No.577 預言者の語るすべてを信じない心の鈍い人々

テキスト:ルカ2424 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 

本日は、「預言者の語るすべてを信じない心の鈍い人々」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

 

”24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

 

このことばは、どういう流れの中のことばかというと、いわゆるエマオの途上の話です。
ここで、彼ら、弟子であるクレオパ達は、キリストの復活の話をしています。そして、死んだはずのイエスの墓がからになった、女達は、キリストは復活したというが、我々には信じられない、そういっていたのです。

 

こういう弟子の反応を我々はどう思うでしょうか?今の時代の我々はどう思うでしょう?

 

建て前は、「主の弟子たるもの、キリストの復活を信じないとはけしからん」ということになるのでしょうが、しかし、私達がもしその場にいたと仮定したら、「死んで墓に入った人が、蘇った」と聞かされてすぐ「はいそうですか」と信じられるでしょうか?

 

”25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

 

しかし、主はこれらの人々の態度を仕方が無い、人が蘇ることなど、普通は無いことなので、信じられなくても仕方が無い、とは言いませんでした。
むしろ、上記ことばの様に、その不信を責めたのです。
上記言葉の中では、「愚かな人たち」「信じない」「心の鈍い人たち」と何度も繰り返して責めることばが出てきます。それでこの彼らの態度、このことは、確かに弟子として、問題であることが分かるのです。

 

この復活に関して、聖書また、預言者は、かつてどう言っていたのでしょうか?旧約聖書の中にキリストが死に、かつ蘇ることを語ることを語る箇所があるのでしょうか?

 

以下はその一つと思われます。

 

詩編1610「 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」

 

確かにこの箇所を後の日に起きた、ナザレのイエス・キリストの復活と重ね合わせて見ると、これは、前もって後の日に起きるキリストの復活を語るものである、それを語る箇所であるということは出来ます。

 

この箇所を聖書の民である、イスラエル人が知らないかというと知っているでしょうし、読んだこと、聞いたことがあるかと言えば、あるでしょう。

 

しかし、それを自分の実際に重ね合わせ、キリストが来られたら、必ず、復活があると弟子が、確信していたかと言えば、どうもそうではないようです。

 

イエスをキリストとは認めなかったパリサイ人、律法学者は勿論、この十字架で死んだイエスが3日目に生き返るなどとは思いもしなかったでしょう。
彼らのことはともかく、しかし、問題なのは、イエスを信じていたはずの弟子達も、キリストに関して書かれている全ての聖書箇所が文字通り成就するとは、実際には信じていなかっことなのです。

 

信じていなかった、そう言い切られたら、弟子達も心外でしょうし、「何を言うか、私達は、イエスの後についていき、死をも覚悟していたのだ」と反論するかも知れませんが、しかし、聖書を読む限り、明らかに弟子達は、イエスが生き返るなどとは、予想も想像もまた、信じてもいませんでした。

 

 

ルカ2411「ところが使徒たちにはこの話(復活)はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」

 

弟子達は、復活に関して報告する、女達の話をたわごととし、また女達を信用しなかったのです。
この箇所を見る限り、弟子は復活を全く信じていなかったと言われても仕方が無い状況です。

 

さて、他の人ならともかく、主に従うことに熱心であり、神に従うことに熱心であったはずの弟子達が、
何故復活を信じなかったのか、そのことを考えたいと思うのです。

 

一つの理由は、というか、一つの大きな理由は、復活、人が生き返ると言うことは、普通めったに起きない、というか、まず起きない事柄だからです。
人は死んだら終わり、その後は生き返らない、これは、その人の信仰心やら、義人であるかどうかということにかかわらず、あまりにも広く、深く根ざした常識なので、残念ながら、信仰やら、聖書を信じることやらより、しかし、常識が先行してしまうのです。

 

かくのごとく人間的に我々の立場から言えばこのこと、弟子が信じられなかったことは、「しょうがないことでは」と思えるのですが、しかし、主はそのこと、弟子が復活を信じないことを責めました。

 

「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」とかなり厳しい調子で責めたのです。

 

それで、この箇所から、我々主の弟子を目指す者達が、学ぶべき教訓は何でしょうか?
それは、このことでしょうか。

 

