No.547堅く立って主の救いを見る(2)

 

 

”テキスト:出エジプト14:

11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。
17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。
18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」
19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。”

本日は、「堅く立って主の救いを見る(2)」として更にこの件を見ていきましょう。

テキストに沿って見ます。


11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」”

この日、民は自分達をエジプトから連れ出したモーセに対して、不満をいい、不平を語りました。
エジプトにそのままいれば危機にも命の危険にも会わなかったのに何でこんなことをしたのかというわけです。同じことは、終末の日にも起きるでしょう。その日、エジプト化した教会から出エジプトした
神の民は、彼らをカルト呼ばわり、宗教的な過激な人々などと犯罪者扱いされ、息消沈します。
「こんなことなら、今までどおちキリスト教会の一員としてとどまっていればよかった」と
彼らを連れ出した方、モーセ(引き出す)した方、キリストに対して不平、不信仰を語るのです。
 
 

「この荒野で死ぬ」と書かれているように、彼らに犯罪、カルトの汚名を着せ、殺害を叫ぶ人の声が
聞こえるようになります。

”13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。”
 

その民の声に対するモーセの答えは、「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」です。ですから、私達は終末の日の出エジプトに関して正しく正しく聖書的な意味合いを見なければなりません。その日は人間的にいえば、人々から、この世から排斥されるもっとも悲しい日ですけれど、しかし神の観点から見るなら、その日こそ、神の奇跡的な介入を見る輝かしい日なのです。
奇跡的な介入とは終末の日においては、天を裂いて降りてきてその民を助ける主の再臨のことをさします。
 

「あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。」

そしてこの日がイスラエル人にとって、エジプト人を見る最後の日となりました。
ですから、この日はこれら両者には、永遠の別れの日となったのです。

そうです、ですから、我々は厳粛にこのことを知らなければなりません。
それは、一つは現代のキリスト教会は急速にエジプト化していっているということ、そして
もう一つは、エジプト化した神の民と堅く主にとどまる民との間には、いつか永遠の区分が来るということです。

今のキリスト教会は急速にエジプト、この世化しています。
たとえば、音楽にしてもかつての聖歌、賛美歌などの代わりにワーシップソング、
ロックミュージックや ラブソングみたいなこの世的な音楽が教会内を席巻しています。
キリスト教会ではやる映画、本、雑誌なども同じ傾向です。

多くのクリスチャンはエジプト化していますが、しかし、その
先には真のイスラエル人、主につく人々との永遠の区分、区分けが行われることを知りましょう。
いそいそと吟味もなくこの世化する教会のトレンドに追随すべきではないのです。

”14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」”

この日の戦いにおいては、主御自身が戦われました。そして、強力なエジプトの軍勢に対して
勝利を得たのです。主が戦われるので、イスラエルの民は、「黙っていなければならな」かったのです。

このことは終末の日のイスラエル、主につく人々の戦いにおいても同じです。
実際に戦いに出てくるのは、主御自身なので、我々の力で戦わないということを学ぶべきです。
その日、真のクリスチャンを憎む偽ユダヤは、あらゆる方策を用いて、愚かなエジプト化した
クリスチャンを扇動するでしょう。結果、出エジプトした神の民は大きな苦難と迫害の中に入り、
地上のどこにも助けはなく、法律も警察も保護しないような状況が来るでしょう。

しかし、その日に関して、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」と語られていることを知りましょう。

地上のどこにも助けがないと思えた時、天からの奇跡的な介入があることを知りましょう。
そして、その日はエジプト化した民が裁かれる日でもあるのです。

”15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。”

この日、イスラエルの民の前に紅海の水が分かれ、そこにかわいた地があらわれました。
これは奇跡、大変な奇跡です。

どこが奇跡かというと、普通海は水に満ちており、乾いた場所などないのです。
しかるにその真ん中に乾いた地が現れ、イスラエル人のみその道を進んでいったのです。

これは勿論実際に起きたことなのですがしかし、後の日、本番の出エジプトの日の予表でも
あります。その日、エジプト化した教会、クリスチャンは、紅海の水の中で滅び、水に飲まれていくが、しかし、真に主につく人々のみ、乾いた地を歩むと語っているのです。
水は、トロント、ペンサコーラリバイバルをはじめとした偽りの霊の洪水をさします。
しかし、主につく人々は、それらの水に影響されない、
乾いた地を歩む、そのことを語っているのです。

