NO.542 レカブ人


”テキスト:エレミヤ35:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。
2 「レカブ人(もっとも遠く離れた)
の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」
3 そこで私は、ハバツィヌヤ(エホバの光)の子エレミヤの子であるヤアザヌヤ(エホバは聞く)と、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、
4 彼らを主の宮のイグダルヤ(エホバは偉大)の子、神の人ハナン(彼は恵み深い)の子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルム(
懲罰)の子マアセヤ(エホバの働き)の部屋の上にあった。
5 私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに「酒を飲みなさい。」と言った。
6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。
7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。
8 それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブ(エホバは望む)が私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、
9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。
10 私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。

 

本日は、「レカブ人」との題でメッセージしたいと思います。
かつての日、エレミヤの日にレカブ人という特殊な人々がいました。
彼らは決して、ぶどう酒を飲みませんでした。そのことの意味合いを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。”
 

エホヤキム王とは誰か、その時代はどういう時代かというなら、
この王こそダビデ王朝の終わり頃の王なのです。ユダはつながれ、バビロンへ捕囚されていったのです。

新約のキリスト教会にたとえるなら、獣の国アメリカを起点として起きている、
キリスト教会のバビロン化が頂点に達し、ついには、キリスト教会全体がバビロン捕囚されてしまった、
その日の頃の予表と理解できます。
 

ダビデ王、ソロモン王を起点として始まった、旧約の神の国、イスラエルの王国は、
年とともに堕落、背信を重ね、その終わり頃には、バビロンへ
連れ去られ、その国、約束の国から移されてしまったのです。
悲しいがこれが旧約の神の民の実際の歴史であり、現実です。

私達は希望的観測やら、自分の願望やら、人間的な情緒に基づいて
歴史を顧みるのではなく、神の目、聖書に書かれた通りの神の民の歴史を
理解しなければなりません。

そして、新約の神の国、教会の歴史を人間的な先入観やら、希望的観測なしに、
冷静に理解し判断しなければなりません。

何故なら、正しく過去の教会史を理解できず、結果、未来の教会の姿を予測できない、
多くの盲人が教会にはあふれているからです。

彼ら盲人の目には、過去2000年の間、教会は、すばらしい発展に発展を重ね、
栄光から栄光へと移り、最後、艱難時代には、めでたく、キリストの覚えめでたく、
「教会全体」が天にたずさえ挙げられると見えるようです。

しかし、私にいわせていただけるなら、彼らの目に本当に教会の未来がそう見えるなら、
それは、全くの盲人のたわごとです。

事実はそうではなく、旧約の神の民と同じく、新約の神の民も当初歩みから時代とともに
ずれて来ており、ここ数世紀は、堕落と背信のきわみに入りつつあるのです。
獣の国、アメリカを起点とする教会のバビロン化は、なしとげられつつあるのです。

このレカブ人の記事はバビロン捕囚前のことであり、
それはまた終末の日、バビロン化する教会に関する預言でもあります。

”2 「レカブ人(もっとも遠く離れた)
の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」”

さて、ここでレカブ人が登場します。物語の主旨は、レカブ人に酒を飲ませようとしたけれど
飲まなかったということです。このことには、たとえの意味合い、預言的な意味合いがあり、
終末の日、バビロン化した教会においてもその盃も酒も受けない、堅く主につく
人々のたとえとしてレカブ人が語られていると理解できます。レカブとは、
「もっとも遠く離れた」という意味があり、バビロンの汚れからもっとも遠く離れた
クリスチャンのたとえです。

彼らは以下のバビロン化した教会の酒も盃も受けず、この教会からもっとも遠い位置を守りつづけます。

”ヨハネの黙示録 17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦(バビロン)へのさばきを見せましょう。
2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」”

バビロン化した教会は、「不品行のぶどう酒に酔」っていたことがここに
書いてありますが、終末の日のレカブ人はその酒を受けず飲まないわけです。



”彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。”

さて、この箇所は、レカブ人すなわち、飲んべえではない、酒を飲まない、レカブ人に
酒を飲ませてみろという箇所なのですが、その時、このレカブ人を
連れていく場所が特徴的です。酒を飲ませるからといって、酒場や、スナックへ連れていくのでなく、
逆に「主の宮の一室に連れて」行ったのです。

