NO.555神の前に富まない


”テキスト:ルカ12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」”
 

本日は、「神の前に富まない」という題で、メッセージをしたいと思います。
テキストは上記ルカ伝の、倉を建てる金持ちの話です。

この話は一見単純な話の様に思えます。
単なる愚かな金持ちの話、倉を建てようとしていたら、まさに
その日にたましいが取り去られてしまうという、愚かな話にしか見えません。

しかし、何度もいうようですが、聖書や預言は、私的解釈、すなわち、そのテキストからのみ
見ずに、逆に他の箇所をも参照すべきなのです。
 

金持ちに関して、他の箇所を見ていくときに以下の箇所を見い出します。
 
 

”黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

この箇所はラオデキヤの教会に関する箇所です。ここにも「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」といっている、すなわち、金持ちに関して書かれています。
そして、以前私達はこの箇所がいっている金持ちとは、お金や土地と言うより、信仰に関する話、
具体的には、霊のたまものに富む人々に関する話であると理解したのです。

ですから、テキストの倉を建てる金持ちとは、実に信仰や霊のたまものに関する
金持ちの話という理解もあり得ることがわかります。そうと断定はてきないとしてもそうで
ある可能性は大いにあるとはいえます。
 

さて他にも金持ちについてある箇所があります。
それは以下のヤコブ書の箇所です。

”ヤコブ5:1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
2 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
3 あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
6 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。”

このヤコブ書の金持ちの話とテキストの倉を建てる金持ちとを比べるとこの2つはとても
似た話であることがわかります。以下の通りです。

1. どちらも金持ちの話である。
2. どちらにも収穫に関する記事がある。
3.どちらにも金持ちが殺されるとの記述がある。
4. どちらにも財宝もしくは、収穫をため込む話があり、そのためこんだ財宝、刈り入れが
金持ちに災いをもたらすことが書かれている。

かくのごとく、これらの記事は似ています。これらの理解をもとに、順にテキストを見ていきたいと思うのです。
 

”15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」”
 

どんな貪欲にも注意するべきことを主は語りました。
貪欲といわれるものにどんな種類があるでしょうか?
お金を求める、異性を求める、家を求める、出世を求める、名誉を求める、
色々あります。さて、これらの貪欲には気をつけているはずのクリスチャンでもうっかりと
乗せられる種類の貪欲があります。

それは、たくさんの奇跡的な霊のたまものを受けること、そしてスターみたいに
信仰の勇者として、あがめられることです。
 

「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

たまものに豊かに富み、いやしも奇跡も預言もすばらしいレベルであってもしかし、それは、
必ずしもその人にいのちを与える、永遠の命を与えるとは
限らないことが書いてあります。

このことはよくよく知っておかなければならないことであり、そしてこれは、我々クリスチャンの常識とは
違います。
我々クリスチャンの間では、永遠の命などちょろいもの、当然のものであり、
どんな初級クリスチャンでも持っているものである。
上級レベルクリスチャンは、そんなレベルでは満足せず、さらに上を求めるものだからです。
断食や祈りにあけくれ、人を驚かす霊のたまものに富んだ人こそ、尊敬すべき、
高いレベルのクリスチャンと思っているからです。
もちろんこんな風にあからさまに口には出しませんが、しかしこれは、きょう日のペンテ、カリスマクリスチャン
の隠れた本音です。

しかし、皆からうらやましがられる様なたまものに満ち、豊さに満ちているクリスチャンでも
何と永遠の命が危ないということはあり得るのです。
そして、他ならぬ聖書がそのことを語っています。そんな箇所がどこにあるのかって?
以下はその聖書箇所です。
 

”マタイ7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

ここには、イエスの名で預言をし、悪霊追い出しをし、奇跡をたくさんしながら、なおかつ主から知らないと
いわれるすなわち、永遠の命から見放される人々が描かれています。
 
 

ある種の人々はこの箇所をねじ曲げ、「この人々は、クリスチャンではない」などといいますが、
キリストを主という未信者がいるはずはありません。明らかにこれらの人々は、クリスチャンであり、
しかも奇跡や、悪霊追い出しをするレベルの高いクリスチャンなのです。
しかも主から知らないといわれる、すなわち、永遠の命が危ないのです。

ですから、豊かなたまものは、必ずしも、永遠の命を保証しないのです。
逆に不法を行う、すなわちみことばを破る人々は、主に「離れていけ」といわれるのです。
 

”16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。”

ここで金持ちが登場し、またその畑が豊作であったことが書いてあります。
金持ちは上記終末の金持ち、たまものに満ちた人と関連あると類推できます。
また、豊作とは、収穫が豊かであったことであり、終末の大収穫の時、仮庵の祭りとも関係した
ことばです。
 

その終末の大収穫の日、金持ちは大いにもてはやされ、この世の春を迎えるでしょう。
彼は収穫の日のスターであり、主役です。すばらしいたまもの、預言や悪霊追い出しや、
奇跡を行うので、皆が殺到し、すっかり有名人になるのです。

彼は金持ち、たまものに満ちたキリスト教会の大スターであり、みなにうらやまれます。
 

”17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

「作物をたくわえておく場所がない。」と彼は金持ちならではの悩みを持つわけです。

作物とは、麦と関係があり、麦はみことばを食べて育つクリスチャンと関係あります。
ですからこのことばを教会風に解釈するなら、「俺のたまもの、奇跡がすごいもんだから、たくさん人が来て、教会の会堂が一杯だ、
狭くて場所がない、どうすればいいんだ?」といううれしい悲鳴です。