我々の常識を超えたこと、思いもかけないこと、想像も出来ないこと、それでも聖書に書かれたことは、成就する:このことです。

 

ここで聖書が語っていること、それは、聖書を知っている、信じている、キリストのことをも信じている、そのはずだった、弟子達が、いざ実際に聖書に書かれたように、キリストが復活しても、何とそんなことは、信じても期待しても、はたまた、そのことを計算にも入れていなかった、そのことなのです。

 

そして、このことは他人事ではありません。
我々の時代においても同じ様なことが起きる可能性があるのです。

 

キリストの死や復活について語る聖書は、また、終末の日における、反キリスト勢力の勃興、教会の背教はたまた、しるしと不思議の時代、そして、キリストの再臨について、宣べているのですが、多くの人々はこれらの事柄が、本当に起きると思っていないように、私には見えます。

 

事実は、聖書の前もって語ったとおりの時代が今到来しており、今は、終末の日の惑わしやら、反キリスト礼拝へ導くためのしるしと不思議の集会、器が花盛りなのですが、誰もそのことを見ようとはしません。

 

主はかつてこう言われました。

 

マタイ24:24「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」

 

この様に前もって預言したのです。

 

しかし、悲しいかな今の日本のキリスト教会の新聞も雑誌も牧師連中も「愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」となっています。

 

彼らは預言者である、キリストの語ったことばが全て成就するとは信じてもいないし、その様に計算に入れているわけでもなく、これらのことばが成就することを前提にクリスチャン生活を送っているわけでもありません。

 

だから、目の前で、怪しい金粉が舞い踊るしるしと不思議を見ても何の疑問も感じないのです。

これらの怪しいリバイバルに関して警告を発する人々がいるのですが、彼らはこれらの声に関しても
耳を傾けずかえってトンデモ扱いです。

 

あの弟子達、復活の主のことを報告に来た女達の話を信じ、本気にしなかった弟子達と全く同じです。

 

弟子達は何故主の復活を信じられなかったのか?それは彼らの常識、人間としての常識が、聖書の知識やら、預言者の預言よりまさっていたからです。
「人が死んだら生き返るはずがない」という人間的常識が何よりまさり、それが預言者のことばを信じることより優先していたのです。

 

同じく今のキリスト教新聞、雑誌、牧師連中が何故、ベニー・ヒン、ビル・ハモンだの、悪霊リバイバリストのリバイバルこそ、聖書のいう後の日の反キリスト由来のしるしと不思議であると信じられないのか?
これも同じく、彼らが自分の常識を優先し、かつての主の預言のことばなど信じていないからなのです。

 

常識とは?それは、すなわち、キリスト教会の有名な器、アメリカで評判の器が悪霊を下したりするはずはない、という常識です。
彼らは人間の常識を優先し、神のことば、預言者のことばを無視しているのです。

 

同じくテサロニケの手紙には、以下の様に終末の日に教会が背教に進むことが明言されています。

 

2テサ2:3「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」

 

教会が背教に進むことは預言され、明記されているのですが、彼らはレフトビハインド等のヨタ教理、すなわち教会が艱難前、中に挙げられるとのヨタ教理やら、自分の常識を優先し、このことばを信じようとしません。
結果、今の時代を見分けることが出来ません。

 

ですから、日本のキリスト教会、新聞、雑誌等がそろいもそろって、今の時代に関して、盲目であり、何ひとつ見ることが出来ない、その理由は、彼らが「愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」であることを知りましょう。

 

かつての日、主の弟子達は実際問題、主の復活に関して、預言者のことばなど、信じてもおらず、鵜呑みにもしていませんでした。だから、いざ、実際に復活が起きたとき、トンチンカンな対応、不信仰な対応しか出来ず、対処出来なかったのです。

 

同じことが今のキリスト教会にも起きているのです。

 

そしてこのことは、しるしと不思議のリバイバルの見分けに関することだけではありません。

 

私はこのように言います。

 

終末の日、はっきりしていることが一つあると思えます。
それは、常識を優先するクリスチャンは、くつがえされ、惑わされること、しかし、預言された全てのことばを信じる人々は、今の時代を見分け、正しく行動出来ることです。

 

主のことば、旧新約の預言者のすべてのことばを信じる者に御心があります。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。