No. 564 弟子となること


”テキスト:ルカ14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

本日は「弟子となること」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿ってメッセージします。
 

”26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。”

主の弟子となることがここでは語られています。
主の弟子となると言うことは、具体的には、捨てること、犠牲にすることと
関係があるようです。

キリストのもとに来て、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は」は弟子となれないのです。

憎むとは厳しいことですが、このことばを具体的にどう理解すればいいのでしょうか。
私はこう考えます。
たとえば、これは、主のことばとそして、自分の父、母、妻などとの間の選択の問題ではないかと
思うのです。選択?
たとえば、こんなことがあるとします。自分の信仰の父である牧師が、艱難中携挙だの、
2段階携挙説だのをとなえるとします。
そして、この教理に同調しないものは、もう教団に置くことあたわず、神学校に
在籍することあたわずというとします。
その時、私達の反応はどうあるべきでしょうか?

自分の牧師を愛し、尊敬するためには、間違った教理でもそのまま
受け入れるべきでしょうか?牧師の尊敬を受けるため、はたまた教会における
自分の位置を危うくしないため、主のことばを曲げ、聖書のどこにも書いていない、
「キリストの2段階の再臨」というたわごとを受け入れるべきなのでしょうか?

さあ、これが、主のために「父を憎む」ということなのです。
その様な時、たとえ人間的な情ではつらくても正しく主のことばに立ち、狂った預言者やら、
暴走使徒やら、牧師をいさめること、それが主のために「父を憎む」ということなのです。
その結果自分が追い出されたらどうしょうという心配があるかもしれませんが、心配いりません。
正しければいつか神様が拾ってくれます。
間違っても、使徒様、長老様の無茶教理大賛成、御無理ごもっともの情けない茶坊主、
茶汲み女になりさがってはいけないのです。
ロンドン橋の歌で踊っている感謝じいさんが賛成したからといって、あのよた教理、
艱難中携挙だのの聖書にもないよた話が真実になるわけではないのです。


27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。”
 

十字架を負うとはどういうことでしょうか?
十字架は人を殺す道具です。ですから、自分を捨て、自分を
失っても主に従う覚悟が必要ということなのでしょうか。
 

”28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。”

この人は塔を築くわけです。しかし、一般的に普通の人は塔などたてないものなのですが、
一体塔を建てることの意味合いは何なのでしょう。

さて、この塔ということばは以下の箇所ではやぐらと訳されています。

”マタイ21:
33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。”

やぐら、ぶどう園のやぐらを建てることと考えるともう少し意味合いがはっきりするかもしれません。
何故、ぶどう園にはやぐらが必要なのでしょうか、それを築かなければならないのでしょうか。

ぶどう園のやぐらの意味合いははっきりしており、それは、泥棒監視のためです。
高いやぐらを建て、遠く迄見渡し、ぶどう園に入ってこようとする侵入者を発見するのです。

さて、弟子の歩みと関連して塔(やぐら)を築くことが書かれているわけですが、それらには
共通点があり、弟子の働きの一つの面はやぐらに関係したものであることを知りましょう。
すなわち、弟子とは、教会、ぶどう園に入ってくる、泥棒やら、悪意の侵入者を発見、
防ぐと言う意味合いがあるのです。
そう、やぐらの働きです。

さて、話は変わりますが、教会の中の奉仕者の種類として「長老」という役職があることは
知っているでしょうか。
そして、長老(elder)と書くといかにも年が関係しそうな意味合いにとれますが、このことばの
ギリシャ語の意味合いは、「遠くを見通す」という意味です。
そうです、ぶどう園のものみのやぐらと関係があるのです。

随分長い説明になってしまいましたが、こんな説明で、弟子と塔(やぐら)との関係が理解できるでしょうか。
要するに弟子の歩み、奉仕の意味合いは、いわばぶどう園において、やぐらをたてるようなものである、
教会においてのやぐらの奉仕、すなわち、遠くを見通すため、監視するための塔を造る様なものであるというわけです。
このこと、塔をたてると言う志は尊いのですが、しかし、問題はその初心が長くは続かず結局、塔を
完成させることができないまま終わる、それは人々の物笑いの種になるだけだ、そういっているのです。

このことばを通して私達は弟子として歩むということの厳しさ、失敗した時の嘲笑、神の働きに対する恥、
これらをよくよく理解すべきです。

私を誤解しないでください。弟子として歩むな、その道をめざすな、といっているのでなく、
弟子の歩みを失敗した時の恥や、問題も、理解した上で進むべきだといっているのです。

