No.594 不正な管理人

テキスト:ルカ161 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6
その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7
それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

本日は、「不正な管理人」という題でメッセージしたいと思います。

 

この箇所から学んでいきましょう。
「不正な管理人」の箇所は、難解な箇所として有名・・・らしいです。
そうではあっても主がいわれたことには、何らかの意味があるはずですので、それを見ていきたいと思うのです。

 

 

”1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。

 

まずこの箇所は、弟子に向かって語られた、そこにポイントがあります。
弟子すなわち、主に仕える人、献身の意志を持つひと向けのメッセージなのです。

 

ここで書かれている金持ち、主人とは誰かと言うと結論をいうなら、神御自身の事です。
では、管理人は誰かと言うと弟子のことをいっています。

 

以下の箇所では、パウロが自分達弟子は神のことば、奥義の管理者、管理人であると述べています。
この箇所は今回のテキストを理解するヒントになります。

 

1コリ41 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
2
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。

 

すなわち不正な管理人の箇所が語る教えはみことばの管理者でもある主のしもべが主人の持ち物であるみことばをどう管理するかということを述べていると理解できます。  

 

”2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』

 

ここでは、管理人は、主人から、任せていたものすなわち小麦や油に関して会計の報告を出すように
命じられています。この時は、我々が神のしもべとしてこの管理の仕事をしていくなら、いずれ必ず来ることを覚えましょう。我々はいつか必ず真の主人である神の前に出て、我々にあずけられたもの、みことば、聖霊の働きをどう用いたのか、それを問いただされる日が来るのです。
ですから、いかに私達は人ではなく、まかせた主人を見ながらこの仕事をしなければならないのか、
わかります。
人に迎合し、この世に合わせ、聖書にもない、2段階再臨説やら、神のみことばを変質させる福音の総合理解などに迎合しているなら、その日、厳しく叱責されることになるのです。

 

”3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』

 

この日、この管理人は管理の仕事をとりあげられることになりました。
それで、自分の行く先を心配しているわけです。同じくみことばに携わる私達もいずれ、このみことばの管理の仕事をやめる日が来ます。
それが強制的に取り上げられようとそうでなかろうと人には寿命があるので、いずれいつかこの仕事をやめる日が来るのです。
その時、問題なのは我々が「家」に迎えられるかどうか、天の家に入れる余地があるかどうかです。

 

この管理人は妙案を考えだし、結果彼は自分の行くすえ、入るべき家に関しての問題を解決しました。「ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう」とはその妙案をさします。

 

”5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6
その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。

 

管理人は油の借りのある人の証文を勝手に書きかえさせました。
こんなことが道徳的によいかというと良いとは思えません。
こんなことを会社で実践していいかというと実践しろとはいえません。
ただ、この箇所からはっきりわかることは管理人の立場です。彼は主人の油を管理する立場にいるのです。
たとえとしては油は、聖霊のたとえです。だから、誰にどの程度油を与えるかどうかは、この管理人の裁量しだい、聖霊の油注ぎは管理人である主のしもべ次第である、それがこの箇所でいわれている意味合いです。

 

”7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。

 

小麦すなわち、みことばに関しても管理人の裁量次第です。具体的には人がすばらしいメッセージを聞ける、聞けないも管理人である、神のしもべの裁量にまかされているのです。

 

”8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

 

さて、この様な行い、主人の証書を勝手に書きかえて、利を得るという行いは基本的には、この世の方法であることが書かれています。ですから、我々光の子がそのまま、全く同じ様に模倣すべきことではありません。会社に入って会計やら、帳簿を粉食することが勧められているわけではないのです。

 

”9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 

さて、ここで初めて、「そこで、わたしはあなたがたに言います」として主の本音、いわんとしていることが明確にされます。
いわんとしているのは、不正な管理人の方法をそのまままねすることはないが、しかし、そのスタイル、考え方はまねろということと理解できます。

 

「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」

 

