NO.582ゲヘナで滅ぼすことのできる方

テキスト:
”マタイ10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。”

本日は「ゲヘナで滅ぼすことのできる方」という題でメッセージをしたいと思います。

世の中で、よくいわれることばに「リスク管理」ということばが
あります。
本日はクリスチャンのリスク管理ということを考えたいと思うのです。

リスク管理と言う時、私個人としては、「最悪の事態」にならない様努力する、
ということを最優先すべきと思っています。

上記箇所でいえば、たましいも体もともにゲヘナで滅ぼされることです。
ゲヘナに関して聖書はたびたび警告しています。以下のとおりです。

”マタイの福音書 5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
マタイの福音書 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
マタイの福音書 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
マタイの福音書 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
マタイの福音書 18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
マタイの福音書 23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
マタイの福音書 23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
マルコの福音書 9:43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
マルコの福音書 9:45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
マルコの福音書 9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
ルカの福音書 12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。”
 

この様に度々書いてあるので、このゲヘナは現実の存在であることがわかります。
現実どころか、我々もまかりまちがえば、いつでも入る可能性がある場所であると
理解できます。何故そういえるのか?
それは、主御自身が度々私達に対して、ゲヘナに入らないよう気をつけることを語っておられるからです。

全く起こる可能性のない危険を度々子供に注意する親はいません。
近所の公園に遊びに行く子供に対して、「ナイアガラの滝に落ちないように、気をつけなさい」と
注意する日本の親はいないのです。どう考えても子供が遊ぶほんの2ー3時間の間にアメリカまで、
一人で出かけてその上、ナイアガラの滝へ出かけていく可能性はないので、そんなことを
わざわざいわないのです。
しかし、同じ親も、「公園の池に落ちない様に気をつけなさい」とはいいます。
公園には、ちょうど真ん中に鯉やらの魚が泳ぐ池があり、そこに入り込むと少し深いところが
あり、子供には溺れる可能性があり、危険なのです。近所には、落ちた子が現にあり、他人ごとではないのです。

この様に人間の親だって、わざわざ注意をするのは、子供が落ち込む可能性、実際起きる可能性のある危険に対して語るものなのです。
まして、主は聖書を読む私達クリスチャンには、何ら落ち込む可能性のない危険には
語らないでしょう。しかし、逆に主が上記の様に何度も何度もゲヘナの危険に
ついて語られるのは、私達も間違えたり、惑わされたりするなら、
そこに入る可能性があるから、存在するからなのです。

聖書に関して専門家であり、神のこと、律法のことなら、何でも知っている
律法学者、パリサイ人に関して、主はゲヘナに入ること、その可能性が大いにあることを
語り彼らを「ゲヘナの子」とさえ呼びました。

この警告を素直に受け止め、今の時代の我々にとっても、同じ警告であることを理解し、
今の時代の聖書学者、教師であっても、ゲヘナの子になる可能性があり、
間違ったことを語るなら、聖書学者といえども、ゲヘナの火の裁きに入るのだとそう理解するのが、
正しい解釈です。

この視点に立ち、テキストを見ましょう。

”24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。”
 

繰り返していうようですが、私達はゲヘナの火に入る、その刑罰に入るというもっとも
大きな危険、最悪の刑罰を避けるべくクリスチャン生活をすべきと思います。それを
最大のリスクと考え、それ以外の危険、問題、
トラブルは、小さなものであり、あまり気にしないことにすべきと思われるのです。

もちろん、どんな小さな問題でもないにこしたことはありませんが、しかし、
避けられないなら、最大のリスク、問題、最悪の刑罰であるゲヘナの刑罰に
比べればまあよしとそう思うべきと思われるのです。

私がそう勝手に思っているというのではなく、この箇所がまさにそう述べているのです。
すなわち、ゲヘナの刑罰に入ることを思うなら、この世において、
人から、「ベルゼブル」と呼ぶことなど気にするな、
そういった類いの論調で、この箇所は語られているのです。
 

家長、家の長、教会という神の家の長であるキリストでさえ、ベルゼブル扱いされるのです、
我々がもっとひどいことをいわれても何の不思議もありません。
だから、この様に「悪霊つき」といわれたからといって、「神も仏もないのか、
もうクリスチャンなどやめてやる」などと、自暴自棄にならず、
この程度の被害、リスク、トラブルは、かねてから想定内であると達見してください。
我々は多少、ひどいことをいわれて心が傷付いたとしても、あの恐ろしい刑罰、
ゲヘナの消えない火の刑罰からは無縁なのです

それどころか、「キリストのために迫害される」のですから、大いに喜び、大感謝しなければなりません。
これはめったにない好運、ジャンボ宝くじにあたったようなものであり、天において
受ける報いは大きいからです。

”26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。”
 

「彼らを恐れてはいけません」と書かれています。
終末における大きな惑わし、間違いは、恐れるべきでないこと、人、ことがらを恐れ、
最大のリスク、問題、悲劇であるゲヘナの裁きを軽く見て、結果、裏切ったり、
不信に陥ったりし、そして反キリストを拝んだりして、そのため、最悪の結果、ゲヘナの刑罰へ
直行してしまうという、このことです。

人や回りを恐れ、結果、最悪の結末を自らつかんでしまうというパターンがあるのです。
最悪の結果に到らないためには多少のロス、被害、迫害はしかたがないことと心を定めるのが正解と思われます。

最大のリスクということを考えましょう。

あるガンになった人のことを聞きました。
医者がガンが、足に転移しているといったのです。それを切り取り、
ガンの進行をとめないと命が危ないというのです。
足を取るか、命をとるか、究極の選択みたいなものです。