このことの意味合いはどういうことなのでしょうか?
それは、明らかに酒を飲むことと主の宮とが関係あることを語っているのです。
具体的には、主の宮の中まで、強い酒が満ち、バビロンの酒が満ちるその日のことを語っているのです。
その様な日にもその酒を飲まない、そのことを語っているのです。

酒、強い酒は明らかに霊的なことと関係し、バビロン化した教会に働く怪しい霊の働きのたとえです。

”3 そこで私は、ハバツィヌヤ(エホバの光)の子エレミヤの子であるヤアザヌヤ(エホバは聞く)と、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、”

さてその酒を飲まない、レカブ人の名前がここに記されています。
その名前は象徴的であり、ハバツィヌヤ=エホバの光 と書かれています。
彼ら、終末の日、バビロン化した教会において、酒を飲まない、そんな霊に巻き込まれない
終末のレカブ人の特徴は、「ハバツィヌヤ=エホバの光」なのです。
わかりやすくいうと、その酒が安全かどうか、見分け、霊を見分けるその
みわけはどこから来るか?それは他でもないエホバなる神から来る光なのです。
私達はそれにより、正しいことを見ることができるのです。

さて、レカブ人、終末のバビロンの酒を飲まない人々を描写するもう一つのことばは、
ヤアザヌヤ=エホバは聞く です。
私達は、耳の遠いもの、だまされやすいものであっても主に聴き、主が語るなら、
私達も理解できます。人の宣伝はともかく、真実はこの方から聴いたことが正しいのです。

”4 彼らを主の宮のイグダルヤ(エホバは偉大)の子、神の人ハナン(彼は恵み深い)の子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルム(
懲罰)の子マアセヤ(エホバの働き)の部屋の上にあった。

さて、彼らレカブ人は酒を飲むべく主の宮に連れました。
さあここは主の宮である、この偉大な宮の酒を飲むことに何の不都合があるのかということです。
しかし、彼らレカブ人はそれを拒否しました。
異邦の神殿に連れていかれたのでなく、主の宮に連れていかれたのに、しかも彼らは
酒を飲むことを拒否したのです。このことは非情に重大なポイントです。

今のキリスト教会でさかんにいわれていることは、異端キリスト教会には行ってはいけない、
カルト教会には行ってはいけないということです。
異端、カルトと大騒ぎし、逆にそうでないいわゆる正統的教会、主流派なら問題ないという
イメージが大きく浸透しています。
その問題ないという正統派なる教会とはどういう教会かというと、「キリストは復活していない」だの、
フエミニズム神学だの、同性愛奨励神学だの、ヨタモン異端教理を
振りかざす某異端神学校(複数)を卒業したろくでもないあほたれ牧師どもが牧会している
教会が主流派というらしいです。
それから、マリヤを含めた四位一体を主張するカソリックなども主流派キリスト教らしいです。
しかし、これらの主流派こそ、私にいわせれば、聖書が「異端」と非難、批判している
人々です。

だから、終末の日には、これが主の宮である、礼拝場所であるといわれた
まさに神殿がバビロンの酒で満ちるようになります。
そしてその時、その酒に対してどう対応するのかということがこのレカブ人の箇所が
語っていることなのです。

主の宮がバビロン化する、そこでバビロンの酒がふるまわれるなんて
いうと、いいがかりと思う人もいるかもしれませんが、そうでもありません。
以下の箇所はあきらかに主の宮の、その器にバビロンの酒が満たされることを述べます。

”ダニエル5:1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。
2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。
3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。
4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。”

さてテキストに戻ります。
 
 

”5 私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに「酒を飲みなさい。」と言った。
6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。”

さて、彼らレカブ人は主の宮においてふるまわれたその酒に対して、「私たちはぶどう酒を飲みません。」とはっきりと拒絶しました。この態度こそ、終末の日のレカブ人として
立とうと志す人々は見習うべきであることを知ってください。
たとえ、主の宮、今で言うなら、キリスト教会の主流派やら、ペンテコステの主流派やら、
キリスト教会の主なる新聞や雑誌が推薦したとしてもその酒、あの悪霊男、ベニーヒン、ロドニーハワードの酒、
ぶどう酒、霊などを受けるべきではないのです。
 

”7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。”

さて、彼らレカブ人の先祖、ヨナダブは、子孫に酒を飲まないこと、また、「家を建てたり、..また所有したり」しないことを命じました。このことの意味合いは何でしょう?

