NO.561神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる


”テキスト:申命記8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもの(word: ことば:KJV)で生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。”

本日は、「神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる」という題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

「3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。」

ここでは、マナとかパンについて述べられています。

苦しめ、飢えさせるという時、このパンに関係したことがらであることが想像できます。
そして、パンは単なる食卓のパンというより、神のみことばのたとえです。
ですから、ここで飢えるといっていることは、神のことばへの飢えということです。

飢える:このことは、私達のクリスチャン人生で大いに実感できることです。
神のことばが響いてこない、ぴったりしたことばが与えられない、みことばで慰められたいのに、
そうはなれない:そんな経験です。

飢える:このことはつらいようですが、しかし後の祝福につながります。
何故なら、飢える人はパンに飽き、また天からのパン、マナを受けるからです。

ルカ六章には以下の様に書かれています。

”ルカ6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。”
 

逆に何の飢えも感じない、どうでもいいパンを食べ、パン種入りのパンを食べても何にも疑問を持たない人は、真のパン、マナを食べることがありません。以下の様に書かれています。

”ルカ6:
25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。”

さて、パンとマナは違うものであることを知るべきです。
パン、マナそれはどちらもパンに類したものであり、食事と関係します。
しかし、出エジプト記を見るとき、明らかに神は神の民に対して、
特別な食事を得ることを要求します。パンは、パン屋にいけば売っている、もしくは、
自分で麦をまき、収穫すれば食べられる、それが我々の常識ですが、
しかし、神は神の民に対して、マナ、天からのパンで生きることを語り、その道を用意しました。

パンとマナは異なり、似ているが、しかし、違うのです。
どう違うのでしょうか?
パンは、明らかにどこにでも誰にでも手に入るものです。今なら、パン屋さんに
行けば手に入るのです。
これは我々の今と比べるといわゆる聖書を普通に読み、もしくは普通に教会でメッセージを通して
与えられるものです。
しかし、この様な普通のパンのみでなく、神は天から下ってくる特別なパン、マナに
ついても語っているのです。
これは、パン屋に行ってお金を払えばもらえるという種類のものと違います。
逆に天から、すなわち、神が下さなければ誰も受けられないパンなのです。
これは神から出るパン、みことば、天来のメッセージ、教えと理解できます。

「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもの(word: ことば:KJV)で生きる」

ここで書かれている、「主の口から出るすべてのことば」とは、上記
マナにより、象徴されています。
ですからマナとは要するに神の口から直接出る、ことば、教え、メッセージのことを
語っているのです。
そして、そのマナは、普通のパンと対比されています。

「人はパンだけで生きるのではない」すなわち、
書かれたみことばがあればいいじゃないか、それ以外何が不足なのか、とは言えない、
パン、書かれたみことば、聖書は確かに大事だが、人はそれのみで生きるのではないと、
主はいわれるのです。

そして、「人は主の口から出るすべてのことばで生きる」、すなわち、
神の口からその都度、その度に与えられることばにより、人は生きるものである、
そうこの箇所は述べているのです。

それで、私達は単に印刷、書かれたみことばのみあればよしというのではなく、
その都度、神にマナを求め、その度に神の口から直接語られることばを
期待すべきであることがわかるのです。

上記、「主の口から出るすべてのことば」とは、マタイ伝で引用される時は、
「ひとつひとつのことば」と訳されています。
この訳の方がよく意味がわかります。
ついでにこの箇所は新改訳では、「主の口から出るすべてのもので生きる」
と訳されていますが、KJVでは、「「主の口から出るすべての<ことば>で生きる」
となっています。これもKJVの方が意味が通ります。

神の印刷された聖書があるのに、なおかつ、その都度、神からの
ことばを求めることは問題か?このことは、我々の求めすぎか、我々のごう慢か?
いいえそうではありません。明らかにこの箇所は、パン、すなわち、
印刷された聖書のみでなく、神からの直接のメッセージを受け取るよう、
我々に語っています。

我々には、パン、すなわち印刷された聖書のことばが与えられています。これは
感謝なことです。しかし、これで全ての飢えが満たされるわけではありません。
逆に神の口からの直接のメッセージをもらわないと、
どうにも進めない、そういう時があるものなのです。

あるクリスチャンのことを聞いたことがあります。
彼の進もうとしている奉仕は、具体的には、危険がともなうもの、
さらに多くの人からの反発が予想されることだということです。

気の小さい彼はこの奉仕に進むべきかどうか、大いに悩みました。
しばらく祈っていたのですが、ある時、ある方法で
神は彼に直接ことばを与えました。それは以下のことばです。
 

”ルカ10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。”

このことばを与えられた彼は、勇気百倍してその困難な奉仕に飛び込んでいったのです。
まことに「人は主の口から出るひとつひとつのことばで生きる」ものなのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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