足を切って歩くのに不自由なのは、その人にとって、大きな問題ですが、しかし、
命を失うことと天秤にかければ、足を切った方が良いでしょう。

同じく終末の日もある意味、究極の選択の日なのです。
どちらも取りたいなんていっている人は結局ガンが転移して命を失う人みたいに、
どちらも失うようになります。

終末の日に2つ良いことなどあり得ないでしょうから、私達は今から、
どちらを選ぶのか心を定めておくのが正しいと思われます。
 

「彼らを恐れてはなりません」と書いてある以上、終末の日に
堅く、み言葉に立ち、この方に忠実なものは脅されたり、威嚇されたり、
はたまた、投獄、迫害がありえるでしょう。教会からの除名やら、
反目なんかもあるでしょう。

しかし、そんな「この世における軽い艱難」とゲヘナの恐るべき刑罰と
どっちが得かどうかは、よくよく考えるべきです。

「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」

以前見ましたように、隠れる、現されるは、啓示に関連したことばです。ですから、
ここでの苦難、迫害は、啓示に関連したものと理解できます。

正しい啓示を語るために困難があるかもしれないが、そんなものを恐れるな、
そういう意味合いがあるように思われます。


27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。”

ここで語られていることは啓示の大々的な公開、宣伝、言い広めということでしょうか。
隠すな、広めろということがいわれているのです。
そんな教えを広めるなと脅かされたからといって黙してしまってはいけないのです。

主イエスの時も啓示が開かれた時です。そして、その
啓示を聞いた主の弟子達は臆することなく、ひるむことなく、語りつづけました。
命の危険さえ犯したのです。このことば、「あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」
とのことばに忠実だったのです。以下の箇所を見てください。

”使徒4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。”
 
 
 
 


28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。”

さて、このことばですが、私達が生きていくこの世には多くの危険、問題があるでしょうが、
しかし、その程度は、大から小まで、さまざまです。
あまり小さなことには、こだわらず、大きなリスク、問題には、最大の注意を払う、その様な
生き方をしないと、混同したり、勘違いする可能性があります。

肉体の命を失う、それはこの世の人にとっては、最大の問題、これ
以上はないという最悪のリスクなのでしょうが、しかし、それはこの世の考えであり、
聖書の考え、また神の考えでもありません。

もっとも大きな問題、リスクは、死後「にゲヘナで滅ぼ」される、ゲヘナの火に投げ込まれることであり、
それを正しく正しくとらえるべきなのです。

そして、極端な場合、究極の選択をしなければならない、
すなわち、肉体の死を選ぶか、はたまた、肉体の命は得るがしかし、
死後ゲヘナへ投げ込まれる道を選ぶかと言う究極の選択をしなければならない時が
来るかも知れないのです。そして、そ
の時には、正しく正しく選べるよう、
今から祈っていくべきと思われます。
 

何故か?それは、この明白な区別を勘違いして、見えることのみから判断し、
肉体の死を恐れるばかりに後で、取り返しのつかない、
間違った選択をする人々が
たくさんあらわれるからなのです。

世の終わりの時は、非常にシビア、深刻な時であり、
ふだんはない、深刻な選択をしなければならない時の様です。
主のいわれた「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」とのことばは
まさにその深刻な選択をさします。

この世についたキリスト教会は、まったく能天気になり、
ありもしない空想話にうつつを抜かし、極楽とんぼの様に、
現実離れした、楽観論を盲信しています。

いわく、「キリストのいっている艱難の時代は、実際には、
クリスチャンを襲うことはない。艱難の前には挙げられるから大丈夫」なんていう、
聖書には何らの根拠のない教え、2段階携挙説
のことです。

しかし、正しく主のみことばに立つ人々は、これらのよた話に一べつもくれず、
しかし、主の言われたこのことば、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」とのことばに耳を傾けるべきなのです。

主は無意味にこの言葉を語られたのではなく、しかし、その様な究極の選択の
時代をみすえて語られたのです。
そのことばに基づき、今から正しく心を備えていく人こそ、
洪水に押しながされない岩の上に家をたてる賢い人なのです。

そんなわけで、終末にあたって、我々クリスチャンが備えるべきことの
一つは、明らかに正しい生死観を持つことであるといえると思われます。
聖書的に正しい生死観とは?それは、このこと、
肉体の死は、確かに大変なことであり、なるべく避けたいことではありますが、
しかし、それが全てにわたって優先するものではないということを知るべきと思われます。
場合によっては、いいえ明らかに、肉体の死をもってしても守るべき一線が
クリスチャンにはあることをみことばは語ります。
肉体の命を犠牲にしても、守るべき一線があります。
その時、正しい決断をできるよう、
今から祈るべきなのです。

肉体の死はそれはそれで、苦しさがあるかもしれませんが、しかし、
ゲヘナの刑罰に比べればどれほどのものでもありません。

金持ちは以下の様にそのハデスの苦しみを述べています。

ルカ16:「23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」

このハデスの苦しみ、火で延々と苦しむことを思えば、
迫害されて肉体の命を失うことなど何程もないように思えます。

というより、我々の場合、まったく楽観です。まかり間違って、死んでも天国、それに
御名のために辱められたり、迫害されたら、「天において受ける報いは大きい」のですから、
どっちに転んでも良いことばかりです。

まかりまちがっても肉体の命をとるぞなんてこけ脅かしに屈して、
永遠の悔いを残してはいけません。
主のこの様にいわれたこと、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」とのことばは、だてや酔狂で語られたのではなく、必ず来る日について預言したと理解すべきと
思われます。ただしくその日に対して、備えるものにみこころがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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