まさにこれは現在のキリスト教会の現状を語る記述です。
世界中の多くの教会はこれらの偽りの霊の洪水に飲まれています。それは、
彼らが実はエジプト化した民、この世についた民だからです。そして、それゆえ、紅海の水、すなわち、
赤い水、悪霊の水に飲まれているのです。

しかし、同じ現代においてもこれらの悪霊のリバイバルに飲み込まれず、乾いた地を歩む人々も
います。それは、彼らが、真のイスラエル人、堅くみことばにつく人々だからなのです。

「あなたの杖を上げ」

その日、モーセの杖は民の行くべき道を指し示しました。そしてそれは、正しかったのです。
同じことが終末に起きます。杖は人の歩みを助けるものとして教師のたとえです。
その日、神につく教師、牧師はその民を正しい、乾いた地、すなわち、悪霊踊りのトロント、ペンサコーラ盆踊り大会などに参加しないよう、それら悪霊つきとは無縁の道をすすめるでしょう。


17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。”

その日、エジプト人の心がかたくなになり、そしてイスラエル人をおいかけたのは、それは
主から出たことであると書かれています。
ですから、繰り返していうようですが、終末のその日、エジプト化したクリスチャンが堅く主についた
人々を非難し、こころがかたくなになるのは、そのことは、主から出たことなのです。

それだけでなく、彼らはこれらの主につく人々に危害を加えようと画策しますが、それも
主から出たことなのです。
彼ら、エジプト化した神の民はこの罪のゆえにその日、裁かれるようになる、そのことを覚えましょう。

また、私達がその日、堅く主についているため、苦難に会うとしてもそれは、前もって予言されたことであり、いずれ驚くべき主の救いを見る、そのことも覚えましょう。
 
 

”18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」”

この日、エジプトの王、パロとその軍勢は、悪い意味で用いられ、彼らが滅びることにより、
神は栄光をあらわしました。
学芸会でいえば、悪役を演じて、劇をもりあげるようなものです。
ですから今、エジプト化した、この世化した教会で、何の問題も感じない人々には、
ここに警告があることを知りましょう。その日、エジプト化した民は必ず、
真に主につく人々を追い詰め、迫害するようになるでしょう、そしてその報いは、
主により滅ぼされること、それにより栄光を帰すという何とも情けない結論になるのです。

”19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。”
 

この時、神の使いのために「夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。」ことが書かれています。夜が迷い込むということの意味合いは何でしょうか?
夜は闇の世界であり、闇は光がないことです。ですから、真理を見ることがないため、エジプト人は、
イスラエル人に近付けなかったのです。

終末において大事なこと、非常に大事なことは、真理の光であり、それは、エジプト化した
神の民からは失われていくことを知りましょう。

聖書は明らかに「世をも世にあるものをも愛するな」と語るのですが、愚かで、聖書の警告など
気にもとめない人は、この世の習慣、トレンド、価値観、情報などに気をとられ、結果として
真理を失っていきます。

面白いもので、テレビを見る時間の多い人ほど、惑わしの度合いが強いように思えます。

番犬首相は、アメリカの忠犬であり、911テロとかいう話も
アメリカ自作自演のよた話なのですが、この様な自明のことも自ら、洗脳機械で
毎日洗脳を続けている人には聞こえません。
洗脳機械の別名はテレビであり、それは、人々を洗脳するために開発され、
今度は、さらに進歩し、各家庭の監視、盗聴のために用いられようとしています。
地上波デジタル放送のことです。

賢い人は、この洗脳機械の災いを理解し、自ら災いを見て避けるのでしょうが、しかし、どうにもとまらない
人はどうしょうもありません。しかし、私はこのことは警告しました。この血の責任はありません。

しかし、何はともあれ、出エジプトの本番の日は近付いていることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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