NO.544 地上の旅人


”ヘブル人への手紙 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。”

本日は、「地上の旅人」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”

これらの人とは、アブラハム、イサク、ヤコブを始めとしたイスラエルの先祖達のことです。
彼らはイスラエルという民族の先祖であるとともに、新約のイスラエルである、我々クリスチャンが見習うべき信仰の先祖でもあります。

彼らの特徴は、天幕生活、テントで暮らしていたということです。
そしてこのテントで暮らすということを通して、我々今の時代のクリスチャンに語りかける
信仰的な教えがあるのです。

テントで暮らすと言うことに関する教えとは?
それは、テントは仮のもの、一時的なものであり、永久的な住まいではないということです。

例えば、テントと反対のこと家をたてることを考えましょう。
仮に我々が家を建築するという時、それは
一生ものです。だから、土台をすえ、面積を決め、外装、内装にこだわり、手間もひまも
お金もかけます。

しかし、テントはそうではありません。今日ここにテントを張っても明日は出ていくかもしれませんし、
その場所には拘泥しません。また、深く土台を据えたりしません。
明日にはもう移動するかもしれないからです。

彼らは信仰の先祖であり、我々は彼らを見習うよう、勧められています。
端的にいえば、我々もテント生活をするよう、勧められているわけです。
といってももちろん、今住んでいる、アパートや自宅を出て、テントに住めと言うのではないのでしょう。
しかし、クリスチャンの心構えとして、テント暮らし、寄留者の歩みを心掛けるよう勧められているのです。

何故か?それは、この地上において、寄留者なら、約束の国に入れるでしょうし、
逆にこの地上の人、この世にどっぶりとつかり、この世を愛した歩みを続けていくならーはっきりいいますがー後の世があぶない、約束の国にはいれるかどうかおぼつかないからです。
 

この世を愛した歩みをしたら、御国があぶない?そんなばかな:という
意見もあるかもしれませんが、以下の様に書かれています。
 

”ヨハネの手紙第一 2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。”

私達はこの世に生きるもの、この世で生活するものではありますが、しかし、
この世の全てを受け入れ、すっかり根をおろした歩みをするように、世のものを全て愛する
歩みをするよう、勧められてはいないのです。具体的に、世を愛するとはどういうことか?
以下の様に書かれています。
 
 

”ヨハネの手紙第一 2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。”

こんなものにどっぶりとつかった歩みをすることが、この世の歩みであり、
逆にこれらに目もくれない歩みが地上の寄留者としての歩みです。
 

地上で天幕生活、テント生活、そんな歩みをするということは、その
人の心意気、この世に対する態度を明確に表します。
「自分達はこの世でついのすみかを見つけるつもりはない、神の定めた
真のすまいを与えてください」という心意気、心情、態度を如実に表しているのです。
そして、その心意気に応じて神は彼らのために住むべき住まい、住むべき場所を用意されます。
以下のキリストのことばは、「テント生活をする心意気」を持った
人々へ語られたものであることを知ってください。

”ヨハネ14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”
 

このことばは具体的には最後の日、キリストの十字架の前の日まで、つき従った弟子たちに
語られたものです。

彼ら12弟子が、実際にテント生活をしたかどうかはともかく、しかし、
信仰的には、この世においては、キリストとともに地上においては、寄留者、旅人として
歩みました。だからこそ、この約束、天の永遠の住まいの約束が与えられているのです。

実は主御自身がこの地上においては、安住するものではない、仮の住まいのものであることを語っています。以下の通りです。

”マタイの福音書 8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」”

主御自身がこの世に安住しないなら、私達もそれに見習うべきなのです。

「約束のものを手に入れることはありませんでしたが」

さて、彼らアブラハムを始めとした信仰の先祖は、天幕生活をし、この地上の寄留者として歩んだのですが、しかし、それとともに我々が気をつけておくこと、目をとめておくことは、
彼らは地上においては、約束のものを手に入れることはなかった:そのことです。

