NO. 562 石をパンに変える


”テキスト:マタイ4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”

本日は石をパンに変えるという題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。”
 

かつての日、イエスは、悪魔の試みを受けました。
この主イエスの受けた試みは、単にひとりの特別な人が受けたものというよりは、
彼の後を歩む全ての人に関係する試みと理解できます。
そうです、ここに書かれている試みに関する記述は我々と無関係ではないのです。


2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。”

ここでイエスが空腹を覚えられたことが書かれています。
何故空腹になったのか?それは、断食を、しかも四十日四十夜も断食したからです。
何はともあれ、イエスは、空腹を覚えたわけです。そして、その後、パンの
誘惑が来るわけです。
 

さて、このことは我々にとっても無関係なことではありません。
我々もやはり空腹が起きることがあるからです。そして、
その時「どのような」パンで腹を満たすべきか、それがこの箇所の主題です。
 

”3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」”
 

この時、試みるものは、「この石がパンになるように、命じ」るようイエスに迫りました。
これは一体、どのような種類の試みなのでしょう。考えてみましょう。

文字どおりとるなら、道ばたの石をパンに変えると言うことです。
確かにこれは素晴らしい奇跡なので、誘惑にのりがちです。しかし、
それだけの箇所とも思えません。たとえの意味合いを考えてみましょう。

石、岩は大きな器をさすたとえと理解できます。
何故なら、アブラハムの子孫は砂にたとえられており、石、岩はそれよりも大きな存在だからです。
ですから、「石をパンに変えろ」とは、器のことば、教えを自分のパンとし、心の糧とし、
それにより生きろとの意味合いと理解できます。
 

このことは、大いにキリスト教会においておきていることです。
たとえば、ある人々は、さかんにウオッチマンニーを崇めます。
その結果、神のことばとぶつかるような教理でもニーが認めれば、受け入れていきます。

あの終末のよた話、2段階携挙説もニーが認めたからという理由のみをもとに聖書を投げ捨て、
また聖書に何らの根拠もないのに、受け入れています。

彼、ニーは多少は良いこともいっているのですが、しかし、間違いや行き過ぎも
それなりにある人物です。神の前には、彼もやはり、石の器に過ぎないのです。
しかし、あろうことか、彼の教理を優先して聖書を投げ捨てる愚かな人々も存在するのです。
このことこそ、「石をパンに変える」ということばの真の意味合いであることを知るべきです。

この悪魔の誘惑は、だてに書かれていることがらではありません。
また、私達と無関係のことがらでもないのです。

逆に大いにキリスト教会で起きている、起きつつあることであることを知るべきです。

終末の背教の教会においては、さらに石をパンに変える人が増えるでしょう。
金粉、金歯の惑わしに目がくらみ、神のことばなんて投げ捨てて、しるしと不思議の
器のヨタ教理を必死にむさぼる人々、それこそここで警告されている、また、悪魔が
誘惑する、「石をパンに変える」惑わしであることをしるべきです。
 
 

”4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”
 

さて、石をパンに変えるのと対照的な意味合いで、「神の口から出る一つ一つのことばによる」と
書かれていることを心にとめましょう。これらは対照的なのです。

「石をパンに変える」というクリスチャンの生き方もありますが、反面、
「神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」という生き方もあるのです。
そして当然ながら、後者、神の口から出ることばにより歩むクリスチャン人生にポイントがあります。

我々はそれを求めるべきなのです。
 

「人はパンだけで生きるのではなく」

このことばの意味合いは何でしょう?
パンは聖書のことばと理解できます。

聖書があれば、我々は満足すべきなのですが、しかし、主は不思議なことを語ります。

人はパンのみで生きるものではないというのです。
そして、神の口から出る神の口から出る一つ一つのことばによって生きるといわれるのです。
ですから、我々は私達のクリスチャン人生についてこのことを正しくとらえましょう。

私達には、パンがあり、紙に印刷された聖書があるのですが、しかし、それだけで、
全てよしとするのではなく、それぞれの状況に応じた神からのことば、その口から個々の状況に
応じて与えられる一つ一つのことばを求めるべきなのです。

何故そうすべきなのか?それは、他でもない主御自身がそういわれたからです。

一体神のことばなんてどうやって聞けばいいんだ、俺は聞いたことがないぞ、なんて
いう人もいるかもしれませんが、何はともあれ、主がそういわれている以上、理屈をこねずに
何はともあれ、求めていこうと思うのです。

主は時に応じ、状況に応じ私達にその都度、ことばを与えられます。
しかし、それは、求めたものに与えられるのです。

悩んでいた時、弱っていた時、主はいくたびも私にことばを与えてくれました。
そのことばで私は強められ、今もこの奉仕を続けています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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