NO.550 良きサマリヤ人

テキスト:”ルカ10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”

本日は、「良きサマリヤ人」としてこのことを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。

”25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」”

この良きサマリヤ人の話は、どうしたら、永遠の命を受けるかという問いの中で起きています。
はてさて、どうすれば永遠の命を受けられるのでしょう?

”28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」”

答えは単純明白であり、みことばを「実行」しなさいということです。
このことをよく覚えておかなければなりません。主は明らかに実行することを語ったのです。
しかるに極端な信仰、それこそ異端に近いような極端なことをいういわゆる福音派のめんめんは、
この箇所をもとに「何も行いは必要ない」?などとのトンデモナイことを言い出します。
福音の総合理解が必要、たとえこの箇所に行いと書かれていても全体として、福音、救いは、
行いと無縁、だから、行いは不要(!!!!)なんて、トンデモナイ理論で、神のことばを
骨抜きにしているのです。これでは、福音派とは、あほたれ派、もしくはへ理屈派のいいかえかと
疑問が起きます。

誰もいわないので、私がはっきりいわせてもらいます。
こんな類いの阿呆理論を振りかざす人々は、神が白と書いたのに、勝手に黒と書きなおす、傲慢不遜な
愚かものです。
 

さて、この良きサマリヤ人のたとえで、主がいわれていることは何でしょう?
一般的また第一義的な理解は、困っている人を見捨てず、かえりみなさいということです。
傷ついた人を見捨てるレビ人、祭司の様にならず、しかし、
解放するサマリヤ人の様になりなさいということがこの話の主旨です。
それはそうなのですが、しかし、この話の中に何か今の時代の私達に
対して語られていることはないのでしょうか?
あればそれを見ていきたい、そう願っているのです。
 

”29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。”

ここである人、「エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた」人について書いてあります。
何気ないような記述なのですが、旧約聖書を読むと似た様な記述を見ることができます。
下記の記述です。


2列25:4 そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、王はアラバへの道を行った。
5 カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原で彼に追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。
6 そこでカルデヤ人は王を捕え、リブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上り、彼に宣告を下した。
7 彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。”

ここでは、エルサレムの王がエリコで、強盗ならぬ、バビロン王に捕らえられたことが
書かれています。
 

私が聖書で見た限り、旧約聖書の中で、サマリヤ人のたとえと同じ、
以下の点を満たす記述はここ以外には、他に見ることができません。

1. エルサレムからエリコへ下る
2. そのエリコで強盗の様な人にひどい目に会う。

それで、とりあえず、このエルサレムの王の記述は、良きサマリヤ人の
たとえと関係があると思って見ていきましょう。
するとさらに隠れたことが見えてくるかもしれません。
 

このエリコという場所は、聖書的にいうと非常に象徴的な場所です。
それは、他でもないダビデ以来のユダ王朝が最後に崩壊し、捕囚された場所、それが
エリコなのです。

さて、この王の悲劇はもちろん、この王個人のことなのですが、しかし、
それのみに限らず、もう少し深い意味合いがあるかもしれません。
何故なら、上記エリコで捕らえられた王に関して、聖書は、王の個人名はあげず、
ただ、王とのみ書いているからです。このことを通して、この王の悲劇はある意味、
ダビデ王朝全体、さらにダビデ王朝とは、ユダ国の王朝ですから、
広くいって、ユダ国全体の悲劇、問題に関していっているとも理解できると思えます。

良きサマリヤ人のたとえの中で考えるなら強盗にあった人とはもしかすると、
ユダ国、ユダの国に住む全ての人に関していっているのかもしれません。

「強盗に襲われた。」

ユダの王はエリコで強盗ならぬバビロンへの捕囚のうきめにあいます。
しかし、このバビロン捕囚とは、ほかならぬ神の民であるユダの人々にとって、
強盗に会った様な悲劇だったことを知るべきです。

エルサレムの都から、バビロンへのあらゆる尊い宮の器、金銀、宝石が運びこまれました。
全ての宝は奪われたのです。これが強盗に会うことでなくて何でしょうか?
 

