NO.549 たのみとする武具を奪い


”テキスト:ルカ11:
14 イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。
15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。
16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。
17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。”
 

本日は「たのみとする武具を奪い」という題でメッセージしたいと思います。
ルカ伝の記述から、「たのみとする武具を奪う」という記述の意味合いを見たいと思います。
テキストに沿って見ていきます。

”14 イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。”

イエスは悪霊を追い出しました。それは尊い奉仕であり、
悪霊につかれた人は解放され、おしはものを言うことができるようになりました。

”15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。”

しかし思いもよらない非難がイエスに向かっていわれました。それは、
このイエスは、悪霊のかしら、ベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているという非難です。
ベルゼブルは蠅の王という名の悪霊です。
これはとんでもない冒涜であり、非難なのですが、しかし、事実、神の子であるイエスに向かって
その様な非難がなされたのです。このことは歴史的な事実であり、また預言的な意味合いがあります。
何をいっているのかというと、終わりの時にも主の聖霊を受ける人々が悪霊呼ばわりされることが起きると思われるからです。


16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。”

イエスを信じない人々は、それが神から来たことを証明するべく、「しるし」を要求しました。

しかし、それに応じてイエスが何らかのしるしを行ったとは書かれていません。
逆にこの姦淫の時代はしるしを求める、しかしその時代に対して、「ヨナのしるし」の他は与えられないことをイエスは他の箇所で語ります。

ですから、終末においてもしるしに対して原則は同じであることを知りましょう。
今は悪い姦淫の時代であり、惑わされたクリスチャンは、カリスマ、ペンテコステ派を始めとして、
「しるしと不思議」に傾倒しています。金粉が舞った、歯が金歯になった、すばらしいというわけです。
これは、何か?聖書的にいうなら何と理解すべきなのか?聖書的にいうなら、これは、
キリスト教会が「悪い姦淫の時代」に入ったことを語ります。
ピーターワグナーによれば、今の時代、もっとも信者を増やしているのは、ペンテコステ系の
教会だということです。このことを聖書的にいうなら、「しるしと不思議偏重系の教会」がもっとも
伸びている、すなわち、悪い姦淫の時代に入ったということでしょうか。

かつての日、イエスに対して「天からのしるしを求める者」がいました。同じことが
終末の日にもイエスの弟子に対して行われるでしょう。
「お前らが本物なら、しるしを見せろ」というわけです。
しかし、この様な方法、要求は決して聖書の方法でもイエスの方法でもないことだけは
覚えておきましょう。逆に
悪霊のリバイバリスト、ベニーヒンなどが、ユダヤカバラの魔法か、練金術みたいなしるしと不思議を
行うようになりますが、これは、マタイ伝でいう「偽預言者がしるしとを行う」と記されたことの
成就です。しかし、聖書も知らず、神も知らない阿呆たれヘンテコ信者は、そんなしるしに引かれ、
悪霊の海に巻き込まれていきます。
彼らに真理を知らすべき牧師は同じくあほたれとなり、どぶ水みたいなものをガブ飲みしています。
キリスト教会の新聞も雑誌も
同じ様に盲人系、目の御不自由な方系となり、悪霊と聖霊の区別もつかないようになっていきます。

”17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。”

ここで何故、どの様にして国がつぶれるのかということに関して書かれています。
それは、内紛、内輪もめによるのであり、内紛で国がつぶれることが書かれています。

さて、それはサタンの国に関して書かれているようですが、しかし隠れた意味合いがあります。
それは、今の世界の最大の国、20億人もの人口を擁する大国、世界大のキリスト教会の
内紛そしてその結果による崩壊について書かれています。
 

”18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。

さて、その起こらんとするキリスト教会の内紛、崩壊は何を契機に起きるのでしょう?
ここにそのヒントが書かれているという風に読めます。それは、
イエスの霊、聖霊を悪霊呼ばわり、ベルゼブル呼ばわりすることをきっかけとして起きることが想像できます。
 
 
 

”19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。”

