NO.552油注がれた大祭司が死ぬとき


”テキスト:民数記35:26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、
27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。
28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。”
 

本日は、「油注がれた大祭司が死ぬとき」という題でメッセージしたいと思います。

逃れの町の記述の中に「油注がれた大祭司が死ぬとき」について書かれています。
このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。
テキストに沿って見ます。
 

”26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、
 

逃れの町とは何かというと、以前見たように、教会であると理解できます。
旧約聖書は、非常にユニークな町、逃れの町について記しており、もし意図的でなく、
人を殺したしまった人、過失で人を殺したしまった人が仇討ちに殺されることのないため、
逃げる場所として逃れの町を制定しています。

この町に逃げ込んだ者は、殺人の仇を受けることがなく、逆に逃げ込まなかった者は、
仇討ちに殺されてもしかたないと定めます。そのあやまって人を殺した人とは、実は
キリスト殺しにかかわった人、ある意味全ての人と理解できます。
聖書は、自分の人殺しの罪を理解し、逃れの町、教会に逃げ込んだ人はその罪のゆえに殺されることはなく、
逆にその様に定められているのにあえて逃れの町に逃げ込まない人は、仇を討つものに殺されると
語ります。

「もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き」

殺人者が逃れの町を出ていくことが書かれています。
せっかく用意された逃れの町を彼は出ていくわけです。
これは、神が逃れの町として用意した教会を色々不満を述べて出ていく人と似ています。

”27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。”
 

彼は教会には愛がない、あんな牧師はついていけない、教会はカルト化しているなどと色々たくさんの理由があって、
出ていくのでしょうが、しかし、彼の知らないことが一つあります。
彼がこの逃れの町から出ていくなら、もう彼の命を守るものはないということです。
逆に血の復讐をする者に殺されてしまう、すなわち、彼への裁きが舞い戻ってくることが
語られているのです。
ですから、今の時代、多くの人が教会を出、クリスチャンであることを
やめますが、それは、単なる好き嫌いの問題ではなく、永遠の命、血の復讐をする者、復讐の神の
裁きに会うか会わないかということに関係していることを知りましょう。

私もかつて某教会を追い出されましたが、しかし、礼拝を続けることをやめてはいません。
今は知り合いの人々と、またネットで知り会った人々とともにほそぼそと礼拝を
守っています。私はこの逃れの町に留まりつづけようと思っているのです。

”28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。”
 

そのあやまって人を殺した者が逃れの町に留まるべき
期間についてここでは述べています。それは、大祭司が死ぬときまでと書かれています。
このことの意味合いは何でしょう?
そのことを考えてみたいと思うのです。
教会を逃れの町と考えるなら、ここでは、何と我々が教会を出てもいい時について書かれていると理解できます。とどまるべきその教会から出てもいい時?一体それはどのような時なのでしょうか。

大祭司に関してヘブル書はこう書きます。

ヘブル9:11「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り」
 

このことばによれば、真の大祭司とは、キリストのことなのです。ですから、逃れの町と関連して、
大祭司が死ぬ時とは、すなわち、キリストが教会で殺される時と理解できます。

実はこのことば、大祭司が死に、逃れの町から出ると言うことは、かつて成就しました。
真の大祭司、イエスキリストは、逃れの町である旧約の会衆、集まり、民の中心地である
エルサレムにおいて十字架につけられました。
さあ、この時こそ、人々が逃れの町である旧約のユダヤ教の会堂から出ても良いときなのです。

その時、イエスを信じる弟子達は事実、ユダヤ教の会堂を追い出されました。これを通して、
かつての日、大祭司が死に、逃れの町から出るということが明らかに成就したことを
見ます。
 

さて、かつてイエスの時に起きたことは、また終末の日の予表であることを思い出しましょう。
終末の日、「ソドム、エジプト化した教会」において再度、主が十字架につけられる、
大祭司が殺されることは予表されているのです。
何をいっているかというと、再度、クリスチャンが逃れの町であるはずの
教会から出ていく時が近付いているといっているのです。

かつて仮庵の祭の箇所を学んだ時、理解した様に、聖書は、明らかに終末の日、
みこころの民が教会を出ることを語っています。

その理解に立てばこの箇所のいわんとしていることはある意味聖書的です。

さて、この同じこと、大祭司が死ぬことについて民数記の他の箇所では、
少し違った表現で語っています。
 

”民数記35:25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。”

ここでは、大祭司に関して、「聖なる油をそそがれた大祭司」と表現しているのです。
この油注がれたとの表現は以下の70週の預言の箇所を思い起こさせます。

「ダニエル9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」

この70週の預言では、油注がれた者が断たれることが書かれています。
この油そそがれた者とは、キリストをさすと一般に理解されています。
私もそう思います。
この70週の預言は、キリストが2000年前初めて来られたとき、また十字架で断たれた
時、成就しました。
更に終末の日に再度成就します。

油注がれたということばにより、聖書は実は、この70週の預言は、実は上記民数記の聖なる油を注がれた大祭司が死ぬ時と同じことをさしていると述べているように思えます。
ですから、70週の預言が成就する日は、また私達が堕落、変質した教会を出てもよい日とも
いえます。

まとめますが、聖書は逃れの町について記すことにより、私達が殺人の罪,
流されたキリストの血に対する罪を負わないため、神の用意した逃れの町にとどまるよう、
教会にとどまるよう、語ります。
このことは、不変であり、大きな大原則です。

しかし、世の終わり、大祭司なる、キリストが教会内で殺される異常事態においては、
特例、特別なことをも語り、その時には、逃れの町を出ても血の罪に関する復讐を受けないことを
述べています。そして、今はその油注がれた大祭司がそろそろ、殺されつつある、悪霊の油注ぎが
教会内に充満しつつある時代でもあります。
ただしく、時代をみわけましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d7eaa4009e Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream