NO.591 牛を売る

”テキスト:ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。”

本日は「牛を売る」という題でメッセージします。
宮きよめの記事から学んでいきたいと思うのです。

テキストにそって見ます。

”13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。”

このできごと、イエスが商売をする人々を宮から追い出したことは、
過ぎ越しの祭りが近付いた時に行われます。この祭りと主のされたこととが、
関連のあることが想像できるのです。

過ぎ越しの祭りは、小羊がほふられることと関係しており、
ほふられることは、あがないと関係しています。そしてもう一つ、
あがないとは、買い取ることです。このことが今回のトピックの伏線としてあります。
 

”14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、”

さて、この箇所で主イエスは我々にとっては、思いがけない姿、怒りと、
叱責をあらわされます。さらにことばだけでなく、実際になわのむちで
商売人達を追い出したりまでしています。
このことは、愛の方である、イエスと懸け離れている姿に見え、思い掛けない印象を我々は受けます。
イエスは見えない神の形ですから、いいかたを変えるとここでは、
神御自身の怒りが燃え上がっているとも理解できます。この怒りを目の前にし、
それで、我々はこのこと、宮で行われていたことは、尋常でないことであることを知るのです。いったい、
何が問題なのでしょうか。

「牛や羊や鳩を売る者たち」

売るとは買うと反対のことばです。そして、あがない、すなわち買い取ると反対のことばなのです。
すなわち、ここではあがないと反対のことが行われている、その様にたとえを理解できます。
イエスは人々をあがなうため、買い取るために来られたのですが、その
宮の中では何と反対のこと、羊や牛を売り払うことが行われていたのです。
具体的には、どういうことか?
宮は神を礼拝するところとして今の教会のたとえでしょうか。
その中で、イエスのあがないを否定し、羊や牛でたとえられるクリスチャンを売り払うような
ことが行われる、その様にたとえを理解できます。

もっとわかりやすくいうとどういうことなのでしょうか。

あがないは買い取ることですが、以下の行為は人々を売り払う、あがないから
遠ざける行為です。

*死後の地獄は存在しないというカソリックの教え。
これにより、人々は地獄が存在しないなら、死後を恐れる必要はない、
それなら、特別にキリストのあがない、救いなど必要ではない:として、
キリスト以外の教え、仏教やらヒンズー教もオッケーという、
間違った結論に入る。

*カソリックのれん獄の教えや、セカンドチャンスの様に、
この世で罪や問題があっても、心配ない。次の世で、
ばん回できるからという誤った教え。
これにより、人々は今の現世でしゃかりきにキリストのあがないを
求めることはないと、誤った結論に入る。
 

*社会的な福音、救いと言う教え:
個々の人が救われるより、社会の変革が必要と説く教え。
これは、ヒューマニズムであり、キリストのあがないを不要とする。

上記の様なことをする人々は、自分では正しいことをしていると誤解しているのでしょうが、
しかし、実際は、人々を真の救いから遠ざけ、売り払い、結果、すさまじい神の
怒りの下にいることを理解すべきです。

「両替人たちがすわっているのをご覧になり」

両替人の何が問題なのか?
このことばにもたとえの連鎖があります。
両替人は、金と関係が在り、金はあがない、買い取ることと関係します。
そして両替人は、金を変換するものです。すなわち、あがないの代価を別のものと
変えてしまう人々のたとえです。

私達のあがないは、尊い小羊イエスの血なのですが、それを
両替人は別のものと変えるのです。

行いを強調し、行いが救いに不可欠とするカソリックやら、ものみの塔の行いの教えは、
この両替人のわざであり、イエスの怒りの対象です。
また、罪の人前での告白などを救い、あがないに加えるのも同様に神の怒りを買います。
また、救いだけではだめ、きよめ、聖化が必要などというウエスレー系の
よた話も、この類い、両替人の呪われたわざです。
これらは神の怒りを買う行いであることを正しく知るべきです。

”15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、”
 