いいかたを変えるなら、この時イエスをベルゼブル扱いにすることにより、内紛、混乱が、ユダの国、神の治める国に起きたともいえます。事実、エルサレムは分裂し、内紛したからです。一方は神の霊により語り、
他方は、そのイエスをベルゼブル呼ばわりし、内紛したのです。しかし、
どちらかが間違っていたのは明白です。そして聖霊を悪霊した人々はいずれ、裁かれることになります。
その裁きに関して、「だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」といわれています。終末の日の神の国、教会の分裂も一方が他方を悪霊、ベルゼブル扱いすることにより起きるでしょうが、どちらが神の霊により語っているかは明白となるでしょう。

”20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。”

ここでは神の国の定義が書かれていると理解できます。神の国とは何か?
聖書でいうその定義は何でしょうか?神の国とは、英語でいうとKingdom of God,神が統治する国という意味合いです。そしてその神が統治する国とは、旧約では、イスラエル、ユダの国、新約でいうなら、
いわゆる教会をさします。教会こそがこの世において、唯一神が統治する国だからです。
そして、神の国とは、悪霊を追い出すことと関係します。
 

このことは、旧約の歴史を考えればわかります。旧約時代、イスラエルの民はカナンの地に入り、
そこを自分達の相続地、神の国にしました。しかし、その時、彼らがしなければならないことがありました。それは、先住民であるカナンの住民と戦いこれを追い出すことでした。
このことは新約のたとえであり、新約の教会も同じく戦いをし、悪霊を追い出し、そこを
神の国とするのです。
福音書の中で、イエスが悪霊を追い出す記事が多くあります。ある時は、おしの悪霊を追い出し、
ある時は、墓場に住む人から悪霊を追い出します。そのイエスの行いはそのまま、ヨシュア(イエス)を先頭とした
イスラエルのカナン征服になぞらえられます。

イスラエルはカナンの住民を追い出し、領土を獲得しました。イエスは悪霊につかれた人から悪霊を
追い出し、その人を神の前に獲得しました。これは、すなわち、神の国を広げたことであり、
悪霊を追い出すことは、カナン人を追い出すことと重なっているのです。


21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。”

さて、その様にしてカナン人を追い出し、獲得した旧約の神の国、イスラエルの国は
しばらく安泰でした。強い人すなわち、ダビデ、ソロモンなどの傑出した王により
守られていたからでした。外敵により悩まされることもありませんでした。
似た意味合いで、新約の教会もその初期は安泰でした。聖霊の守りがあり、助けがあったのです。

”22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。”

しかし、その様に安泰だった、旧約の神の国ももっと強い者に破れ、奪われる日が来ました。
旧約の北イスラエルの王は、強いもの、アッシリアに負け、その住民は捕囚となってしまったのです。

同じく南のユダの王は、強いもの、バビロンの王に負け、その住民は捕囚となってしまったのです。

そして歴史は繰り返し、その未来は預言されています。
何をいっているのかというと、新約の神の国である教会も強いものに負け、その住民が
捕囚となっていくということをいっているのです。

このことは現実を見れば成就しており、北の神の国なるカソリックは捕え移され、
かつての正しい教えを捨て、マリヤ教、偶像崇拝教、法皇教みたいなものになってしまいました。
同じく、プロテスタントも負けており、悪霊のリバイバルが猛威をふるっています。

「彼の頼みにしていた武具を奪い」

さて、このことばの意味合いを考えてみましょう。
武具を奪うとは、たとえば、ダビデ、ゴリアテの戦いを思い出せば、よく理解できます。
ダビデはゴリアテに向かう時、小石以外武器らしいものを持っていませんでした。それで
どうやって、ゴリアテの首を切り落としたのかというと、ゴリアテの刀を使って切ったのです。
すなわち、「彼の頼みにしていた武具を奪い」、それを用いたのです。

ダビデの場合、勇ましいのですが、残念ながら、教会が破れる時、教会が、「頼みにしていた武具」
が敵に奪われ、悪く用いられる、それを知りましょう。

教会の武具とは何でしょう?
聖書のことば、聖霊のリバイバル、宣教活動、信徒の忠実さ、そんなところでしょうか。
残念ながら、これら全ての「武具」が敵に奪われ、悪く用いられる、そんな時が来つつある、
それを知りましょう。
 