だから何なのかというと、我々もこの地上で神の約束したその住まい、天のいくべき
ところを手に入れることはないということを語っているのです。

ある種のクリスチャンは、この世で約束、住まいを実現します。
金銀の衣装や飾りに満ちた豪華な住まいに住む、某法皇を中心とした
お偉い人々のことをいっています。
しかし、聖書のいう原則は、アブラハムの子孫はこの地上で約束のもの、入るべき家を受けることはないということです。

”はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”

はるかにそれを見るがしかし、この地上で、約束の住まいを実現するわけではない、
それが聖書の語るアブラハムの子孫の歩み方であることをよくよく肝に命じてください。
何故なら、これから、これらの明確なみことばに対して挑戦するかのような大胆な
偽りものが多数出てくるからです。

キングダムナウ(王国を今)、再建主義などの教えは、地上に天国をもたらさんとするかの様な教えであり、上記、地上の旅人、寄留者としての歩みを語るみことばに対して真っ向から反対し、
挑戦するものなのです。
こんな明白なよた話にすっかりのせられる愚か者になってはいけません。


14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。”
 

ここでは、彼ら天幕生活をした、アブラハムの心意気、姿勢、意志表明に関して語っています。
そしてそれが大事なのです。アブラハムにとっても、我々今の時代のクリスチャンにとっても、
意志を表明するものは、得るべきものを得ます。意志を表明しないものは得るべきものを得られないからです。

ある時、職場で、カレンダーをくれるという話がありました。その
時、少しためらいがあったのですが、私も欲しかったので、手をあげ、「下さい」と
いいました。結果、そのデザインのいいカレンダーは私のものとなりました。
もし、手をあげず、意志を表明しなければ手には入らなかったでしょう。

意志を表明すること、はっきりと意志を表明することが大事なのです。
カレンダーをもらえないとしても大きな問題はないかもしれませんが、
しかし、それが永遠の住まいだったらどうするのでしょうか。
入るべき永遠の住まいに意志を表明しないため、入れなかったなら、
大変なのです。

ですから、同じ意志の表明は、天幕生活をするか、しないかということに通じます。
ある人々は、天幕生活を行い、自分達にはこの地上には、住むべき永続的な住まいはない、
入るべき故郷が欲しいとの意志表示をします。
反対に別の人々はどっぶりこの地上に住みつき、地上のものを満喫し、さらに
追い求めます。住まいも、邸宅であり、地上にすっかり根をおろしています。
彼らはもうここでいい、これ以上、他のところにはいきたくないとの意志を表明しているのです。
 

”15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。”

アブラハムを始めとした人々が、天幕生活をした、その地に安住せず、住み着かず、定住せず、
しかし、自分達には、戻るべきところがあるのだと意志表示をするという時、それは、
文字どおりの故郷、自分の生まれ故郷、地上の故郷のことをいっているのではないのです。
自分の生まれ故郷、アブラハムでいうならカルデヤのウルの故郷のことをいうなら、
それは、帰ろうと思えば帰ることもできたでしょう。しかし、彼らの真の意図していた定住の地とは
そこではないのです。
 

”16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。”
 

彼らが真に求めていた故郷は、天の故郷であり、そこに彼らは入ることを求めていたのです。
そして、この地上では、寄留者であると表明していたのです。
結果、「神は彼らのために都を用意して」いたことが書かれています。
私達が、この世において、寄留者であることを公言することと、永遠の都に入ることとが関係のあることがわかるのです。それで、永遠の都に入ることを志す全ての人は、この世においては寄留者として
暮らすことに心をとめるべきことがわかるのです。
そうこの2つは明らかに関係があります。

このことは、よくよく心にとめましょう。
何故なら、終末における惑わし、試みの一つはクリスチャンをこの世の定住者、地にすみつく者と
すること、この世のものとすることであり、この惑わしに惑わされた人々は、入るべき永遠の都に入れなくなる可能性があるからです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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