NO.541さいふを持たずに行く


”テキスト:ルカ10:1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
5 どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。
6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
7 その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
8 どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。
9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。
10 しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。
11 『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』
12 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。”

本日は、「さいふを持たずに行く」という題でメッセージします。
かつての日、主が弟子達を遣わす時、「財布を持たずに行く」ことを命じました。
上記箇所です。この箇所の意味合いを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。”
 

ここで主は「別に七十人を定め」たことが書かれています。
「別に」とは、既にこの前の章で12弟子が選ばれたことが書かれているからです。
ここで私達の疑問は、何故主は既に12弟子を選んでいるのに、それとは、別に70人を弟子として
選んだのか?12弟子とこの70人の弟子との間の働き、その意味あいの違いは何かと言うものです。

聖書に書かれたこと、主がなされたことにはどんな小さなことにも意味合いがあります。
もし、その意味合いが隠されているならそれを探っていきたいと願っているのです。

*最初に12人が選ばれ、
*その後、70人が選ばれる、

実はこのことには、旧約聖書に先例があります。その箇所を見てみましょう。

”創世記 46:27 エジプトでヨセフに生まれた子らはふたりで、エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人であった。 ”

この箇所を通して以下のことがわかります。

*ヤコブ、後のイスラエルの子孫の数は、12人、12部族。
*その後数が増え、12人で始まったイスラエル一族がエジプトへ下った時の総人数は
70人。

上記新約の箇所では、12人、70人と2つの数字が出てくるのですが、その数字は
旧約のイスラエルの人々の数、12人、70人とみごとに一致しています。
それで、私達は、新約で主に遣わされた70人の弟子の意味合いを考えるとき、
旧約に戻り、イスラエルの70人の子孫について考えるべきことがわかります。

ヤコブの日の70人は、エジプトへ下った人々の数です。それで主に遣わされた
70人の弟子の意味合いも預言的なものであり、意図は後の日、教会が
エジプト化した日にその教会へ下る、主の弟子への教えと理解できます。

尚、終末の日に教会がエジプト化することは明確に預言されています。

”ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

さらに70という数の別の面を見るなら、それは、ダニエル書でいう70週の預言と関係します。
70週(7を70倍)とは、兄弟を許す数であり、逆にこの数を超えたときは、
裁きに入るはずとは、以前見たとおりです。
その意味合いでもこの70との数は終末に直結しているのです。

”2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。”

かつての日、主は収穫は多いが働き手は少ないことを語りました。このことを考えてみましょう。
このことは実際そうだったのかどうかを考えるなら、主の時にはその通りでした。
主がいう意味合いにおいて、「働き手」は少なかったのです。その当時、
ユダヤの国には、多くの神を知っている、また律法を知っていると自負している人々が
いましたが、彼らは「働き手」には、数えられません。逆に妨害者でした。

律法学者、バリサイ人達は、キリストを否定し、教えを否定し、また群集も主を十字架に
つけることに賛同したのですから、全く働き手にはふさわしくなく、逆に足を引っ張る方だったのです。
あの収穫の日、初穂、ペンテコステの日、働き手として働いたのは、2階屋で祈っていた、
ほんの120人程の弟子達でした。

しかし、彼らを通して収穫は刈り取られ、ペンテコステには一度に3000人もの人が救われました。
120人で3000人のケア、確かに収穫は多く、働き人は少ないのです。

さて、ペンテコステの日、初穂の時に起きたことは、そのまま終末の日、大収穫の日に繰り返されると
思われます。
何をいっているのかというと、大収穫の日にも「働き手は少ない」のです。
一見考えるとこの考え、「働き手が少ない」という考えは馬鹿げているように思えます。
なぜなら、今やキリスト教は大宗教、世界宗教であり、世界にクリスチャンと名がつく人々は、
20億人もいるからです。普通に考えれば、
こんなにいっぱい、クリスチャンがいるのにどうして「働き手が少ない」などと
心配する必要があるのかと思えます。
しかし、そうであってもやはり、主のいうことが正しくそこに真実があるのです。
私はこう思います。

