No.596最後の1レプタ迄支払う


”テキスト:ルカ12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、(
あなたは道の途中にあるのだから:KJV)熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。
59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」”

本日は、「最後の1レプタ迄支払う」という題でメッセージします。
テキストに沿って見ていきます。

”58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。”

ここでは、裁判官のことが描かれています。
裁判官とは誰か?

以下のことばがこのことを理解させると思えます。

”ルカの福音書 18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
ルカの福音書 18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
ルカの福音書 18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

私達は以前この箇所の裁判官とは、生けるもの、死んだものをを裁く、神御自身のたとえであることを
見ました。
 

そして、今回のテキストの箇所の裁判官もこの神御自身であることが類推されます。
そして、この裁判官が行う裁きとは、死後の裁きを語っていることをも理解できるのです。

さて、この箇所が裁判、すなわち死後の裁きに関する箇所であることを理解すると他の
ことも見えてきます。

「告訴するもの」とは誰でしょうか?
私達の罪を訴えるサタンかもしれないし、私達のもろもろの罪のことかもしれません。
または、義の律法を持つ神御自身かもしれません。

「熱心に彼と和解するよう努めなさい」

私達は誰と和解すべきなのでしょうか。以下のことばが、
このことに関してヒントを与えると思います。
 

”コリント人への手紙第二 5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”
 
 

この箇所を見る限り、私達は神と和解し、その関係を修復することが必要であることがわかります。
どういう風に問題が在るかと言うと、我々は義なる神の前に罪を、大きな罪を追っており、
私達がこのままで死後神の前に出るなら、恐ろしい刑罰に入ることは必至だからです。
 

”途中でも、(あなたは道の途中にあるのだから:KJV)熱心に彼と和解するよう努めなさい。”

神と和解するという時、それには、タイミング、定められた時の制限があることをここでは語られています。
新改訳では、はっきりとしませんが、KJVでは、「あなたは、まだ道の途中にあるのだから」、そんな風なニュアンスに読めます。私達がまだ、人生の
道にある間、それはまだ、和解のチャンスがあり、悔い改めるチャンスがあり、大丈夫なのです。

しかし、いざ、時が過ぎ、時間が経過し、裁判官のもとに送られたら、万事きゅうす、
撤回も再考もないのです。
道の途中、一体何をさすのかわかりますか?明らかにこのことは、私達がまだ、人生の道の
途中、その肉体の命が尽きる前にということを語っています。
簡単にいえば、私達はまだ、肉体の命のあるその間に神の前に行き、悔い改め、和解することが
勧められているのです。
 

”そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。”

私達がもし、その道の途中、人生の途中で、神と和解しない、そのまま死を迎える、
そうするとどうなるのでしょうか?それがここに書かれていることがらです。

和解していない私達は必ず死後の裁きの座に連れていかれます。
そして、罪を許されていない、和解金も支払われていない私達は当然の様に牢へ投げ込まれるのです。
牢へ入れられても、しばらくゆっくりすればいいやなどと思わないでください。
その牢に関しては、以下の様にも記述されているからです。

”ルカ16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”
 

牢とは、罪を犯したものが罰を受けるところ、別の言葉で言えば、
ハデスやら、地獄と言われるところであり、その罰は
この金持ちが苦しんだように、恐ろしいものなのです。

”59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」”

負債のあるものは、牢に投げ入れられ、その負債の最後の1レプタに相当する
罰、支払う迄、その牢から出ることはできません。

レプタはお金の単位であり、あがない、買い取ることと関係しています。
すなわた、ここでいわれていることは、私達がその人生の途上にある間に
神と和解し、あがないを受け取り、代わりに罪の支払いを受けないなら、
自分自身で、その身をもって、最後の1レプタに至る迄きっちりと支払いをしなければならない、
そう語られているのです。

もし、あがないをうけないのなら、私達の犯したささいな罪、嘘やいじわるに関しても
きっちりと罰を受けなければなりません。
どんな罰を受けるのでしょうか?嘘一つに対して火の池に1日とか?
考えただけで、恐ろしいものがあります。

しかし、聖書は真実の書であり、死後ハデスで苦しんだ金持ちも実在の人なのでしょう。
私達はこの様な恐ろしい刑罰から免れたのですから、決して惑わされることなく、
私達の受けた救いを堅持すべきです。
間違っても少しばかりの脅しに屈して、永遠の悔いを残すことになってはいけません。

反キリストが恐ろしい?艱難時代の迫害が恐ろしい?
物事の軽重を間違えてはいけません。
パウロも「今の時の軽い艱難は、働いて、後の日の重い栄光を得させる」と
いわなかったでしょうか。

よしんば殉教しても肉体の命を失うに過ぎません。多少は死ぬとき痛みはあるかもしれませんが、しかし、死後の恐ろしい
刑罰とくらべるべくもありません。
我々にとっては、死んでも天国、どうということはありません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
  -----------------------------25753462263912 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""