”テキスト:民数記35:
22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、
24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。
25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、
27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。
28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。”
本日は、「逃れの町から出るとき」という題でメッセージをしたいと思います。
旧約聖書に書かれたユニークな町、逃れの町についてさらに見ていきたいと思うのです。
テキストに沿って見ます。
”22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、
24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。”
ここに書かれているのは、敵意はないのに、誤って人を殺した人のことです。
ここでいう殺された人とは、ある特定の人、聖書のメインテーマである、キリストのことです。
ここで書かれていることがらは、キリストの死と我々との関係です。
我々は直接には、キリストの死に加わっていない、また彼を憎んでもいない、
しかし、我々は彼の死に責任がある、その血の責任をどう果たすかということに関する
問題なのです。これは、それこそ全ての人に関する問題なのです。
問題は私達が、血の復讐をする者、その復讐をどう逃れるかということなのです。
復讐をするのはある意味、神御自身であり、私達にとってはその復讐をどう逃れるのかということが
大事です。これは、単にクリスチャンのみにかかわらず、全ての人にとって、関わる問題です。
かつての日、主イエスが殺される時、その殺そうとする人々に関して、「父よ彼らを許したまえ、
彼らはそのなすところを知らざればなり」といわれました。また、
ステパノが殉教する時も「彼らの罪をゆるしてください」といいました。
まさにこのことこそ、殺人の罪、血の復讐から逃れることこそ、逃れの町が語っていることなのです。
主イエス殺しに加わった人もステパノ殺しに加わった人も本来、血の復讐を受けるべきなのですが、
しかし、彼らはそれと知らないでしたことなので、許される可能性があります。
そしてその可能性とは、彼らが逃れの町に入った時のみ有効です。
そして逃れの町、特別に備えられた町とは、他でもない教会のことなのです。
そしてそれゆえにこの民数記35章に出てくる逃れの町は、レビ人に関する記述とともに
記されています。レビ人とは、現在の献身者、牧師、働き人のことです。
牧師は、教会で働きます。ですから、レビ人とともに記されている逃れの町とは今の教会のことと理解できます。
私たちは本来、主イエス殺しの罪を負うべきものなのですが、しかし、
その罪から逃れる方法があり、それは、逃れの町、教会へ逃げ込むという方法なのです。
ですから、全ての人はキリスト殺しに意図しようとしまいとある意味加担しているのですが、
それらの全ての人には、以下の2つの選択があることを知りましょう。
1.私達の罪を認め、逃れの町、教会に逃げ込む
2. そんな罪を認めず、逃れの町などに入らない、
上記1の人は、その血の罪を負うことはないでしょうが、しかし、2の人は負います。
ですから、全ての福音宣教はこのことを強調すべきです。
救いは万人に開かれている、それは事実なのですが、しかし、
もう一つの事実があります。
それは、その血の事実を認め、逃れの町に入ったものは裁きを免れるが、そうでないものは、
裁きを逃れられないのです。
このことをヨハネの福音書では、以下の様に表現しています。
”ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。”
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は...さばかれている。」とのことばは、
逃れの町に入るものは血の復讐に会わず、入らない者はその復讐に会うとのことばと
符合している、同じことを語っていることを知りましょう。
”25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。”
殺人者は、その逃れの町にとどまるよう、語られています。
ですから、私達は教会にとどまるということをこの面からも正しく知るべきです。
すなわち、教会にとどまる、とどまらないは、実は私達が
キリストの血にたいするとがめを受ける、受けないと関係するということを知るべきなのです。
キリスト教会の中には、無教会運動の様に何かというと教会は悪魔だ、教会へ行くなと
カン違いしたことをいう人々が多いです。しかし、教会がどの様な存在かは、あくまで
みことばに沿って考えるべきです。この箇所のたとえを理解する限り、明らかに逃れの町、
教会を出ていく者は血の復讐を受けます。
このことを理解しなければならないのです。
”26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、
27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。”
もし、逃れの町から出た殺人者が殺されたとしてもその殺す者には、血を流した罪はないことが
書かれています。今でいえば、逃れの町、教会から、出ていくクリスチャンがキリストの血の復讐を
求める神の裁きの手に陥ったとしても、その責任は神にはないことを語っているのです。
自業自得というわけです。
教会にとどまることは何と大事なことでしょうか。
何かというと他の教会、教団をけなして
自分のとこは、一番だと言う人々がいます。ブラザレン系の教会はその典型です。彼らは、
中間祭司階級は、神によって定められていない、教会に牧師やら、献身者やら、特別な
人を信徒との間に置くべきでない、なんて非常に惑わされたことを語ります。
全ての人は神の前に平等だとの聖書と全く正反対のことをいっています。
しかし、聖書は明らかに民の中にレビ人、祭司を定め、一般の人が神に近付き、奉仕をすることを禁じています。旧約のレビ人は、新約において神に献身した人のたとえです。
神に献身した弟子と一般の群集との間には、明らかに歴然とした区分があります。
また、彼らが何かと非難する牧師ということばも聖書の中で使われていることばです。
彼らは聖書に文句をつけたいのか?
ブラザレンのいう、全ての人は兄弟であり、その間に何らの区分もすべきでないなどとの主張は悪しき平等、
JNダービーゆかりのヨタ話であり、聖書が推賞していることではありません。
この様なヨタ話に影響され、ほいほいと教会を離れる人は、自分の軽薄な行いの実を刈り取り、多くの痛みを受けるようになるでしょう。
聖書は明らかに教会に私達がとどまることを語っており、教会や牧師を何でも非難すれば、
よいというものではありません。
”28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。”
さて、逃れの町、教会にとどまること、それが、私達が血の復讐を受けないためには必須なのですが、
しかし、聖書はまた、例外的なことについても語っていることを知りましょう。
それは、大祭司が死ぬと言う特別なことです。真の大祭司、キリストが何と逃れの町、教会で殺される日が来る、その日には、逃れの町を出てもかまわない、そのことをも語っているのです。
この件は別途みましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー