569 生きているものの神


”テキスト:ルカ20:
27 ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、
28 こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかったばあいは、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
29 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。
30 次男も、
31 三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。
32 あとで、その女も死にました。
33 すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」
34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。
37 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。
38 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」”
 

本日は「生きているものの神」という題でメッセージしたいと思います。
いわゆる死人のよみがえりに関して、見ていきたいと思っているのです。
テキストに沿って見ます。


27 ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、”

ここでは、サドカイ人が出てきます。
彼らは死人の復活を否定しています。
サドカイということばの意味合いは「義」ということです。
ですから、彼らの特徴は超自然的な神に頼るよりは自分の力でよいことを行い、義を求め、
正しい社会生活を送る、そんなことにポイントがあるのでしょうか。
今で言えば、社会的な福音、奉仕、慈善、社会変革等をめざしている人々が相当するでしょうか。
こんな種類の人々は、今でもにっきとかハッカとかいう名前の団体を始め、色々存在しています。
しかし、サドカイ人がここで、そのピント外れを主により、指摘されているように、これらの人々は
やはり、神の前には的外れな人々、勘違い人種であることを知りましょう。


28 こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかったばあいは、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
29 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。
30 次男も、
31 三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。
32 あとで、その女も死にました。
33 すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」”

彼らは一人の女が7人の男の妻となったら、復活の時、困るしつじつまが会わなくなる、
復活して、自分の夫をさがそうにも、7人もいれば、
誰の妻だかわからなくなる。
だから、復活など、あり得ない、非合理的であるという論理を語っているのです。
彼らはこの様に科学的であり、論理的である、だから復活の様に非論理的な教えは受け入れられない、
そういっているわけです。
自分達は無知な民衆とは違う、あまりにも頭が良すぎて知恵が回るので、そんな単純な
話や教理は受け入れられない、そういっているのです。

この様な彼らとしては、もっともな疑問、神の前には愚かな疑問に対して、主は他の福音書の中で
「聖書も神の力も知らないから、大変な思い違いをしている」と叱責しました。

このことをよく、よく覚えておくべきです。何故なら今でも自分ではいっぱしの知識人ぶって、
偉そうなことをいう、阿呆たれ神学校の阿呆教授やら、阿呆たれ学生が多いからです。

彼らは復活はないとか、奇跡はないとか、史的イエスだの、かんだの
自分は何様か思い込んで、阿呆たれ教義をいいつのっているからです。
特ににっきとかはっかとかいう不信仰で有名な教団関連の神学校に多いとのことです。
本当に困ったことです。

”34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。”
 

さて、それらの愚かな疑問に関して、主は次の世の常識を語りました。
次の世には、めとりとつぐことがないといったのです。
何故なら彼らは死なないからです。めとり、とつぐのは子を作るため、子を作るのは
人間の寿命は有限なので、子供を作らないと家も子孫も絶えてしまうからです。
しかし、これは、今の世の常識であり、次の世には死ぬことがそもそもないので、
結婚は不要なのです。

「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たち」

さて、このことばは大変重要なことばであると、思えます。
ここでは、ある種の人々について語っています。
それは、「次の世にはいるのにふさわし」い人たち、また、「死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人」がいる、そういう種類の人々がいると語っているのです。

逆に次の世に入るのにふさわしくない、と思われる人もいるし、また
死人から復活するにはふさわしくない、という類いの人々もいることが想像されます。
 

もし、我々が次の世に入るのにふさわしくない、また死人から復活するにはふさわしくない、と
認められなかったら一体どこへ行き、どうなるのでしょう?
復活しないなら、永遠に静かな眠りなのでしょうか?それはそれで良いようにも
思えますが、しかし、実際はどうなのでしょう?

