NO. 576財布のあるものは財布を持つ

”テキスト:ルカ22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。”

本日は「財布のあるものは財布を持つ」という題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。

”33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」”

主につく弟子は、ふだん、あまり財布のことなど気にかけません。その様な態度、
それは、信仰的であるし、世にもつかない態度であるし、ほめられることと思われます。
これは、一般的な、普通の時代の話です。

しかし、主がわざわざ、財布のあるものは財布を持て、といわれた時があります。
どうして明日のことを気にかけるのか、野の鳥は蒔きも刈りもしないのに天の父はこれをやしなってくれるといわれた方が、わざわざ弟子達に財布のこと、経済のこと、食うための金の
用意について語った時があるのです。

その時はどういう時かというと、具体的には、ゲッセマネの祈りの時、また、その後、
律法学者達に遣わされた槍を持つ大挙した群集に囲まれる時の話です。

また、上記節の様に筆頭弟子であるペテロが、死の覚悟はできていると
語った、殉教か迫害かという時のことです。
この日は、ナザレのイエス一派であるとして、もう宣教も
説教もまかりならんとの決定がなされた日です。
結果リーダーであるナザレのイエスは逮捕され、弟子はちりじりとなり、
ガリラヤに戻り漁師の生活に戻った時なのです。

同じ様な日は終末にも来ます。主につく人々が、そのみことばへの忠節のゆえに
逮捕、投獄はたまた、不法とされ、伝道では食べていけない日が来るのです。
その我々は財布を持つものは財布を用意しなければなりません。

財布を用意する?
このことばの意味合いは私の理解では、生活手段のあるものは、その用意をせよ、
もう宣教では食べていけない時が来るから:そんな風に理解できます。


34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」”

ペテロに対して、主は彼がイエスを三度知らないということを預言しました。
このことは実際に個人として、12弟子の一人であるペテロの身の上に成就しました。
しかし、この預言はこれで全てが成就したというより、残り半分の成就は3、すなわち、3日目、
3つ目のミレニアムに成就すると思えます。
具体的には、ペテロの後継者を自称するローマ法皇に率いられるカソリックに関する預言です。
カソリックが終末の日にイエスを知らないといいだし、また救い(イエス)と無関係になってくる
日の預言と思えます。


35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」”

ここで書かれているのは、2つの時代の対比です。
一つは、普通のいわゆる教会時代における弟子の歩み、特に物質的、金銭的なことに関することがらです。もう一つは、危急の時代、終末の艱難の日に主の弟子は物質的、金銭的なことに対して、
どう対応すべきかと言う問題です。

主はまず、一般的な教会時代に関して、弟子達に「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」と聞きました。

その問いに対する弟子の答えは、「いいえ。何もありませんでした。」でした。
ですから、普通の教会時代において、信仰の歩みをし、また、金銭や物質的なことに関しては、
信仰一本で歩むことは、ほめられることであり、また、主はこれに答えて養って下さるのです。
しかし、これはあくまで、「普通の」教会時代における常識です。

終末に関して、主は特別なことを語ります。

”36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。”
 

「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち」と書かれていますが、今という特別な時、
危急の時について述べられているのです。この時は、具体的には、主イエスが逮捕された時のことであり、預言的には、終末の日の型です。

終末の日、私達は今までの教会時代の常識を捨て去り、特別な用意をしなければなりません。

財布を持てという時のこの財布とは何をさすのでしょう?
財布は、お金を入れるものです。たらいは洗濯物を入れるものであり、
どんぶりはうどんを入れるものです。同じ意味合いで、財布は、魚を入れるものでも
うどんを入れるものでもなく、しかし、硬貨やお札をいれるものです。
経済的なことをいっていると理解できます。

もっと具体的にいえば、財布を持て、経済的な備えをせよ、そう理解できると思うのですが、どうでしょう。献身者は、牧会やら、伝道で食っていければそれに越したことはありません。
しかし、主はこの時、弟子達に財布を用意せよ、と語りました。
伝道だけでは食べていけない時が来ると語っているように思えるのですがどうでしょう。