「強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」

強盗に会う前とその後では、この人の状態は全く異なります。
強盗に会う前は健康で、きちんと着物を着て、まっすぐ歩いていたのです。
しかし、強盗に会った後は、着物ははぎとられ、裸になり、なぐりつけられたため、
傷だらけになり、半殺しにされ、歩けなくなったのです。

この人の悲しい現状、それはバビロン国へ捕囚されたユダ国そのものをさします。
バビロン捕囚の結果、この国は、その義の衣は剥ぎ取られ、バビロンゆかりの魔術やら、
バビロンゆかりのへりくつ文書、タルムードにより、その義の書、聖書はだいなしにされました。
結果、この国は、半殺しの状態、神の前に生きているか死んでいるかわからない状態になったのです。

”31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。”

さてこの半殺しの状態の人を助けるか助けないかという問題に関連して、祭司やレビ人が登場します。
何故でしょう?半殺し状態の男の話だから、医者や看護婦などが登場した方が良いと思うのですが、
どうなのでしょう。

祭司やレビ人を登場させることにより、聖書はこの箇所の隠れた意味合いを示すためのヒントを
与えていると理解できます。何をいっているのかというと、
祭司やレビ人は宗教的な礼拝や、いけにえを捧げることに関連します。
ですから、この強盗に会った人、半殺しになった人とは単にお金を盗まれた、肉体的にひどい
目にあったというより、宗教的な意味合い、神への礼拝、聖書の教理、献身、そういった領域に
おいてひどい目に会い、礼拝も教理もおかしくなってしまった、そう理解できるのです。

その時、祭司が通りかかりました。このサマリヤ人が負っている傷は礼拝に関する
問題、傷なので、祭司がなおせる、いやせるはずなのです。
しかし、彼は自分が本来なすべき仕事も義務も果たさず、知らないふりをして行き過ぎてしまった、
そこに問題がある、そう語られているように思えます。
 
 

このことは少なくとも主イエスの時事実でした。
彼らその当時の祭司たちは、傷つき、バビロン化したこの国の礼拝をいやそうとも
立て直そうともせず、逆に主に「祈りの家とすべき宮を強盗の巣にしている」と
叱責される状態だったのです。
 

”32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。”

レビ人もこの傷ついた人をいやそうとはしなかった、助けようとはしなかったことが
書かれています。
このことは主イエスの時も同じです。レビとはくっつくという意味であり、
主につく、神につくという意味を込めています。具体的にいえば、神に仕えることを
もっぱら仕事としているはずの当時のパリサイ人、律法学者達は、このレビ人の位置にいると
いえるでしょうか。彼らはその頃、なすべきことをして、信仰的に傷つき半殺しの状態の
このユダの国をいやしたのか?
答えは否というのが正しいでしょう。逆に彼らは白く塗った墓の様、外見は立派でもその
内側は汚れた偽善者的な人々になりました。結果、バビロン、ゆかりの自分達の伝承(タルムード)
を優先し、神のことばを捨て去っていました。
彼らはこの国のために何らの役にも立たず、傷付き、倒れた人を起こすのにほんのわずかな
力をも貸さなかったのです。

”33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

さて、その後、サマリヤ人が通りかかり、この人が傷ついた人を助けることになります。
このサマリヤ人は誰を象徴しているのでしょう?
「聖書は私について証しするものである」とのキリストのことばによるなら、
この人はキリストをさすと考えるのが妥当でしょう。

もしそうだとしたら、ここで書かれているサマリヤ人のたとえのいわんとしていることは、
傷付いた国、バビロン化し、異邦化したユダ国、傷付いた人に対して、誰が真の意味の
隣人になったのかという問い掛けです。
その答えも自明であり、わけのわからない、理屈や神学、教理で自己満足をし、
何ら傷付いた人をなおそうとしない祭司、レビ人、すなわち、当時の祭司長や
パリサイ人などは隣人の助けになってないといえます。

”34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。”
 