あまり私も詳しくはわからないのですが、このことに関する一つの解答は
「金持ちとラザロ」の話です。この話の中でラザロはアブラハムのふところにいるのですから、
復活するにふさわしいと認められたと理解できます。そのラザロと対照的に
復活するにはふさわしくないと認められてしまったのは、この例では、金持ちであると思われます。
次の世に入るに、ふさわしくないと思われ、かつ復活するにはふさわしくないと認められてしまった金持ちは何と火の中で苦しんでいるのです。

少なくともこの記事からはこの2つの中間、カソリックがいうれん獄などは存在しないように思えます。
私達はこの事実をよくよく、真剣に考えるべきです。

何故なら、私達の地上における人生は短く、私達は誰も彼も必ず、
死後神の前に出て、「復活するにふさわしい人物かどうか、判断される」からです。
ヘブル書に以下の様に書いてあります。

ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」

ですから、人は死んだ後、誰も彼も裁きを受け、試験を受け、判定を受けるのです。
これは誰も彼も人間と生まれたからには、例外なしです。
そして、その裁き、試験、判定の結果、「死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たち」は、恵みにあずかり、またそうでないと認められてしまった人は、....
ラザロの金持ちの様に悲惨な苦しみに入るのかも知れません。

これは、これは、大変なことです。
世の中には、通らなければならない試験、パスしなければならない試験があります。
運転免許の試験に受からなければ自動車を運転できないので、これは、頑張って、備えなければなりません。学校へ入るための入学試験、それから会社に入るための入社試験、どれもこれも大事です。
入学試験に受からないと、学校生活も学歴も得られません。また
入社試験に受からないと、収入も、食べるものも、住むところも得られないのです。
これらは確かに大事な試験です。

しかし、それらを上回る大事な試験が私達の死後あります。
それは、私達が「復活するのにふさわしいかどうか」をきめる試験であり、
その結果は、永遠に通じるからです。

就職試験は大変大事な試験であり、それ次第で30年にも40年にも及ぶ会社生活が左右されます。
しかし、死後の永遠の運命を決める試験は、それよりも大事な試験といえないでしょうか?
いいえいいえ、確かにこの試験、裁き、判定が大事なのです。
 
 
 
 


36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。”

復活した人は、もう死ぬことがありません。ですから、復活する人こそ、
神のみこころの人です。神はこの様な人を選ぶことを欲しています。


37 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。”
 

ここに書かれているのは、復活に関する聖書的根拠です。この様に聖書も復活
を認めているではないかという論調、論法です。
その復活に関する聖書的根拠として主は旧約聖書モーセの記述をあげています。
あの時、柴の箇所で、モーセが神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んでいる、
これが復活に関する聖書的根拠である、そう主は語っているのです。

さて、この箇所がどうして、復活を聖書が認めている根拠といえるのでしょうか?


38 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」”

神は、死んだものの神ではない、だから、アブラハム、イサク、ヤコブが今生きていなければ、
モーセはその様には神を呼ばなかったはずだ、そういう論理構成なのです。
「生きている者の神です」とのことばは、KJVではlivingと訳されていますが、
現在進行形、すなわち、今現在もアブラハム、イサク、ヤコブも生きているというのが
聖書の主張なのです。勿論、彼らは皆、寿命が来て一度、死んだのですが、その
後、命を与えられ、今も生きている、それが聖書の主張なのです。

私達は信者、またクリスチャンの復活をもこのように理解すべきなのです。
何をいっているのかというと、アブラハム、イサク、ヤコブは死後、
「復活するにふさわしい」と神に認められたのです。だからこそ、
今、神の前に生きているのです。

そして、我々も同じく死後、「復活するにふさわしい」とみとめられるなら、
同じく彼らの様に生きるのです。
しかし、もし、認められなかったら...。
 
 
 

”神に対しては、みなが生きているからです。」”
 

このことばの意味合いはどういうものでしょう。
「みな」が生きているといわれるその「みな」の意味合いは何でしょう?
その意味合いは、明らかにその前に言及されている復活したアブラハム、イサク、ヤコブのことをいっています。
彼らは生き返り、彼ら「みな」が神の前に生きていると主は語っているのです。

主イエスの時もそして、今もそうなのです。その様なわけで、この箇所は明らかに死後すぐに
人は神の前で裁かれ、ある人は復活にふさわしいと認められ、生きること、
そのことを語ります。

この様な理解はキリスト教会で、一般的なのでしょうか、それともそうではないのでしょうか、
私にはよくわかりません。しかし、何はともあれ、この箇所はそう語っている、私には
その様にしか読めない、そのことを述べます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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