さて、このこと、塔を完成させることができず、結果、物笑いのもとになっている牧師は、
実は日本にも多いのです。
たとえば、ある牧師は落語、講談、ジョークの類いにひいで、日本一の牧師をめざし、
信者を大いに獲得しつつあると聞きますが、しかし、彼の塔、やぐらとしての
たまもの、能力はまだまだであり、まだ塔を完成させたとはいえないようです。
何故そんなことをいうかというと、このお方は情けなくもあの悪霊男、ベニーヒンのおっかけをしているという噂だからです。

要するに彼は遠くで、泥棒の来るのを発見して皆に知らせる塔というより、
どろぼうがぶどう園に入るのを見つけることもできず、否、かえってどろぼうを手招きして、
ぶどう園に歓迎する役立たずの塔なのです。
まことに泥棒御一行にとっては、大歓迎、もののわかっている人には、大笑いの種です。

この様な人々を塔を完成することのできない、弟子としては完成してない、物笑いの種の弟子というのです。
 

”29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。”

ここでやぐら(塔)の基礎を築くだけで、完成できなかった人のことが書かれています。
そして、それはもの笑いの種となることが書かれています。

その様なわけで、我々が主の弟子として歩み、また
ぶどう園のやぐら、塔、すなわち、遠くを見渡す長老として、立とうとするなら、それは
良い心がけです。しかし、それを完成できなかったら、大笑いされるということも
知るべきです。

私が知る限り、カソリックの教会には、この役立たずのやぐら、塔、長老であふれているように思えます。
神父だの枢機卿だの、何だか、偉そうな名前はありますが、その実態は、役立たず、
遠くどころか、ほんの近くを見ることもできない盲人ぞろいです。

進化論は科学的(要するに創世記は、神話)とか、マリヤを含めた四位一体などの
愚かな教理が打ち出されても誰一人、疑問には思わないようです。かくのごとく、
この教会のやぐら、塔、長老を自認する人々は、
何ひとつ見ることも警告を与えることもできない、全くの役立たずばかりです。

”31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。”

さて、上記節では、弟子の歩みのうち、やぐら、塔すなわち、遠くを見渡す働きに
ついて述べています。

ここでは、弟子の働きのうち、戦いという面を語っています。
戦いに出ていくのはいいが、勝つことができるのか、それだけの
用意があるのか、覚悟があるのか、まず座って考えろと語られているように思えます。

”32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。”

敵とは何かというと、今の私の理解では、「まつりごと、権威、この世の暗きをつかさどるもの、
すなわち、空中にあるところの霊のつかさ」であると思います。
それで、弟子の歩みとは、これらの霊のつかさとの真剣勝負、まっこう勝負であることがわかります。
悪霊に惑わされた未信者の人が非難、攻撃してくることがあるかもしれないし、
また他のクリスチャンが敵に回ることがあるかもしれない、それでも戦いぬくつもりがあるのかという
問題です。

”33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。”
 

ここでは、日本語の新改訳聖書では、「自分の財産全部を捨てないでは」と書いてありますが、
KJV訳では、「自分の持っているもの全てを捨てないでは」と書かれています。ですから、ここでは、
財産やら、お金やら、物質のみのことをいっているのではないのです。
そうではなく、上記節の「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも」捨てないなら、主の弟子となれないとここで語られているのです。

ところで、何故、主の弟子として歩み、敵と霊と戦うという時、何故、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも」捨てなければならないのでしょうか?
そもそも愛を売り物にするキリスト教には、捨てるとか憎むとかいうことばは似つかわしくないのではないのでしょうか?

この件に関して、私はこう考えます。
そもそも敵と戦う、霊的な敵と戦うという時、それらの惑わしの霊は人を通して働くのだということを知りましょう。

たとえば、主イエスの働きに関して、敵、サタンの霊は人を通して、
働きました。主イエスをねたみ、憎んだパリサイ人、律法学者の上に働きました。
そして、最後は十字架につけたのです。
これらの人々は、いわば敵側の人々ですが、しかし、サタンの働いたのはこれらの人々だけではありません。
それどころか、12弟子の一人である、ユダにも働いたのです。聖書は明らかにサタン にユダに入ったことを述べます。さらに筆頭弟子であるペテロも時には、惑わされたことをいい、
主イエスに「下がれ、サタン」といわれています。彼さえ、サタンに惑わされたことがあったのです。
以下のとおりです。
 

