NO.568 兄弟の妻をめとる

”テキスト:申命記25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
7 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」
8 町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、
9 その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」
10 彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。”

本日は、「兄弟の妻をめとる」という題でメッセージをします。
テキストは上記、申命記です。
テキストに沿って見ていきたいと思います。

”5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。”
 

ここでは、もし、兄弟が死に、その妻が子がない場合、その夫の兄弟が妻をめとることが
書かれています。

これは一見不思議な習慣ですが、しかし、聖書はそう述べています。
このことに何か信仰的な意味合いがあるのでしょうか?それを見ていきたいと思うのです。

たとえを理解するとして、妻、女は教会のたとえと思えます。
このケースの女、妻の場合の問題は、まだ妻が生きているのに、夫が死んでしまったという問題です。
しかも子供もない、そういうケースなのです。
このケースはどういう教会の状態を表しているのでしょうか?

ある時この箇所が教会のメッセージ箇所として回って来たので、その時、真剣に考え、また祈りました。
その時、私の考えに浮かんだことは以下の通りです。
もしかすると違っているところもあるかもしれませんが、しかし、私には今はこう思えるということで
聞いてください。

夫が死んでしまった妻とは、要するに、牧師のいなくなった教会、無牧になってしまった教会と
思えます。
そして、「後継ぎの子供もいない」、要するに後任牧師もいないのです。
その時、どうするか?
聖書の答えは夫の兄弟がその妻をめとれということです。
具体的には前任牧師、もしくは、死亡してしまった牧師の信仰の兄弟である、
同じ教団なりの牧師が後を継げと言うことです。

もしくは兼牧でしょうか。
教会を無牧にしてしまうのはよくない、「夫の兄弟としての義務を果たさなければならない」ということなのです。


6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。”
 

その様にして、教会を無牧にせず、ささえ、そしてその中で、「彼女が産む初めの男の子」すなわち、
救われてくる献身者に「死んだ兄弟の名を継がせ」るすなわち、教会の名前を継がせろというのです。
 

「その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」とは意味あることばです。
子供がいなければある家はイスラエルの家から絶えてしまいます。同じく
教会を継ぐ子供、献身者がいなければ、その教会はキリスト教会から絶えてしまいます。
そうならないため、献身者がうまれる迄、教会の牧会をささえよと語っているのです。


7 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」”

しかし、場合によっては任命されてもそんな教会には行きたくないという牧師もいるかもしれませんが
しかし、これはよいことではないようです。それは、「夫の兄弟としての義務を」果たさないことになるからです。
 


9 その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」
10 彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。”
 

兄弟としての義務を果たさない男は不思議な罰を受けます。それは靴をぬがされることです。
靴を脱がされることの意味合いは何でしょう?

靴に関して新約聖書にはこう書かれています。
エペソ6:15「 足には平和の福音の備えをはきなさい。」

ここには靴をはくとは書いてありませんが、明らかに靴に関する記述と思われます。
何故なら、足にはくのは、手袋でもサングラスでもなく、靴なので、これは
靴に関する記述なのです。

それで、上記申命記の記述の意味合いが理解できます。
靴をぬがされ、屈辱的な扱いを受ける人、その人の問題は、福音を伝える義務を
ないがしろにしている、そういった非難に関する問題なのです。

その様なわけでこのことは、恥ずかしいことだということを知りましょう。
私達の兄弟である牧師が心ならずも倒れたり、命を失ったりして、教会が無牧になった時、
そして、教会には誰も後継者がいない時、その残された兄弟の一人である我々に義務が生じることを
覚えましょう。

たとえ、兼牧になろうと、忙しくなろうと、兄弟としてなすべきこと果たし、その
教会が自立するまで、支える、それが、兄弟の義務として語られていることと理解できます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
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