”18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。”

前の倉をこわしてもっと大きい倉を建てるとは、教会風に解釈するなら、小さな会堂を建て替えて、
もっとどでかい大会堂を建てようということをいっているのでしょう。
牧師としては、我が世の春であり、会堂も大きくなるし、献金も増え、たまものに満ちた先生との
評判もあまねくキリスト教界に広がり、万々歳ということなのです。
 

”19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

 

さて、功なり名をとげ、安泰な生活に入った金持ちは、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」
といいます。教会に関して理解するなら、食べるすなわち、みことばのメッセージもたくさんある、
飲むすなわち、聖霊の働きもたくさんある、何も心配することはないということです。
しかし、この金持ちの思いは幻想や、誤解に基づくものです。何故なら、あの金持ち教会、
ラオデキヤに対して、主は、「乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」といわれるからです。

彼は真の意味では富んでいない、神の前には富んでいないのです。

”20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。(「かれらがお前のたましいをお前から求めている」:新改訳より)そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』”

この金持ちは、神から、お前のたましいは今夜お前から取り去られると
いわれました。この箇所は、新改訳の注によると、「かれらがお前のたましいをお前から求めている」
と直訳できるそうです。

彼らとは何か?私が思うには、金持ちが必死にためこんだ、たくさんのものと思われます。

このことは、前述ヤコブ5章の以下の記述とも符合します。

”2 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
3 あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。”

このヤコブ書の箇所では、金持ちを告発、責めるのは他でもない金持ち自身がためこんだ富、金銀であることが書かれています。同じく、倉を建てる金持ちの場合も、金持ちの命を求めるのは、彼自身がためこんだ、
富、であることが想像できるのです。

この富、金銀とはかねてから申し上げているように、彼らが聖霊のたまものと思い込んでいるもの、実際は悪霊のたまものであることと理解できます。

ですから、繰り返しまた繰り返しいいます。今、すごい聖霊のたまものが開かれている、
トランスフオーメーションだの、金粉が舞うだの、歯が金歯になるだのの、威勢のいい、
リッチなたまものマンセーの集会、聖会、大会、セミナー、教会にはよくよく気をつけなければなりません。これらは、我々をリッチな金持ちにするようで、実際は我々のたましい、そして命、永遠の命さえ、奪うからです。

たまものに引かれ、実際は悪霊を受けてしまうからです。

欲に引かれてはいけないのです。
かつて豊田商事事件という事件がありました。豊田なんて一流企業の名前をつけて、年率10%だの、20%だの法外な利子を約束して多くの人をだました事件です。
可哀相なお年寄りがだまされた事件として有名ですが、よく話を聴くとあまり同情もできません。
要するにだまされた人は皆、欲の皮がつっぱり、少しでも大儲けをしたいとの欲にかられて
結果、自ら、契約してだまされているのです。

終末の日も同じであり、たまものに対して欲の皮を突っ張らせた人が皆騙されていくのです。

”21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」”

自分のためにたくわえ、神の前に富まないとはどういう意味でしょう?
この箇所は明らかに以下のラオデキヤ教会へのことばと対応しています。
 
 

”黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

ですから、ラオデキヤ教会の問題とは、こういうことです。
この教会には、確かに「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と誇る、
それらしき現象はあるのです。具体的には、いやし、奇跡、預言、たまもの、それも

大きな規模の現象があるのです。しかし、聖書は、この教会を「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」と全く逆の評価を下します。
何故か?それは、この教会のたまものが神から来ていない、他の霊から来たもの、はっきりいって、
悪霊からのたまものだからなのです。

このことを説明して、倉を建てる金持ちの記述の中で、聖書は、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」と呼んでいるのです。

ですから、結論は繰り返しになりますが、要するにたまものなら何でもよいというのでない、
それが神から来ているかどうかが大事、そういうことになります。
そして、終末の日は、悪霊のたまもの、奇跡、現象が花ざかりになる時代であり、
多くの人が結局は、たまものに引かれだまされていく時代になるのです。
それをさして聖書は、「偽預言者たちが現れ、....惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と書くのです。

「マタイ24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」

大きなしるしや不思議が神からのもの、聖霊からのものなら何の問題があるでしょうか。
しかし、明らかに神とは異なるしるし、不思議があること、偽預言者にともなう、しるしや不思議というものがあることをこの箇所は語るのです。

これらの明白な聖書の警告を退け、自分だけリッチなら、自分だけ教会で
有名になれば、自分だけ「すごいしるしだ」とほめられたい、とどんよくを持つ人々は、
結局は、この金持ちの様な運命、倉は建てても神からは愚か者扱いされる結末と
なるのです。

ですから、この様に金持ちへの聖書の明確な警告を知る時、私達はこれを知ります。

このことです。

すなわち、
まことにまことにこれらの聖書の箇所を知りながら、あの「しるしと不思議をともなう」偽預言者軍団の
リーダー、嘘つき狼少年ピーターこと、ピーターワグナーを始めとした怪しい面々をこの国へ紹介したもの達、音頭をとった者達、賛同した者達の罪は重いのです。

それは、神の前に重く、人の前に重い罪です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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