”マタイ16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」”
 

この様な時、この様な会話の中で、我々はどう対応すべきなのでしょうか。
自分の味方になってくれる人がいってくれたことばを無にすべきではないでしょうか。

この時のイエスの対応が我々の模範です。主は、自分の味方になってくれる人にさえ、
流されず、しかし淡々と、神のみこころを行っていったのです。

そして、これこそが、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも」捨てることなのです。

この様なこと、自分の親しい人を時と場合に酔っては、捨てなければ歩めないということは、私達が弟子の歩みをしようとこころざすなら、往々にあることなのです。

この箇所の「捨てる」と日本語で訳されていることばは、原語では、「憎む」と訳されています。
ですから、この箇所を考えるなら、日本語の訳、捨てるということばに捕らわれず、しかし、憎むということばに基づいて考えるべきです。あまりに意訳された聖書は問題です。
憎むとは、何とも物騒なことばですが、その反対のことば、「愛」ということばを考えると理解できます。
神のみこころを愛するか、それとも人を愛するのか、どちらなのかという選択がここで
語られているのです。

この問題は主イエスの時に限らず、今の我々が弟子として歩もうとする時、やはり、かかわってきます。
たとえば、ある女性が神の前に献身をしよつとした時、田舎のお父さんがとめたということです。
それも大変なとめかたで、後をおいかけて来て、川に顔を沈めて、やめろと迫ったと言うことです。
かくのごとく、人はサタンに用いられることを覚えましょう。
そして、そこに2万をひきいて来る敵との戦いがあるのです。
そして、その際、自分の父や母を愛するか、それとも主に従うことを愛するか、
その選択が在るのです。
そして、愛と反対のことば、憎むということばをもって、「自分の父、母、妻..までも憎む(捨てる)」と語られていることを覚えましょう。

”34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。”

ここで突然塩に関して書かれています。
塩の聖書的意味合いはどのようなものなのでしょうか?

以下の関連聖句も見てみましょう。
 
 

”マタイ5:13あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
 

わかることは、塩は腐敗を防ぐものだということです。
塩につけるとパンでも魚でも、腐ったりせず、日持ちします。塩はその役目をします。
他のものでは代えがたい役目があるのです。この様な余人をもって代えがたい役目をになっているので、
塩がその塩気をなくしたら、大変な目に会います。
「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」と書かれています。
これは大変厳しいことばであることを覚えましょう。
塩や、砂糖やらドレッシングのことばかり考えて他人ごとと思ってはいけません。
これは、地の塩であるクリスチャンに対して与えられたことばなのです。

私達の目が開かれるなら、「塩」の役目を果たさず、結果として「何の役にもたたない」
ということで、「外に捨てられて、人々に踏みつけられる」塩がキリスト教会には、多いことがわかります。スキャンダル神父の宝庫、カソリックなどは、その典型です。
彼らは、世の中の人よりよっぽど、悪いことを行い、そのうえ、悔い改めもありません。

そして結果として、神父の評判など、地に落ち、外に捨てられて人に捨てられ、あなどられるありさまです。


35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

弟子がその清さを失い、塩気を失うなら、もう神の前にも人の前にも、「土地にも肥やしにも役立た」
ないとみなされます。結果、「外に投げ捨てられてしまう」ことが書かれています。

厳粛に考えなければなりません。外に投げ捨てられると言うことでは、最近、プロテスタントでは、象徴的な事件がありました。
あるプロテスタントの「不良牧師」をきどり、いれずみを入れているバイク乗りの日本人牧師が事件を起こしました。
新聞の報道によると、その牧師は、覚醒剤を飲み、ある人妻とラブホテルで夜を過ごし、あろうことか、相手をホテルの窓からなげ落とし、その後、自分も飛び下りてしまったということです。
人のことをあれこれいう資格が私にあるわけではありませんし、個人を非難するつもりはないので、
(というより、私は彼の献身者時代から知っていますし、その奥さんも知っています。)、名前等はもちろん書きません。ただ、事実だけを書きます。

それは、神を恐れ、神のことばを恐れるべきだと思うからです。
この事件において、「(塩が塩気を失うなら)土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。」とのことばが正確に冷厳に成就していると私には思えるのです。
 

かくのごとく、主が「土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。」といわれたのなら、
このことばは厳粛に成就するのです。
「聞く耳のある人は聞きなさい」と書かれていますが、このことを聞き、恐れを持つ人々は
幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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