No. 579 自分の子のために泣く


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テキスト:ルカ23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。"
 

本日は、「自分の子のために泣く」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。

”27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。”

この日多くの嘆き悲しむ女達がイエスの後をついていきました。
主イエスが十字架につけられ、殺されるのでこれらの女達は嘆き悲しんだのです。
この日は、冒涜の日であり、神に反逆を重ねた神の民が最後には神のひとり子さえ、殺してしまった日なのです。この日は、終末にも再現され、油注がれた人々は、惑わされた神の民により、死に引き渡されるでしょう。


28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。”

この悲しむ女達に対して、主は、イエスのことで、嘆くな、むしろ自分の子たちのために、
泣くよう、語ったのです。

言い方を変えると、他人のことを心配している場合ではない、いずれ、この血の報いは、
この都にまた自分達の子供に降りかかってくるということを語っているのです。
 

このことは大袈裟な表現ではなく、実際にその後、成就しました。キリストのことばは、
後に起きることを正しく述べたことばです。
キリストの十字架の死から、40年後の西暦70年に、エルサレムは、ローマの攻撃により、
最後の一人迄、殺されたのです。
その時、ユダヤ全土で、110万人もの人が殺されたといわれます。

すさまじい、徹底的な殺りくが行われたのです。
何故か?当然ながら、神の子殺し、油注がれた者を殺した罪に関して、
すさまじい神の怒りが実行されたのです。

私達はこの原則を正しく知らなければなりません。
神は正義の神であり、流された罪なき者の血に報いる、たとえ遅くなっても
裁きと怒りの手は冷徹に下される、そのことを知るべきなのです。

そのことを知るなら、何故日本がアメリカにより、大変な空襲を受けたのか、さらに原爆まで、
投下されたのか、その理由もわかるのです。
原爆で100以上もの日本の都市が焼かれましたが、しかし、かつての日、それらの
どの町においても、キリストを信じるキリシタンへのすさまじい迫害があったことを思い出すべきなのです。人々をキリシタンを追い詰め、迫害し、住むことさえ、食べることさえ許すまいとし、
それらのキリシタンを人間ではない、エタ、非人とさえ、呼びました。
これらの罪を神は見過ごしにされるのか?
「復讐は私のすることである」と神はいわれなかったでしょうか?
これらの都市は火で焼かれ、神は正義をもって、たとえ遅くなっても裁かれる方であることを
我々は知るのです。特に長崎は多くの殉教者の血が流されたところですが、原爆をもって、
すさまじい神の怒りを受けました。

私達クリスチャンはこの神について述べるべきであると私は思います。
この国にその罪を悟らせるべきなのです。
勝手な解釈をし、甘いこと、何でもオッケーオッケーの非聖書的な神を説明するのは、
偽預言者のわざであることを知るべきです。

さて、ここでは女と自分の子について書かれています。
終末の日にも女と子についてやはり語られる日が来るでしょう。
しかし、それはたとえの意味合いです。
女は教会のたとえ、子はその女に生まれる、新生する、クリスチャンのことをさします。
彼らに災いがもたらされる日が来るのです。
何故なら、彼らが終末の日の、油注がれた人々への殺害に加わるからです。

”29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。”

このことばの意味あいはどういうことなのでしょう?
言わんとしていることは、子を生まない方が幸いだというようになるということです。
終末の日においては、新生しない方が、クリスチャンにならなかった方がよかったという日が来るといっているのです。

新生しない方がいい?伝道をさかんにしている、教会にとってはびっくりするような
表現でしょうが、たとえの意味合いは明らかにそう語っています。

かつての日、主イエスの日、またその後のローマによるエルサレムへの攻撃の日においては、
『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸い』でした。
何故なら、生まれなければローマにより、殺されることもなかったからです。

同じ意味合いで、終末のエルサレム、背教の教会においても、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸い』だといわれる日が来るのです。
新生しなかった方がよかったという日です。
それは、教会の背教の日、そしてその背教のゆえ誰も彼も、偽りの教えや、
悪霊リバイバルに追従する日です。あげくの果て、
義人の殺害、迫害に荷担するようになる日です。

彼らはその罪のゆえ、すさまじい神の怒りを受けるようになります。だからこそ、
子を産んだことのない胎:すなわち、新生させない方がよかったということさえいわれるのです。
 

”30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。"
 

このことばの意味あいはどういうものなのでしょう?
第一義的には、ローマの攻撃にあった、エルサレムの人々が、その災いの中で、
山、丘に助けを求めると言うことです。その日、
エルサレムでは、最後の一人まで殺されたと言うのですから、確かにその様な
助けのことばがかわされたと思えます。

さて、この同じことばが終末について語る黙示録にも記されています。

”黙示録6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」”
 

これらの2つの箇所は明らかに似ており、同じ表現と理解できます。
ですから、かつての日、主イエス殺しの罪のゆえにエルサレムに下った災いは、
終末の日、再度大きな形で、終末の背教の教会に襲いかかることが想像できるのです。

ですから、これらののことば明らかに語る終末の日の教会に関する聖書のメッセージは以下の通りです。
1. かつて、主イエス殺しのゆえに、神の民への裁き、殺害は、エルサレムの民へと具体的に
下った。
2. 同じく、終末の日の義人、油注がれた者達を殺す罪のゆえに、終末の背教の
教会への裁きが行われる。

それが、どのようになされるのかは、私にはまだよくわかりません。
ただ、上記のことは明らかに語られている、そう私には読めます。

しかし、私達にあっては、この方に従っていきましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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