なら我々も加われます。
伝道会のために椅子をそろえることもポスター一枚貼ることもここでいう、
利息みたいなものでしょう。
教会へ加わり、その奉仕にあずかることはそのまま、1ミナを増やすことなのです。
信じていてもなやんじゃうのマンガみたいに、奉仕に疑問を持たせる様な風潮、論調は、
このみことばと全く反する行いであることを知りましょう。

ですから、教会へ加わらないというということを語るのは原則、
良いことではありません。無教会では、教会は悪魔だとかいっていると
聞いたことがありますが、あまりよいことではありません。
イエスは明らかに銀行に預けること、教会に加わることを語っており、
そこには窓わしがあるからです。
無教会系の人は少しおかしな信仰を持つ、信仰が育たないということを聞いたことがありますが、
聖書の原則をないがしろにしてよくなるわけではありません。
同じことは何かというと、宗派だとかいって、他の教会を非難する回復系の教会にもいえます。

”24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。
26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。”

ここでは、最後まで、1ミナしか持っていない人への罰が語られています。
それは彼が大事に持っていた1ミナが取り上げられるという罰です。
このことは、大したことでないように読めるかもしれませんが、しかし、
よくよく考えれば恐ろしいことを語っていることを知りましょう。

冒頭で、10人全てに各1ミナが与えられたことが書かれています。
それぞれに平等に与えられる1
ミナ、それは各自に与えられた救いと思われるからです。
それが奪われるとは、何と救いが失われる、そんな風に理解できるからです。
そんな理解はとっぴでしょうか?

あまり聞き慣れない解釈かもしれませんが、しかし、おおむね妥当な解釈ではないでしょうか。
明らかに救いが奪われてしまう可能性があると思われます。

この方を恐れ、小さなしかし忠実な歩みをなしていきましょう。
許された範囲で、できることを行っていきましょう。

”27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」”

キリストの再臨の日にキリストが王となることを望まなかった国民はみな、
殺されることが書かれています。
ですから、キリストの再臨とともに起こる裁きに関して理解していきましょう。

ここでいう敵とは、上記14節の「 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」とのことばと
完全に対応しています。

すなわち、王の国民、領土の国民は、王を王として迎えることをこのまず、
結果として、殺される、刑罰を受けることが書かれているのです。

このさりげないことばの恐ろしさを正しく正しくとらえてください。
多くの偽預言者、羊の皮を着た偽り教師どもが耳障りのよいことをいうでしょうが、
しかし、そんな偽りものどもの甘い嘘に惑わされてはいけません。

ここでは、明らかに王が再び帰還するその日に彼の国民が滅ぼされること、殺されることが書かれているのです。
そして、これをキリストの再臨と合わせて考えるなら、その再臨の日、滅ぼされるのはキリストの国の
国民、すなわち、教会に集う、クリスチャンが滅ぼされる、殺されることに関して書かれているのです。
そして、その理由もはっきりしており、彼らクリスチャンが、真の王であるキリストを拒否し、
そして、恐らく反キリストを代わりに拝するようになるからです。

このことは預言されており、恐らく確実に成就するであろうことも理解できます。
何故なら、前例があり、キリストの初臨時、その国民、ユダヤ人は彼を拒否し、王とすることを
拒んだからです。そして、結果として、西暦70年にユダヤの多くの国民は滅ぼされてしまいました。

このことは型であり、終末の日に大規模な形でクリスチャンの上に再度成就するでしょう。
さあ、私達はこの様な時代に好もうと好むまいと生きていることを理解しましょう。

豪華な客船タイタニックも氷山にぶつかれば、いずれ沈むのです。
すみやかにボートをおろし、この船から逃げなければなりません。同じく、
大きな都、世界大の教会もキリストを拒否するなら、いずれ、大規模な刑罰に入っていくのです。
私達はこの都から去り、逃げ出さなければなりません。
この都に下る裁きに巻き込まれないためです。

黙示録にバビロンに関連して、「私の民よ、この都から離れよ」と書かれているのは、
まさしくこのことをさします。

時代はもうすでに変わっています。あの獣先進国アメリカでは、巧妙にキリスト教会から、
聖書的な教えを排除する働きが進んでいます。503Cという税の優遇処置が、「キリストの復活、
あがない、再臨」等を語らない教会には与えられ、逆にそれらを語る教会には、税が課せられるとの
法律が施行されています。(小石牧師の荒野の声参照)
要するにアメリカでは、正しい聖書的な信仰を表明する教会は、
罰として税を課せられるようになったのです。

アメリカはその本性をむきだしにし、仮面を投げ捨て、本音、タルムードが語るクリスチャンへの
憎しみ、キリストの教えへの冒涜を暴露しているのです。
この後、アメリカの教会はどうなるのでしょう。

残念ながら、多くのアメリカの教会が背教への道を歩み始めるでしょう。
そして、同じく、アメリカ発のトレンドに吟味も、思慮もなく盲従するしか
能のない、あほたれ日本キリスト教会の面々も同じ道を辿るのでしょう。
 

まとめますが、この10ミナのたとえは、キリストの再臨について語るもう一つの箇所です。
そして、その中では、明らかにキリストの再臨時、その国民、クリスチャンが殺される、裁かれる日に
ついて預言されています。
結論は多くの他の箇所とおなじであり、その再臨の日は多くのクリスチャンにとり、救いの日というより、さばき、刑罰の日となるのです。

終末の日が、ノア、ロトの時となるとのことばとも一致しています。
ノア、ロトの日は、多くの人が滅ぼされ、逆にほんの小数の人は奇跡的に救われることが述べられています。
かつての日、主イエスに従い、滅びから免れた12弟子の様に、小数の人は救われますが、
そうでない人々に滅びが語られているのです。
終末の日、多くのクリスチャンが背教に進み、この世的な教会のトレンドに進み、結果として、滅びに進むのです。
 
 

この警告を正しくとらえましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
 
 
 
 
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