この箇所が語っているのは、この世において寄留者としてとどまることを述べた以下のことばと
関係しています。

”ヘブル人への手紙 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。”

ですから、ここでいうレカブ人に関して語られていることがらの意味合いは重いものです。
それは、単なる酒を飲む、飲まないということにとどまらず、私達クリスチャンがこの
地上にどの様なこころがまえで生きるかどうかということと関係します。

このヘブル書に書かれているように、アブラハム、イサク、ヤコブなどが、地上において、
天幕生活をしていたのは、それは、自分達はとりあえず、この今いる地に住んでいるがしかし、
それは、本意ではない、またこの自分達はこの地にいつまでも住むものでもなく、またどっかりと安住するものでもない、自分達には帰るべき地があり、自分達の心も、思いも実はその地に向いているということを示していたのです。
そして、それは、自分の出自の地、故郷アブラハムでいえば、カルデヤのウルというわけではなく、
実は天の故郷について語っていたのだ、そうヘブル書の記者は記しているのです。

そして、それは、レカブ人についても同じであり、彼らは、「一生、天幕に住め」との先祖のことばに
従うことにより、自分達はこの地のものではない、天の故郷をめざしている者であると
暗に語っているのです。
 

”8 それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブ(エホバは望む)が私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、
9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。”
 

彼らレカブ人は先祖の声に従い、ぶどう酒を飲まず、住む家も地上には建てませんでした。
そしてそれは神により賞賛されました。ですから、我々はこのレカブ人にならうべきであることが
わかります。彼らの先祖は、ヨナダブでありその名の意味合いは、「エホバは望む」です。
ですから、レカブ人ヨナダブの歩みは神の望む歩みなのです。

このエレミヤの時代においてもレカブ人は小数でした。また、今でも小数です。
しかし、小数であり、主流派に入れようと入れまいと神の望む道を歩むそこにポイントがあることを知りましょう。
獣の国、アメリカにおいてもレカブ人が今でもいます。その一つは、アーミッシュの人々ではないかと
私は思っています。彼らは自動車もテレビも電話もインターネットをも拒否し、しかし、
神の教えに忠実に歩んでいます。何万人かの人々が自給自足、馬車を使って生活しているのです。
彼らは3種類の本を大事にしています。それは、聖書、聖歌、そして殉教者の書です。

先日、このアーミッシュの人々の間で悲劇的な事件が起きました。近隣のおかしな男が
銃を持って押しかけ、生徒を銃で撃ったのです。何人かの生徒が死にました。
しかし、その中で、感動的なことが起きました。13才のアーミッシュの女子生徒が、
「他の生徒を撃たないで、その代わりに私を撃って」と犯人に申し出たのです。
結果、彼女は撃たれて死にました。

他の人のために自分の命を犠牲にする、これは今の時代においては、驚くべきことです。
たとえクリスチャンの間でもなかなかありえないことです。
しかし、この少女はこの様な人生の危急の時にそういってのけ、行ったのです。
何故13才の女の子がそんなことができたのか?その裏に、
彼女の受けた信仰の教え、教育が想像できます。
驚くべきは現代のレカブ人、アーミッシュの生き方、歩み方です。


10 私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。”

アメリカにおいては、もう多くのクリスチャンは、かつての信仰の先祖の道などには歩みません。
教会でダンスが行われたり、まったく変質しているのです。
しかし、全ての人がそうなったのでなく、小数のレカブ人が残っています。
「私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。」
と誇りをもって断言できる小数の人々がいるのです。そして、それらの人々に主の目はそそがれています。
この歩みにポイントがあることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d73b92a300ac Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream