NO.575死後、火に投げ込まれる


”テキスト:マタイ18:7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。
8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。”
 

本日は、死後、火に投げ込まれるという題でメッセージをします。
死後、永遠の火に投げ込まれる人がいることは、上記のみことばの通り、明白です。

そして、問題なのは、それが単に未信者の人だけのことというわけでもないようです。
聖書は、どうもクリスチャンであっても罪を犯しつづけていくなら、死後、火に投げ込まれることがあると語っているようです。

その様なことを語るみことばはいくつもあります。たとえば、
マタイ13章には、麦は集めて倉に入れられるが、毒麦は集めて火で焼かれることが書かれています。
麦、毒麦は、パン、みことばと関連したたとえであり、クリスチャンと関係があります。
麦も関係がありますが、毒麦もクリスチャンと関係しているのです。

同じくマタイ13章に書かれた他のたとえでは、良い魚と悪い魚のたとえがあります。
魚はペテロへの「人間を捕る漁師」ということばから、クリスチャンのことと理解できます。
良い魚はクリスチャンのことですが、悪い魚も同じくクリスチャンのことをさすのです。そして、果たして、このたとえでは、悪いものは、えり分けて火の燃える炉に投げ込むとも書いてあります。以下の
通りです。

”マタイ13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”
 

これらの箇所により、悪いクリスチャンは、火の裁きにあうことがわかるのです。
世の終わりにもその様になります、と書いてあるので、この様なこと、クリスチャンであっても、
なおかつ悪いものになり、結果、火に投げ込まれるクリスチャンが大量に出現するのは、
終末であることもわかります。
 

さて、この理解に沿ってみことばを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。”
 

さて、ここでは、この世が私達につまずきを与えることが書かれています。
つまずきとは、要するに入るべき道、天国への道への歩みをとどめるものです。

世はつまずきをもたらす、そして、忌まわしいものであると明記されていることをよくよく理解しましょう。考えましょう。

しかし、今のキリスト教会のトレンドはその様な理解でもなく、音楽でもカウンセリングでもどんどん、
この世のものがもてはやされる時代ではありますが、しかし、私達は主のことばに耳を傾けましょう。

世は、私達につまずきを与え、そのつまずいた者は恐ろしいことには、死後火のさばきに
会う、明らかにこの文脈ではそういっています。
このことをとらえましょう。

我々クリスチャンがこの世にどう対応するのか、どう対処するのかは非常に大事です。
それ次第で、あるクリスチャンは火のさばきに会う、そう明らかに語られているからです。

食べるとき、気をつけなければいけないある種の食べ物があります。
ふぐなんてその一つです。食べればおいしいのでしょうが、しかし、毒のある部分を食べれば、
命を失います。ふぐは美味、しかし危険があるわけです。さて、この世も同じ様なものです。私達クリスチャンは、この世にあるものではありますが、
しかし、限度を超えてこの世に巻き込まれていくなら、肝心の永遠の命を失ったり、火のさばきに
会うのです。
そのことは、よくよく気をつけていなければいけません。

私達がどの様にこの世にあり、かつ世の習慣、方法を避けるべきかに関して、その
参考は、旧約聖書の記述にあります。

旧約の日、カナンの地に入った、イスラエル人が、しかし、いかにこれらの異邦の民と
一線を画すべきか、このことに関する教えは、今の我々がいかにこの世と一線を画すべきかということに
通じます。

そして、旧約の民の悲しい結末は、カナンの地に入った神の民が、結局は
カナンの地の罪、汚れ、異邦の習慣に巻き込まれ、神の怒りをかい、約束の地から
吐き出されてしまうということなのです。

新約の神の民の結論も同じ様なものであり、結局はクリスチャンは、この世に巻き込まれ、
追従し、混沌とし、神の怒りを受けるようになるでしょう。

この世のもの、すなわち、テレビだの映画だの、この世の学問、雑誌、新聞等は
クリスチャンをつまずかせるために用いられます。

だからこそ、「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。」と書かれているのです。
このことに関して自覚をもって、世に対応しましょう。
 
 

「つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」

さて、つまずきをもたらす「人」に関してここでは述べています。
この世は、人を通して教会内に持ち込まれ、結果多くの教会のクリスチャンをつまずかせるのです。
それゆえ、それをもたらす人はわざわいなのです。

この世は今の時代、大いに教会に持ち込まれています。
目的さえ、達成すれば方法は問わないというパーパスドリブンチャーチやら、
魔術の指南書、ハリーポッターなども持ち込まれています。
しかし、これらをもたらす人はわざわいであると書かれています。
 


8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。”

さて、ここではこの様な世に関して我々がどの程度、毅然とした態度を取るべきか、徹底して対抗すべきかについて書いてあります。

その方法、態度は、もし肉体の手か足が罪を犯したり、つまずかせるなら、
そんな手でも足でも切り取ってしまえ、たとえ、手足の一本や2本なくなっても
死後さばきの火、永遠の火に投げ込まれるよりよっぽど良いというものです。