このサマリヤ人は、傷ついた人を助け起こし、介抱します。
それは、そのままユダの神の民をあわれみ、いやしたキリストの姿と重なります。
オリーブ油、ぶどう酒は、聖霊のたとえです。イエスの霊、聖霊は、ペンテコステの日に
天から下り、この国の民をいやし、解放しました。
この傷付いた人がオリーブ油、ぶどう酒により、傷をいやされた様に、そのペンテコステの日、
ユダの神の民は、聖霊の油により、いやされ、強められたのです。
「宿屋に連れて行き、介抱してやった。」

宿屋の意味あいは何でしょうか?
宿に泊まり人はいやされ、食事を与えられ、飲み物を与えられます。
これは、教会のたとえと思われます。何故なら、教会においては、
食べ物、みことばのパンが与えられ、飲み物、ぶどう酒、聖霊が与えられるからです。
ですから、傷付いたユダの人々、ペテロ、ヨハネを始めとする人々は、この
教会により、強められ、食べるものを与えられるようになったのです。
そして、教会は、キリストによって備えられたのです。
 
 
 
 

”35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』”

旅に出かけもう一度帰りに寄ることを約束するこのサマリヤ人は明らかに再び来られ、その民を助ける
キリストの型、たとえです。デナリ2つという言い方も象徴的、暗示的です。
1デナリは当時の労働者の一日分の労賃ということです。その伝から想像するのに、2デナリ
とは2日分ということでしょうか。
2日をさらに解釈するなら、2つのミレニアムとも理解できます。
そう理解するなら、2デナリを払い、帰りにさらに支払うべく(3日目に?)宿屋、教会に戻る旅人とは、
他でもない3つ目のミレニアムに再臨するキリストの型と理解できます。

”36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」”
 

この3人の中で誰が強盗に襲われた者の真の隣人なのかという問いが
イエスにより問われています。その答えは明白であり、良きサマリヤ人なのです。
強盗に襲われた者すなわち、バビロン化、エジプト化したユダヤの現状を見ながら、それを
見て見ぬふりをして通り過ぎる祭司、レビ人はこの神の国にとって、真の隣人ではありません。
そしてこの見てみぬふりをする祭司、レビ人とは他でもない、ここでイエスと対話している
律法の専門家達をさすのです。そしてだからこそ、イエスは「あなたも行って同じようにしなさい。」と
彼らにいったのです。
しかし、この律法の専門家はどこまでわかったのやら...。

さて、今の時代、かつての主イエスの時と似たような様相を呈しつつある教会時代の終わりにいる
私達に対してもこの同じたとえ、良きサマリヤ人のたとえは語られていることを知りましょう。
今、教会は偽ユダヤ主導のバビロン化により、それこそ、強盗にあった人の様に半殺し状態です。
そして、隣人愛を口では説くが何の実行もない、祭司すなわち、今の牧師、またレビ人すなわち
献身者たちが歩いていきます。
そして、彼らはこの様な瀕死の教会の状態に関しては何ひとつ手をさしのべようとしないかの様です。
そんなことはいいがかりと聞こえますか?
それなら私は聴きたいのです。

この国のキリスト教会において、誰があのバビロンゆかりの練金術ショーこと、トロント、ペンサコーラ
リバイバルに抗してこの瀕死の教会を救うべく手をあげたでしょうか?
誰も彼も御身かわいい、人との摩擦をおそれ、口を閉ざしているのではないでしょうか?
また、日本のキリスト教会の聖書翻訳は、アメリカトンデモ訳聖書の後を必死に追い、
BSE入り、狂牛病入り牛肉ならぬ冒涜、改ざんいり聖書が広く流布しているのですが、
誰がこのことに反対の意志を表し、この瀕死の人、教会を救うべく声をあげたでしょうか?
私が知っている限り、そんな声はほとんど聞こえず、どのクリスチャンも牧師も
見て見ぬふりの偽善祭司、レビ人の道をまい進していたように見えたのですが、
どうでしょう。

しかし、私達は主により、口先だけの論議ではなく、「あなたも行って同じようにしなさい。」
と語られていることを覚えましょう。
この現代における瀕死の人、教会の回復のため、手を汚し、身を犠牲にして
働く人こそ彼にとって真の隣人なのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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