不正の富とは何でしょうか?
主イエスは我々にどろぼうや万引きをしたその金で友人を作れといっているのでしょうか?
何とも理解に苦しむことばです。私はこう考えます。
不正の富とは、具体的にはこの話の中で主人の持ち物である、油や小麦のことです。
これは本来主人のものであり、管理人のものではありません。彼はただ、管理の仕事を任されているに過ぎないのです。

 

さてこのことを我々自身に置き換えてみるとわかります。我々は神のことばをメッセージしたり、はたまた聖会で奉仕をし、油がそそがれたりするかもしれませんが、しかし、この油、小麦は他人のものに過ぎない、神のものに過ぎない、そう主は語っているのです。

 

しかし、他人のもの、神のものである油、小麦を用いて友を作ることは奨励されているのです。
富を用いて友を作るとはどうするのでしょう?
たくさんのメッセージをして、それを通して友人を作ると言うことかもしれません。
そうなら、大いに神のことばを通して、友人を作り、知人を作るのは聖書的なのです。

 

また、この箇所を通して、あらためて、管理人の仕事の範囲、働き人のなせる限界をも教えられます。みことばは基本的に他人のもの、神のものなのです。
我々はこの働きをまかされているだけの存在です。
勝手にみことばを改ざんしたり、教理を付け加えることは思い上がった傲慢であることを知るべきです。キリストの再臨が一回だけでは、具合が悪い、もう一回増やして、2回にしようなどとかってに改ざんすることはすすめられていません、
そんなことをするとカルトの汚名を着るようになるでしょう。

 

そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 

ここでは、友がいるということと永遠の住まいに入ることとが関係していると述べられています。
そう書かれている以上、これらのことは関係しているのでしょう。
そうであるなら、私達はこの今の世において、回りの人、特に同信の兄弟姉妹に対して、愛をもって接し、また受くるより与えることを実践すべきであることがわかります。
何故なら、そうしておくと、その日彼らが私達を永遠の住まいに迎え入れてくれるからです。

 

この世においてもコネや人間関係のつながりが大きな意味を持ちますが、永遠の住まいに関してもそれがいえそうです。
こんな話はきいたことがありませんか?
しかし、明らかにこの箇所はそう読めます。

 

今この世で一生懸命、みことばに仕えるために金持ちになる道は逃すかもしれないし、はたまた、奉仕にあけくれて、この世のことに遅れをとっているかもしれませんが、しかし心配は無用です。私達がみことばをもって仕え、サービス(礼拝の意味あり)したその人々がその日、奉仕者を迎え入れてくれるからです。
忠実に仕え、人の益になれかしと牧会したことは無駄にはなりません。

 

”10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

 

ここでもみことばの管理者、奉仕者への心構えが語られています。今の私達の奉仕は小さなものかも知れないが、しかし、その任された小さなことに忠実であるべきことが語られています。

 

任された小さな教会、集まり、奉仕、それを忠実に行うかどうかが問われているのです。
これは私の想像ですが、今の世において、どの様に忠実に任されている奉仕を行うかどうかが、私達の次の世における位置、働きに関係するように思えます。
もっとわかりやすくいうと、今の世における奉仕は、後の世のための勤務評定みたいなものになるように思えます。

こんな考えはとっぴですか?
しかし、それを示唆する様なことばは聖書にいくつも出てきます。以下はその一例です。

 

ルカ1915 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
16
さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
17
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

 

あずけられた少しの金に忠実であり、10ミナをもうけたものは、主人の帰って来た時、10の町をまかされました。ですから、今、小さな奉仕に忠実な人は、主の再臨の日、大きな働きを任されることが想像できるのです。

 

”11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

 

さて、ここでは、主が弟子達に、自分の持っている不正の富に対して忠実であることがいわれています。
不正の富とは何か?
それは弟子達が扱う神のことば、また聖霊の働きです。それは弟子が扱うのですが、しかし、本来の持ち主は主人である神御自身なのです。我々はいわば、所有権のないまま使っている者なのです。そういう意味で、神のみことばは富ではありますが、しかし、正確には神からの借り物、本来、我々には所有権のないものなのです。