驚くべき徹底について書かれています。以前はこの手足に関してたとえの意味合いを見た様に
記憶していますが、今日は文字どおりの意味合いも考えましょう。

ここでの主旨は、手や足が罪を犯したり、つまずかせるなら、
そんなものは切り落としてしまえ、その結果、今の日常生活に多少不便が出るかもしれないが、
しかし、そんなことは、死後火のさばきに入ることを思えばどうということはない、と
いう教えです。主御自身がそういわれるのです。

ここで理解できるのは、死後私達に迫り来る、火のさばきという恐るべき、可能性です。
そして、私達が徹底して、今の時、これらの罪やつまずきに対抗しないなら、また、
罪の奴隷のままクリスチャン生活を続けていくなら、
死後、火のさばきに入る可能性があるという恐るべき宣告です。

命に入るためなら、また火の裁きを逃れるためなら、手足の一本や2本、そんなことを気にするなという、
我々の常識をはるかに超えた、死後のさばきに関する主の警告、断言なのです。

それで我々、死後のことがわからない者は、この主のことばを根拠に
死後の裁きまた、そのために何を犠牲にすべきか、また何を犠牲にしても
裁きを受けないなら、わりが合うのか、その判断の基準がわかるのです。

ある人が癌になったと聞きました。医者はもう癌が足まで、転移しているので、
彼の足を切らないと命が助からないといいました。それを聞いたその患者はショックで、
泣いてしまったということです。同情できる話です。しかし、医者が無理難題をいっているとも
思えません。確かに足を切るのはつらいでしょうが、それで命が助かるならもうけものと思うしかないのです。

さて、同じ意味合いで主は私達に対して、もし、自分の手や足がつまずきを与え、また
罪へ誘うならそんなものは切ってしまえと語っているのです。
その様に語る主イエスが無理難題をいっているのではない、人々を困らせようとしているのではない、
逆に死後の裁き、火のさばきに入らないことがいかに大事なことなのかをこのことを通して理解すべきなのです。

一般的に死後のことは誰も知りません。いろんな人が死後のことをいいますが、どれも信ぴょう性がありません。何故なら、誰も死後の世界へ行った人はいないからです。
さて、例外が一人だけおられ、世界の歴史上、たった一人だけ、死を体験し、その後蘇った人がいます。
それが主イエスキリストです。ですから、死後のこと、はたまた、死後の裁きに合わないためには、
今の私達がどれだけの物を犠牲にしてもわりが合う、合わないということに関してはこの方の
ことば、判断に信ぴょう性があるのです。

そして、その方、死を経験した方は、私達が、死後の火のさばきに合わないためには、たとえ、
手足を失ってもそれは十分わりが合うと語るのです。

手がつまずかせるとは具体的にはどういうことなのでしょう?
盗みぐぜのある手ということでしょうか。そんな手を切り落としても、そしてその結果、
罪から解放され、永遠の命に入れるなら、その方がまったく得であり、益であるというのです。

もっと別のいいかたをするなら、私達はつまずき、また、
罪から逃れる、解放されるためには、自分の手足を失ってもそれから、
解放される必要がある、そう理解できます。

私達の生涯、クリスチャン生涯の一面は、戦いの生涯、罪との戦いの生涯であり、
それに敗れるなら、命を失う、永遠の命を失う可能性があるのです。


9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。”

目によるつまずき、目による罪へのいざないとは具体的にはどういうものなのでしょう?
女性の場合は、ブランドのバックですか?
女性のことはよく、わからないのですが、男性のことは少しわかります。私が男性だからです。
男性の場合、目の罪というと、美女やら、性的なことに弱いのではないでしょうか。
私を含めてです。
 

現代の世の中は、テレビといわず、雑誌、映画等、あらゆるところに目の欲があふれています。
そんな時代なのだから、と慣らされがちですが、しかし、
そんな時代はしかたがないとは聖書は語らず、逆に、目がつまずかせるなら、
そんな目はえぐり出して捨ててしまえと厳しくつまずき、罪を対処することを語っているのです。妥協はないのです。また、死後、火の裁きに入るかいなかという判断に関して、今みたいな、
悪い時代に育った世代に対して、情状酌量やら、ハンデイが与えられるとも聖書には書かれていません。
だから、過去の世代も私達の時代も同じ判断、同じ基準、聖書の基準で裁かれるのです。

目をえぐり出して、捨ててしまえといわれても、そうそう簡単には捨てられない私達ですが、しかし、
つまずきとなっているものをすてることはできるのではないでしょうか。
毎回、テレビに登場する美女が気になって、しかたがないなら、そんなテレビなど、捨ててしまえばいいのです。雑誌も映画も、捨ててしまうことができます。

私達がこの世で罪から解放されることは非常に大事です。それに失敗し、罪に負け、奴隷状態なら、
後の日の永遠の命が危ないです。以下のことば、奴隷は家にいないとは、明らかにこのことをさします。
 
 

”ヨハネ8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。”

主にある警告に耳をかたむけ、後の日の火の罰から逃れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

−以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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