この時、宮の商売人の下にあった、羊も牛も皆宮から追い出されてしまいました。
これは、かたりかけのあることばです。
具体的にはもし我々が牛や羊を売る商人すなわち、うそつきあがない
教理を語る牧師やら、神父なりの下で信仰を続けていくなら、いずれ
宮から追い出される羊や、牛となる可能性があるのです。宮から追い出される
羊、牛となるならどうなるのでしょう?
宮は神に仕え、祈りの香をたくところですが、もしおいだされるなら、
我々の祈りも奉仕ももう神の前に無効となるのです。

それは、宮の奉仕、ささげものとして、神に認められなくなるのです。何と恐ろしいことでしょう。
しかし、まさにこのことをこの箇所は語っているのです。神を恐れなければなりません。

”16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」”

ここでは鳩を売るもの、鳩売り商人が特別に個別で非難されています。このことは
何をさすのでしょうか?
鳩はイエスが洗礼を受けたときに御霊が鳩の様に下ったという表現からも、
霊的なことをさすと理解できます。

ここではイエスに非難されているので、ろくな霊ではない、逆に教会の悪霊まがいの
霊を持ち込む人々のたとえと理解できます。鳩売り商人がたとえていることは、今の
時代でいえば、金粉、金歯のしるしを持ち込みたっぷりもうけている悪霊聖会屋のことと理解できます。
この様な人々は、神に喜ばれるのではなく、逆にイエスに宮から追い出されるのである、
このことを理解すべきです。

やれピーターワグナー、悪霊の第三の波とか、ベニーヒン、ビルハモン、ラインハルトボンケ
など悪霊の器をさんざん日本に持ち込み、「すばらしい霊の器が日本に来ました」なんて
完全に勘違いなことをいっている聖会屋やら、その関係者は、イエスの怒りを買っており、いずれ、
いやもしかしたら、もう既に神の宮から追い出されていることを重々理解すべきです。


17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。”

このことばはどんな意味なのでしょう。
この箇所は以下の詩編の引用です。
 

”詩編69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。”

この箇所では、「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。」と書かれています。この箇所で、
いわんとしていることは、神の家を思う熱心な人々が、実はわざわいとなり、
また、真に神に従う人をそしるようになるということです。

一つ今の時代、これからの時代に関して知らなければならないことがあります。
これから、キリスト教が盛んになってくるということです。
熱心な人々が出てくると言うことを知らなければなりません。
ヨエルの軍隊を始め、多くのクリスチャン子弟が、訓練され、熱心にされ、熱狂的になっていくでしょう。
そして、これらの熱心な人々は世界のキリスト教会に災いをもたらすでしょう。

なぜなら、彼らが惑わされた教理、誤った霊に導かれるからです。
上記箇所でいう鳩売り商人、羊、牛を売るものたちの
下で訓練されるからです。

かつて、中国を襲った悲惨な時代、文化大革命の時代、災いは熱心な青少年から来ました。
殺人大魔王毛沢東により、組織され、洗脳された青少年は、毛沢東語録を片手に教師、
地主、支配階級をつるしあげ、きずつけ、殺したのです。

別のいいかたをするなら、毛沢東は自分の支配を確立するために
青少年を利用し、洗脳したのです。

同じ日、恐るべき洗脳青少年が災いのために用いられる日がこようとしており、その日が背教のキリスト教会に
対して用意されていることを知りましょう。
現在、起きているチャーチスクール、ホームスクールのムーブメント、テキストはどうもこの洗脳と関係があるように思えます。

そしてその結果、真の信仰者も試みを受けるようになります。
上記詩編の箇所はその日を預言したものでしょうか。

この日をさして主はかつてなく、今後もない困難な日といわれたのかもしれません。
この日は黙示録においてもイナゴの軍隊の日として、預言されています。その日、洗脳された
何と2億の人々が起きます。

さあ、終末の最後のたたかい、永遠の命の争奪戦が起きようとしています。
その日のために備えるものは幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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