NO. 571 死後のさばき


”テキスト:ヘブル9:
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”

本日は死後のさばきという題でメッセージをしたいと思います。

世の中には、用意の良い人、良くない人がいます。
明日旅行へ行くというのに、前の日まで、服もかばんも用意しておらず、当日ばたばた騒がしく、
ついには遅刻してしまう人は、
用意の悪い人です。逆にずっと前から、用意万端整っているのは、用意の良い人です。

用意の良い人は、入学、就職、結婚、あらゆることに関して用意が良いものです。
しかし、そうであってももし、その人がもっとも肝心なこと、死後の裁きに対する用意がなければ、その人は
もっとも用意の悪い人、本末転倒な人といわれるでしょう。
 
 

人の人生でもっとも大事な用意について私は語りたいと思うのです。
それは、死後の裁きに関する用意です。

死後の裁きに対する用意が大事なのであって、死ぬことそのものに、
対する用意が大事と言っているわけではありません。
神を知らない人は死の備えというと、お墓を建てるとか、葬式の段取りを生きているうちにきめるなどと
勘違いしたことをいいますが、そんなことより、もっともっと大事なことがあります。
 

それは、私達の誰も彼もが、死後必ず、神の前に出て、裁きを受けると言うことです。
何でそう言うか、私あたりが断言できるかと言うと、上記テキストの様に、聖書が断言しているからです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
 

このことばは議論の余地がなく、あいまいな箇所なく、私達誰も彼もが、死後神の前に出ること、
そして、裁かれることが明白に書かれています。
死は誰に対しても平等に訪れます。王も将校も、商人も皆死を迎えるのです。
それと全く同じく平等に死後誰も彼も裁きに会うのです。

そして、もう一つ知らなければならないことは、ある人々は、その裁きの結果、
ラザロの様になぐさめの場所に行き、しかし、そうでない人は金持ちの様に
火の苦しみに会うのです。
 

死後、千の風になるだの、夜空の星になるだのわけのわからないたわごとや空想話をするべきではありません。明らかに聖書は、死後の裁きを述べ、その結果、誰でも2つのうち、どちらかに行くことを述べているのです。2つ?すなわち、慰めの場所かもしくは、火の苦しみです。

そして、その原因、すなわち、死後ある人が慰めの場所へ行くのか、はたまた、火の苦しみの場所、ゲヘナ
へ行くのか、その差は明らかに私達の今の生活、生前の生活と関係します。アブラハムから
金持ちへの以下のことばを思い出してください。

”ルカ16:
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”

その様なわけで私達は、この死後の裁きのことを正しく正しく認識するべきと思います。
何故なら、後で後悔しても遅いからです。

死後後悔している人々がいます。以下の通りです。

”ルカ13:
24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。”
 
 

彼らはどの様な人々なのでしょうか?
「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに」ということばから
想像できるのは、アブラハムやイサクやヤコブを先祖と仰ぐ人々、すなわち、旧約の神の民、イスラエルの人々です。
そして、それは、また新約のイスラエル、クリスチャンのたとえでもあります。
この箇所は、旧約の神の民であっても神の国へ入れない、追い出されることがあることを語ります。
そして、それは、また、新約の神の民、クリスチャンでも入れない可能性が在ることを語っているのです。
 

また、『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし。』とのことばは、キリストとともに食べたり飲んだり、すなわち、正餐式に加わったクリスチャンをさし、また、「大通りで教えていただきました。」とのことばもまたキリストの教えを受けるクリスチャンをさすのです。

聖書は明らかにクリスチャンであっても、不正を行う者が裁かれることを述べています。
このことを恐れ、歩みをただしましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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