NO. 578 暗闇の力


”テキスト:ルカ22:47 イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。
48 だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。
49 イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。
50 そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
51 するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。
52 そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。
53 あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」”

本日は、暗闇の力という題でメッセージをしたいと思います。

かつて主がゲッセマネの園で逮捕された時、主はその時を「彼らの時」と呼びまた、
その逮捕を「暗闇の力」と表現しました。このことを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”47 イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。”

主はある時、特定の時を呼び、「しかし今はあなたがたの時です」といわれました。
それは、具体的には、主が逮捕され、尋問、裁判にかけられ、最終的には、十字架につけられる
時のことです。

かつての日、主イエスの時代にこの「時」は実際に到来し、その時、真理そのものである
方は逮捕され、最後には命まで奪われてしまったのです。

かつて起きたことは終末の日に繰り返され、3年半の主の活動の時に起きたことは、
終末の3年半、艱難の時代に繰り返されると理解できます。

ですから私達は終末の日の「暗闇の力」についてこの箇所から学びたいと願っているのです。
テキストの箇所では、12弟子の一人である、ユダが裏切り、主を敵に渡すための主役となっていることが書かれています。新約のイスラエルである、教会の
12弟子は、それはまた旧約のイスラエル12部族に通じます。
旧約の12部族の中で、ユダは大きな位置を占め、否、ユダは12部族の筆頭の位置を占めていました。
南北に分かれたイスラエル2国の中で、神のみこころはユダにあり、またダビデを始めとした
ユダ族の王は皆、ユダの出身、それのみかキリストも人間的には、ユダ族の出身なのです。

ですから、ここで書かれたユダの裏切りとは、単にイスカリオテのユダという個人の裏切りというより、
預言的には重大な意味合いがあると理解できます。
具体的には、新約のユダ族、神に愛された教会であるプロテスタントが終末の日には、キリスト
への裏切りに荷担する、そう理解できます。ユダは敵の先頭に立っていました。
ですから、その日、悲しいことには、プロテスタントがキリスト裏切りの先頭に立つようになるでしょう。
 
 

”48 だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。”

ユダは人の子、イエスを裏切る時、合図として口づけ
をしました。愛の行為である口づけをもって裏切りの合図としたのです。
このことは非常に皮肉な方法です。

同じ様なことが終末の日、キリストを裏切るプロテスタントの人々の間に行われるのかもしれません。
 

”49 イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。”

主の回りにいる人々、主につく人々は剣で打つことを語りました。主はこの時は止めませんでした。
というより、それ以前の箇所では、主御自身で剣を用意することを弟子に語ったのです。

ですから、聖書的には、終末の日に剣を用意することまた、剣や槍を持ってくる人々に
自らも剣を持って応戦することは全く合法、聖書的なのです。
もちろん、村正やら虎鉄やらの刀の話ではなく、御霊の剣、すなわち神のことばのことをいっています。

私達は剣を用意し、みことばにかんする論争、教理に関する論争に備えなければなりません。

”50 そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
51 するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。”

主の弟子の剣は用いられ、敵を打ちましたが、主はそれまでと語りました。
我らの戦いも主がとめられる時が来るのかも知れません。


52 そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。”

彼らは主イエスを強盗、盗人であるかのようにみなし、剣や棒をもって向かってきました。
強盗、盗人は、盗むことに通じ、盗むことは、みことばを盗むことと関連します。
ここでいわんとしていることは、ことばは神であるといわれた方自身を、その神のことばを盗むもの、
改ざん、嘘をつくものと非難、攻撃するとの意味合いです。

このことは、実際に今起きつつあり、主イエスの復活は嘘だというデマがしきりに
語られています。「イエスの墓」に関する嘘は、イエスは実際には、十字架になど
かかっておらず、 マグダラのマリヤと結婚して子供迄生んでいたとして、広がろうとしています。
このことをさし、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来た」と
表現しているのです。

トンデモない、嘘がまかりとおり、真理なる方への冒涜が真剣に論議されている
時代に我々はいるのです。
 

”53 あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」”
 

さて、ここである特別な時に関して語られていることを理解しましょう。
ここでは、2つの時に関して語られています。

1. 毎日宮でイエスが教えている日:誰もイエスに手出ししない
2. 暗闇の力の日:イエスを非難し、亡きものとする

さて、教会時代にも同じく2つの時、時代があることを理解しましょう。
1. 普通の教会時代:宮、教会でイエスは我々を教え、その時、誰もイエスを非案したりしない。
逆にイエスのわざをほめたたえる
2. 終末の時代:教会において、イエスへの非難が起き、イエスの御霊は追い出され、
イエスのことばへの非難が起きる

「今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」

さて、このことばです。
この時代、主イエスの時代に明らかに理不尽な時、真理なる方が非難され、しかも裁判が曲げられ、
かつ正しい方が死に渡される時がありました。
その時をさして、「今はあなたがたの時です」といわれました。

我々はこのことを通して、終末にも同じ様な時が再現することを知りましょう。
残念ながら、暗闇の力が支配し、真理が真理として通用しない日は来るのです。

ですから、私達は人から認められる、キリスト教会で評判をあげるなどということにあまり
捕らわれているべきではないのです。
そんなことに大きな強調点をおいているといつか惑わされます。

何故なら遅かれ早かれ、キリスト教会は、いずれ、真理ではなく、
偽りが支配するようになるのです。

すでに世の中は偽りが支配しています。
911テロとかいう、怪しさ満載の嘘つき事件に関しても新聞もテレビも政治家も
誰も本当のことをいおうとしません。主が「あなたがたの時」といわれた闇の時に
すでに我々は入りつつあるのかもしれません。

「暗やみの力です」

この日、主イエスが逮捕された時、闇の力が働き、その力が支配し、
闇の力が優勢になりました。
あたかも闇の天下の様に見える時が来たのです。

このことは、望ましくはないが、しかし、実際に起きたことです。

それで、終末に臨む我々も終末の日に同じことが起きることを知らなければなりません。

すなわち、暗闇の力が支配する日が来るのです。

真理は通用せず、反キリストが横暴を極める日が来るのです。
それは、その様に定められているのだから必ず到来するでしょう。
しかし、それとともに、このことをも知るべきでしょう。

その暗闇の力が働く時は限られていること、そして、反キリストも暗闇の力も
やはり神の許しの下でしか活動できない、そのことをです。

電車がトンネルに入ると真昼でも突然暗くなります。でもその時間は長いものではなく、
しばらくして、その暗いトンネルも終わり再び日がさしこんで来ます。
暗闇の力もその様なものであり、その働く期間は定められています。
それを少しも超えることができないのです。

要はこの力も神の支配の下に在るに過ぎないのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
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