No.563 いなずまがひらめくように


”テキスト:ルカ17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。
23 人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。”
 

本日は「いなずまがひらめくように」という題でメッセージしたいと思います。
主の再臨についてさらに見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

「22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。」
 

人の子の日をみられない時とはどの様な時なのでしょう。
これは、主イエスの時代のことを考えればわかるでしょうか。

その時、主イエスは当時の宗教家、パリサイ人、律法学者に追いかけられ、
訴えられ、なきものとされつつありました。また、イエスをキリストであると告白する
人々は、会堂から追い出されるようになりました。

人の子、イエスの日に主は、追い詰められ、圧迫され、迫害されていたのです。
そして、最後には、イエスは殺され、その存在は抹消されてしまったのです。

このことの再現
が終末の日に起きるのでしょう。
 

”23 人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。”

ここで言われていることは、「キリストはここだ」「キリストはあっちだ」という
日が来ると言うことです。

具体的には。「キリストの霊が受肉した預言者はここにいる」「
キリストの復活のしるしを行う器はここだ」と
語る人々があらわれるということを語っています。

上記節と矛盾するようにも思えます。
片方の節では、人の子の日は一日も見られないといい、
また他の節では、「キリストはここにいる」「あそこにいる」というようになると
語られているのです。

しかし、これは終末の日の現実です。
一方ではキリストのことばを否定し、ないがしろにし、
しかし、他方では多くのクリスチャンをだますために、キリストは、この使徒にやどる、
この預言者にやどるだとの嘘が大々的に語られるのです。
 

「行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」

しかし、私達はこれらの「キリストの威を借りる」嘘つき使徒、預言者の
後をついていってはいけないことを語られています。

悪霊預言者、ベニーヒンを始めとした怪しい器の追っかけとなり、遠い名古屋の地やら、はたまた、アメリカペンサコーラくんだりまで行くべきではないと語られているのです。
現状は、多くの人がこのみことばをないがしろにしていますが...。
 


24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。”
 

何故、キリストの霊を受けたと自称する預言者たちの後についていくべきではないのか?
それは、キリストの来臨とはそもそもそのような方法、使徒がキリストの霊を
受けるなどという方法で来るのではないからです。

彼、キリストはどのようにして来臨するのか?
彼は、いなずまが来るように来臨すると語られています。

いなずまが輝くように、とは具体的にどういう意味合いなのでしょうか。
ここでいう、天とは、アブラハムの子孫、星が住むところとして、教会の
たとえです。「天の端から天の端」とは、すなわち、全世界の教会の端から端までということです。
ですからいわんとしていることはこういうことでしょうか。
いなずまが天の端から端まで、それこそ、光速で、いきわたるように、実際に主が
来臨した時は、あそこだここだというひまもなく全ての教会のクリスチャンは
一瞬にして悟るので、人から教えてもらう必要などない、
そういっているようにとれます。
 
 

ここでは、速さについて語られているように思えます。
すなわち、終末の日に
「あそこにキリストがいる」「ここにキリストがいる」という人々が、
おり、そして、おもむろに色々と芝居をたくらむ反キリストが登場し、
復活劇だの、いやし劇だの、金粉劇だの金歯劇だの繰り広げて、
多くの人をだますのです。だまされた人々は、黙示録でいう
獣の印ををその手か額に受ける人であり、神の大いなる怒りを受け、永遠に苦しむようになります。
アーメン。

さて、この反キリストの登場は、速度でいえば、人速、だいたい人の歩く速度である
時速4km位で行われます。
人間なのだからそんなものなのです。
それに反して本物のキリストの来臨は、「いなずまが天の端から端まできらめくように」すなわち、
光速で行われます。光の速度はどの位でしたか。30万km/秒位だったか、
何しろ、速いのです。私の記憶の間違いでなければ、一秒間で地球を7周程したはずです。
ですから、一秒もかからず、世界中の教会にキリストの再臨は伝わるので、少なくとも
来たことがわかる、わからないという心配は無用なのです。
もっとも来臨のキリストに裁かれるかどうかはまた別ですが。

そんなわけで、ここでは、偽物、反キリストの登場のもたもたと本物のキリストの来臨の
一瞬によるすみやかさとその対称が書かれていると理解できるのですがどうでしょう。

この箇所では、明らかにその区分があるように思えますので、
私達は、「宣伝したり、紹介しないと知ることのできないキリスト」は偽物であるということを
知っておきましょう。

いなずまは、一瞬に空の端から端まで、かがやくので、空の下の豆腐やさんもおまわりさんも
はたまた学校帰りの小学生もいなずまがひらめきわたったことは知ります。
いなずまが来た、なんてわざわざテレビ宣伝する必要はないのです。

そんなわけで、あの反キリストのはしり、サンミョンムーンとか、文なにがしとかいう韓国の
やくざみたいな統一おやじは来臨のキリストどころか、とんでもないまがいものであることがよくわかるのです。この「キリスト」様は、もう来臨してから何十年かたつのですが、今だに
世界の教会の全て迄はいたってないようです。少なくともうちの教会にはまだ見えていませんよ。
亀みたいに遅い「キリスト様」ですね。
そんなわけで、このおやじはこの面で失格です。