 

ですから、今この世で、神のことばを扱う、聖霊を扱うことを奉仕、仕事としている人々、いわゆる牧師、献身者の人々は、このことばを正しく認識すべきです。
今の時代の我々の奉仕は、いわば、見習い、試用期間の様なものであり、我々はあたかも神により、その働きぶり、忠実さを観察され試されているのだと、この箇所は語っているように思えます。

 

そして、その結果次第で、正社員に採用もしくは、門前払い、お払い箱になる人が出てくると思います。
試用期間中に以下の事をする人は採用されず、正社員への道はとざされます。
*どろぼう
*怠業、ちっとも仕事をしない
*社長の悪口を社内外でいいふらす。評判を落とし、風評被害を会社に与える

 

ですから、今の時代、他人のものであり、神のものであるみことばを使って恐れ多くも下記のことをする人々は、恐らく社員登用の道はないでしょう。

 

*神のことばを盗み、逆に自分かってな教理を付け加える。
例:聖書に書かれたキリストの再臨にもう一回加え、計2回(2段階携挙説)とする。
(艱難前、艱難中携挙説)
その結果、クリスチャンは艱難時代に会わないなんて嘘を吹き込む。
*聖書を使って神やキリストの悪口をいいふらす阿呆たれ牧師、あほたれ神学者、神学生。いわく、キリストの復活、奇跡、神性を否定する人々は、この類い。
キリストは実際は復活していない、マグダラのマリヤと結婚して子供までもうけていたなんていうヨタ話を繰り返す人はその筆頭。  

 

上記の人々は、その試用期間中、トンデモナイ野郎であると判明し、結果天においては、即刻首きりが検討され、場合によっては、もっと厳しい裁きが待っているかという愚かな不良社員どもです。  

 

”12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

 

繰り返すようですが、私達が持っている聖書のことば、また聖霊の働き、これは自分のものではなく、逆に他人のもの、神のものであること、このことをよくよく理解しなければなりません。そのようにこの箇所では書かれているのです。

 

他人からの借り物は、それは、慎重に扱うべきです。
自分のものならともかく、他人から借りた本に落書きやら、悪口まして、この本を貸してくれた田中君への悪口を「田中は嘘つきだ」などと書くべきではありません。
それでは、まるで田中君に喧嘩を売る様なものであり、良い関係は続かないでしょう。
逆に彼に出合い頭に殴られてしまうかもしれません。
こんなことはこの世において常識の類いのことがらです。

 

さて、悲しいかな、自称知者の多い、我が国のあほたれ、神学者やら、背教牧師どもにはこの常識は通用しません。

 

神からの借り物である聖書をネタに飯を食っている癖にあろうことか、貸し主である神への冒涜を日夜、せっせと語る不始末です。
いわく同性愛は聖書で禁じられていない、終末論は、反環境の有害な神学などのヨタ教理をとくとくと繰り返すあほっぷりです。

 

他のところでは、悪霊リバイバルを教会に持ち込む人々までいます。

 

しかし、この様な管理方法、神のことば、また聖霊への対処方法が、神に喜ばれ、その結果、次の世では、神からすばらしい褒美としてさらにすぐれた働き、奉仕に任じていただけるものなのか、これらの愚か者は、立ち止まってよくよく考えなければなりません。

 

自分が神の立場だったらどうかよく考えるべきです。

 

恐らくこれらの冒涜者に怒りや罰を加えたとしても、賞賛などしないでしょう。
彼らにろくな未来など待っていないでしょう。
かつての律法学者の様にゲヘナの火が待っていると思うほうが妥当でしょう。

 

私達は恐れをもって、この奉仕を続けるべきと思われます。
そうであり、忠実であるなら、その日、神からのほまれと報いを受けるでしょう。

 

”13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 

この箇所の主旨は何でしょうか。
金もうけと神へ仕えることとは両立しないぞ、という意味合いでしょうか。
今の私にはそのようにしか理解できません。
神を第一にしたいと思います。

 

終末における主のみこころを行いましょう。