事実、当時のエルサレムでは、イエスを信じるものは異端認定、カルト認定され、
会堂から追い出され、追放されることが定まりました。
異常に興奮した群集はイエスを十字架で殺せと絶叫し、弟子であるペテロに嫌疑をかけ、捕らえようとしました。非常に特別な時であり、伝道したり、みことばを語れない、そうすれば、
すぐ逮捕、投獄が待っている状況だったのです。

さて、同じ様な日が終末に来ます。聖書のいくつもの箇所はその日を暗示します。

”黙示録13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”

この箇所は獣のしるしのない者がもう売ることも買うことも、すなわち、あがないに関係することが
できない、伝道、牧会に関する活動ができない日を語ります。そんな日には、伝道で食べていくことはできません。結果、財布の用意、何か別の食う手段が必要なのです。

”ヨハネ16:1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。”

この箇所も終末には、伝道で食っていくのは困難な日が来ることを暗示させます。主の弟子は、その日、
会堂から追い出されたり、殺されたりするのですから、伝道やら、牧会どころではないのです。
この日、これらの手段で食っていくことはできません。
そうではあっても、主の弟子とはいっても、食べる手段は必要なので、その財布を用意するよう、
主は語られていると思います。
 

「同じく袋を持ち」

ここでいう袋とは、上記でいう旅行袋のことです。
かつての日、伝道に行く弟子達にこの旅行袋を持っていくなと主は命じました。以下の通りです。

”ルカ9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。
3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。”
 

かつては持っていくなと明示した袋を今は持っていけと全く逆のことばを主が命じることに
より、この時、危急の時の特別さが我々には理解できます。

袋の意味合いは何でしょう?旅行袋とは、旅行で必要になる、もろもろの持ち物を入れるものです。
今なら、歯磨きセットとか、タオルとか、シャツとかを入れるのでしょうか。かつての日、主は
そんな袋をもっていくなと語りました。何故なら、働き人には、必要なものがあたえられるからです。
しかし、この時、ゲッセマネの時には、袋を用意するように語りました。
物質的なことがらに関して用意が必要であると語っているように思えます。
 

”剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。”
 

剣は、「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているように、みことば、また
みことばに附随する、教理のことと思われます。また、剣は、料理に用いるものでもなく、
マラソンに使うものでもなく、しかし戦いの武器です。
従って、剣の意味合いは、みことば、教理に関する論争、戦いと理解できます。
 

ですから、世の終わりの時とは、主につく者達にとって、剣、戦いの時なのです。具体的には、
教理に関する戦いです。剣を買えということばに関して主が言われることの主旨は、
「戦いを逃げるな、撃って出ろ、剣を交えろ」ということです。
「キリスト教は、絶対平和主義だから、何をいわれても、じっと耐える」だの、
腰抜けのたわごとみたいなことを言っていてはいけないのです。

撃って出ること、背教教理だの、異端教理だのを積極的に非難し、名指しで、
攻撃することは、主が積極的に求めていることであって、腰抜けやら、日和見だのがいう、
もくもくとじっと、背教に耐えることなど奨励されていません。

私達の唯一の行動基準は背教教団やら、盲人牧師、監督ではなく、唯一の主、王である
キリストのことばであり、主に命じられたらいつでも、これらの背教者どもを
撃つ剣を繰り出す備えが我々にはあるのです。

「キリストは虐げられた小数者の味方であり、性的マイノリテイ、我々レスビアンの味方である」なんてトンデモない冒涜教理を振りかざす、汚れたレズ女どもは、当然その冒涜を非難されるべきなのです。
こんな冒涜を語り、恐れげもない人々は、いずれ主の前で受くべき当然の報いを受けることになります。
 

まとめますが、終末の日、主にある人々にとって、特別な日、今迄のキリスト教会の
常識が通じない日が来ます。

その日を明らかに聖書は預言するので、これらの勧告にもとづき、これからの時代に備えていきたいと
思います。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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