No.595勝手なところで捧げ物をささげない


”テキスト:申命記12:
11 あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。
12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。
13 全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。
14 ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。”

本日は、「勝手なところで捧げ物をささげない」という題でメッセージをします。
テキストに沿って見ていきます。

”11 あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。"
 

主はかつての日、ささげものをすることをイスラエルに命じました。
全てのイスラエルはささげものをすべきでした。これは、新約のイスラエル人である、我々クリスチャンへ語られた命令でもあります。

我々もささげものをすべきなのです。もちろん、今の時代の我々は牛や羊や鳩を教会へ
持っていくわけではありません。かつてのささげものは今の時代において我々の行う奉仕、
主への従いをあらわすものです。

かつての日、全てのイスラエルがささげものをささげたように、今のクリスチャンは神の前に奉仕をすべきであるという、この原則を覚えてください。
現代の堕落、背教の時代においては、神への奉仕さえ、教会では語りずらくなっています。
奉仕をすることが悪いかの様に語る雑誌社、新聞社、愚かな牧師さえ出ていますが、
彼らは聖書の基本の基本さえ知らないあほたれです。名目福音系、実質背教系の例の冒涜雑誌の様に、
わけのわからないマンガ「信じていてもなやんじゃう〜」まで掲載して、
あたかも奉仕をさせる教会が悪いかの様な風潮を助長すべきではありません。

神の命じることには、意味があり、そのこと、奉仕を正しく行うことは、その
人の歩みを強め、永遠の命を獲得助けになります。

親は子供に歯をみがけ、本を読め、宿題をきちんとしろといいます。
目先のことしか、見えない子供には、本なんか読むより、テレビを見たいし、
宿題なんかするのは面倒臭いのですが、しかし、人生経験を経ている親の目には、
何が大事なのかわかります。

人間の親でもある程度先が見えるのですが、まして神はさらに先が見えます。
神がささげもの、すなわち奉仕を語り、命じる時、それは神のための様で、その実、
そのクリスチャンを成長させる大きな要素があるのです。

非常に簡単なことをいいます。ささげものをささげる、すなわち、機会に応じてきちんと
忠実に奉仕をする人は結局は信仰を保ち、教会に残ります。
しかし、何も奉仕をしない、お客の歩みをする人は結局は教会から消えていくのです。
 

「あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ」
 

さてここでは、ささげものをする時、ある特定の場所があることが書かれています。
特別な場所、神、主が選ぶ場所でささげることが語られているのです。
それのみではなく、その場所は、神の「御名を住まわせるために選ぶ場所」であるとさえ述べられています。

このことを今の時代に合わせて考えてみましょう。何をいっているのでしょうか。
いわれていることはこういうことです。
すなわち、もし神が我々にささげもの、奉仕を命じたなら、必ず何か特定の場所、神が
選んだ場所があるということです。すなわち、
どんな奉仕でもよい、任意の奉仕を行なえというのではなく、必ずその人に合った特定の奉仕がある、
それを行えということが命じられているのです。
結果ある人は牧師になるかもしれない、ある人は海外の宣教士になるかもしれない、
しかし、何しろ十ぱひとからげではない、その人にまさに個別に神が命じた奉仕、働きがある、
そう述べられているのです。

このことを正しく正しくとらえましょう。
教会の奉仕というと何を考えるでしょうか。
教会の掃除とか、トラクト配りとか。もちろんそれらを行うべきでしょうし、
そのことには益があるのです。しかし、それとともに一つ知らなければならないのは、
神がその人ならではの奉仕を何か考えているということです。
それを捉える、具体的には、「主が、..選ぶ場所」が大事なのです。

自分の事をいうのは、恐縮ですが、理解のために参照します。
私はクリスチャンとして随分時を経て、具体的には40才を過ぎて献身しました。
神学校へ入り、弟子の歩みをし、いずれ普通の牧師になるのだろうと
考えながら献身生活をしていたのです。

しかし、ある頃を起点に主は特別なことを私に語られるようになりました。
具体的には、終末のみことばの啓示が開かれてきたのです。
 

このこと、啓示はあまりにも私にとって強烈なことなので、私は全てのことを犠牲にしても
この召し、終末の啓示を語ることを優先することにしたのです。
結果、どうなったかというと、私のあらゆる環境が激変してしまいました。
いずれ教団から、どこかへ派遣されて牧師になると思っていたのですが、逆に神学校、教団を追い出され、
牧師、地方へ遣わされるという道は閉ざされてしまったのです。啓示のためです。

しかし、負け惜しみをいうわけではありませんが、その様な犠牲はあるとしても、
私自身のことをいうなら、明らかに主が命じたことを正しく歩んでいると言う確信があります。
天の召しには背かなかったと、胸が張れるのです。

こんな例で主が選んだ場所といわれることばの意味合いが理解いただけるでしょうか。

私の場合こんなだったのですが、しかし、それもまた全ての人に一般化できるものではありません。
他の人の場合、ケースが異なるのです。

何はともあれ、主が私達に選んだその場所でささげものをする、奉仕をすること、
それが大事なのです。
 

”私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない”

主が命じたすべてのものをもっていくことが命じられています。今の我々にはどういう意味があるのでしょう。これは、
私達の奉仕の範囲、方法をさすと思われます。

”あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。”

全焼のいけにけは、火で全く焼かれたものです。聖霊の火で全てを焼かれ、肉が残っていない、
奉仕者のたとえです。

”12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。”

ここでは、レビ人、献身者への配慮が書かれています。主に時間を捧げて奉仕し、結果、
この世の富に乏しい献身者のことを、我々は考慮すべきなのです。
 


13 全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。”

ここでは、さらに「かって気ままな場所でささげない」ことが書かれています。
ですから、ささげものをすることは良いことですが、しかし、神の定めた場所でささげることが
大事なのです。
奉仕は大事なのですが、何でもよいというのではなく、主が私達個々に定めたその
奉仕につくことが大事なのです。
「かって気ままな場所」すなわち、その時の思い付きだけで奉仕を決めるべきではないのです。
主が語り、召す奉仕があるでしょうから、それを行うべきなのです。
私達は一度しか、クリスチャン人生を送れないのですから、
その歩みを的外れな歩みでむだにすべきではありません。
 
 

”14 ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。”
 

「主が選ぶその場所」と書かれているように、主の選ぶ特定の奉仕、私達のために
選ばれたある特定の歩み、奉仕があるのです。
それを行うことが大事です。

繰り返して自分の事を言うのは恐縮ですが、主が選びわかたれたまさにその奉仕を行うことは、
大きな恵みであり、祝福です。「天の召しに背かず」
と書かれている通りです。
 

”選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。”

まさに主がえらぶその場所で主の命じた全ての奉仕を行うことが大事です。
私の例でいえば、主が与えられた終末の啓示に関するいっさいの奉仕を行うことが、
自分の第一の召しであると理解しているのです。

多くの人が的外れになり、主のいわれたことから離れ、その召しを理解することも
行うこともできないまま、時を過ごそうとしています。

しかし、私達にあっては終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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