さて、こんな色情おやじのことはともかく、これからの時代の問題は、「反キリスト」の問題であり、
その時にここに書かれているように、「あそこにキリストがいる」「この方こそ来臨のキリストの霊を受けた方だ」という惑わしが、大きく、大規模にまた人間心理をついた形で
宣伝されるようになります。それどころか、多くの人が現実に惑わされるようになります。
黙示録でいう反キリスト、獣の像ということばで語られる、一人の人物をあたかもキリストであるかのように、全世界の教会が右へならえする時がきます。
その時覚えておかなければならないことは、本物のキリストの出現は、「光速」であると
いうことです。毎週テレビでキャンペーンするとか、雑誌で大々的に取り上げるという方法でしか、
伝えられない「キリスト様」はもうその時点で、失格なのです。

このことを覚えておいてください。聖書はキリストの来臨に関して、その見分けとして、
本物のキリストは、いなずまの輝きの様に一瞬に登場すること、その
反面、「あそこにキリストはいます」「ここにキリストはいます」という人間的な
もたもたした紹介でしか登場できないキリストは偽物であることを語りました。
本物のキリストが来られたときは全世界の教会は一瞬で全てを悟り、人に説明してもらうことも、
宣伝してもらうこともないのです。

このことをもって、キリストの来臨に対して正しい認識を持ち、吟味しましょう。
何故なら、終末の日の惑わしは巧妙であり、聖書の終末の教えを逆用し、それを
もって惑わすという方法が用いられるからです。
特にキリストの来臨に関する惑わしは大きく「さあキリストが来たぞ」といいつつ
実は反キリストを拝ませるという方法が用いられるからです。

私は断定します。もし、間違ったら是非私を大笑いし、ののしって下さい。甘んじて受けます。
しかし、もし私が語ったその様な日が来たら、私が断定して、警告したことを思い出してください。

私は言います。

”反キリストの登場は、「来臨のキリスト」という方法でやってくると思われます。”

初降臨のキリストの霊を受けた人物、地上におけるキリストの代理、権威者という方法であると
想像できます。

しかし、このもたもたした登場方法の「キリスト様」は本物でないことを正しく今の時から
理解しておいてください。
 


25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。”

キリストが捨てられることが終末の日の特徴です。
キリストが捨てられるとは、どういう意味合いでしょうか?

私の理解では、キリストのみことばがないがしろにされ、
キリストへの忠実が失せる日です。

今の時代は、ことばは神であるといわれた
キリストのことば、聖書のみことばに対してあらゆる攻撃が
加えられています。
 

人間的な標準に基づき聖書をかいざん、削除する動きがキリスト教会に
広まっています。

キリストはマグダラのマリヤと結婚し、子供をもうけた、などの
ヨタ話も広まりつつあります。
いずれ、キリストはこの世、そして、世的な教会から見捨てられるようになるでしょう。

そしてそれは世についた教会への裁きの日の前兆です。
かつての主イエスの時代のことを思い返せばこのことが理解できます。

旧約の終わりの日における、神の民のありさまを
思い返しましょう。
主はエルサレムで熱狂的に歓迎されましたが、ほどなくして、
人々から見捨てられ、十字架につけられました。結果、
その時代の神の民、またエルサレムへの裁きが起こり、最後の一人まで、エルサレムの
人々は殺されました。

同じことが終末の日に再現するでしょう。
新約の神の民もその終わりに、主を捨て、そのみことばをないがしろにし、
キリストに関する嘘をまこととするようになります。
そして、主の再臨の日の裁きに直行するのです。

”26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。”
 

ノアの日は終末の日の型です。
ノアの日に人々が行った、「食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」とは
皆、実はキリスト教用語なのです。すなわち、食べる、飲むは、正餐式のパンとぶどう酒に
関する言葉であり、またクリスチャンとはキリストの花嫁になるものであり、
めとりとつぐとは、人がクリスチャンになることの別の表現でもあるのです。
ですからここに書かれていることは恐るべきことであり、
終末の日、神の教会に洪水が起き、結果すべてといわれる程の多くのクリスチャンが、
ほろびるそういっているのです。

さて、その日の強調点は、「ノアが箱舟にはいるその日」ということです。
洪水がいつ起きる起きない、その分岐点は、ただただ、ノアがいつ人々の間から離れて
箱船に入るかということに尽きます。
 

”28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、”
 

ロトのたとえで使われている、「食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」とは、
皆クリスチャン用語です。

すなわち、「食べたり、飲んだり」とは、正餐式の用語であり、また「売ったり、買ったり」とは
あがない(買い取るの意味がある)と関係しており、また「植えたり、建てたりしていた」とは、
教会を
建てあげることに通じます。

ですから、ロトの日のソドム、ゴモラの裁きは終末の教会の裁きの予表なのです。
 

”29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
 

ソドム、ゴモラの裁きも ロトがソドムから出ていくことと関係しています。
このことは終末の日においてどういう意味合いなのでしょう。
私の理解では、終末の日にもソドム、エジプトと呼ばれる都、すなわち、堕落し、
背教の道を歩む教会から、主に忠実な人々が出ていきます。あたかも、ノアが箱船に入り、
ロトがソドムから出ていったように。
そして、「その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。」となるのです。

火と硫黄は、悪霊のたとえです。すなわち、背教の教会は悪霊の惑わしの中で滅びるのです。

”30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。”

人の子の現れる日とは再臨の日のことであり、ソドム、ゴモラへの裁きが背教の教会の
上に再現するのです。

神の裁きの時は非常に近いのです。この方を恐れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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