*聖書のことば:
聖書の翻訳やら、その神学、研究は、残念ながら、敵の手に渡され、私達の武具は
奪われています。KJVは英語圏において、名訳、正確な訳と有名ですが、
最近の聖書訳はこのKJVから大きく逸れています。たとえば、よくきくNIV訳は、
KJVから約6万語もの単語を省きました。それらの中には、重要なことばも数多いのですが、
すっかり省かれてしまいました。
それに限らず、最近の聖書訳には、おかしな訳が多いです。もちろん、日本の聖書訳も
同じ道をたどっています。口語訳、新改訳などは、皆英語の底本となる聖書があり、
それに基づいて訳されているので、要するに英語訳のおかしなところがそのまま、
日本語におきかわり、引き継がれています。たとえていえば、
アメリカの狂牛病の肉を日本へ輸入して食べている様なものです。
何故、日本の聖書がそうなっているのか、何でこんなおかしなシステムなのかを知っている人は
誰もいません。何はともあれ、
残念ながら、私達の武具である、神のことばは敵に奪われています。

*リバイバル:
神の恵みであり、私達の武具であるはずの聖会、リバイバル聖会なども残念ながら、もう敵の手に
あり、武具は奪われています。

トロント、ペンサコーラを起点とするリバイバル聖会は、異言で悪魔的なことばが語られています。すなわち、、
敵のものと変えられました。そんな聖会に集う人は悪霊の水を受けます。
たとえていえば、水源地や井戸が敵の手に渡った様なものです。奪った敵は喜んで、井戸に毒を
撒き、その毒水を我々に渡しているのですが、悲しいかな、そんな水を見分けることもできず、
毒水を腹一杯飲み込む愚かな牧師、信徒ばかりです。
悲しいかなこの武器ももう敵の手に渡っています。

*宣教活動
宣教、伝道は、神のことばを伝えることであり、人々を救うことなので、
何の問題があるのかと思う人もいるでしょうが、悲しいかなこのことさえ、
敵の手に渡され、武具は敵の手に渡っています。

クリスチャンの宣教、伝道に関する「本音と建て前」は敵に見すかされ、
教会を崩壊する方法が伝道、宣教の名目で教会内に入り込んでいます。
ビリーグラハム、ビルブライトなどは立派な伝道者という宣伝ではありますが、彼らが
実際になしていることは、以下の様に教会内への毒麦の持ち込みです。
-カソリックを良いものであるかの様に宣伝し、カソリック異端教理やエキュメニカルを
プロテスタントに持ち込む。
ー自由主義神学を持ち込む。
 

しかし、何しろ、教会員の数さえ、増えれば良いと思う愚かな牧師はこれらの
偽り者を見分けることなく、追随しています。

最近では、ロバートシューラー積極性思考など、聖書的というより、心理学、魔術に分類されるようなおかしな教えも宣教、伝道を名目に教会内に入り込んでいます。

かくのごとく、宣教、伝道さえ、敵の手に渡っています。
 

「分捕り品を分けます。」

武具を奪われる時、彼我の立場は一転し、敵に分捕り品を取られてしまします。

日本も戦争で負け、火事場泥棒みたいなソ連に北方の島を奪われ、また捕虜として人を奪われ、
シベリアで働かされました。負けたら、分捕り者を取られる、残念ながら、それが敗戦国の宿命なのです

さて、世界一の大国、キリスト教会も敵に負け、結果、分捕り物を取られつつあることを
知りましょう。
分捕りものは、多くのクリスチャンであり、多くの人々が敵の霊、悪霊リバイバルのとりこになっています。
 
 
 
 
 

”23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。”

キリストの味方は集めるものであり、散らす者は敵です。ここにある
集めるとのことばは、以下で使われています。

「マタイの福音書 13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

ここを見る限り、集めるとは良い麦を倉に集めることです。ですから、散らすとは、その反対に良い麦を
集めないことといえると思われます。

さて、まとめますが、かつての日、旧約の神の国、ユダ国の末路は、強い敵、バビロンに侵入、蹂躙されることでした。結果、分捕り者として、エルサレムの人々は、遠い地、バビロンへ連れ去られました。同じことが、終末の神の国、教会の末路として起きることを理解しましょう。
その日、多くの人々が、分捕り物として、バビロンへ移される、バビロン化することを
知りましょう。

このことは預言されています。しかし、その中でもバビロン化せず、堅くみことばに
立つ人々にみこころがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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