かつての日、惑わされた教理やら、教えでこりかたまっていた人々は、
主の役にたたず、働き手になれませんでした。同じく、今の時代もクリスチャンの
数は多いとしてもその大部分は、現在キリスト教会に流布しているヨタ教理、
変質教理のとりこであり、主の「働き手」としてはふさわしくない:そう思えるのです。

今の時代の主の働き手として立つには、今の時代の主のみこころを知り、
今の時代に沿ったみことばの理解が必要なのですが、残念ながら、今の
キリスト教会にはその備えがありません。
彼らは「終末の日の艱難の前に教会が挙げられる」という反キリスト的なヨタ教理を
信じており、反キリストのみこころには沿っていても「キリストの働き手」としては、
役たたずです。そう、確かに「働き手」は少ないのです。

”3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。”

小羊は弱い動物、牧者に頼るしかない動物です。終末の日の働きはその小羊の様な
信仰者を通してなされます。


4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。”

「財布も旅行袋」も持っていくなと書かれています。このことの意味合いを考えましょう。
基本的にはここでいっていることは、お金や物に頼るな、ただ与えて下さる主に頼れということと
理解できます。

主を信じていけば主が満たして下さるという信仰です。これは本当でしょう。
かつて主の弟子達はこれを実践していました。
たとえば、ホーリネス系の神学校では、以前神学生が夏期伝道に出るときは、片道の
交通費だけ渡されて行くと聞いたことがあります。
派遣先で祈っていると、主が泊まるところも、食事も備えてくださったと、いうことです。

さて、このことは真実なのでしょうが、しかし、私達はさらにたとえの意味合いをも見ていきたいと
願っています。

「財布も旅行袋も」

財布も旅行袋も原語の意味合いでは、お金に関係した入れ物の様です。
それで、これは、金に関係したことを語っていると理解できます。
金は買い取る時に使うものであり、買い取る、あがないと関係します。
ですから、聖書が「財布も旅行袋も」という時、実はあがないに関係していることを言っている可能性があります。絶対そうとは断言できないのですが、とりあえず可能性を考えてみたいのです。

もしそうなら、ここでは、(あがないに必要な)金も財布も持っていくなという変なことを
命じていることになります。
何故、金、あがないが禁じられているのか?
それは、終末の日にあがないの教理が逸脱したもの、本来神がいわれたことと懸け離れたこととなるからと推測できます。

あがないの教理が変型、変質?とんでもないことをいう!という意見もあるかもしれませんが、振り返って今いわれているあがないの教理を考えてみましょう。

現在キリスト教会で流布しているあがないの教理ははっきりいって逸脱しており、
行き過ぎています。
どんな罪も悪も許される、裁かれることは決してないと、イスカリオテのユダには、セカンドチャンスもあるなんて
、まったく
甘やかしの極致です。だから、終末の日の教会への裁きなどという教えは、
全く人々から受け入れられないのです。
しかし、間違っているのはこれらの逸脱したあがないの教理であり、彼らは
聖書を曲会し、誤った道へと人々を誤道しているのです。
 
 

「だれにも、道であいさつしてはいけません。」

これはどういう意味なのでしょう。
キリスト教は愛の宗教といわれているのにあいさつするなとは意味不明です。
しかし、聖書がこの様に語る時、そこには隠れた意味合いがあるものです。

あいさつに関して、ヨハネは以下の様に語っています。

”ヨハネの手紙第二 1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。   ”

ここでヨハネは異端的な教えを持ってくる人には、あいさつするなと語っているのです。
クリスチャンが誰にでもやさしく、あいさつすべきとは基本でしょうが、しかし、異端的な教え、
違う教えを持ってくる人には別、あいさつするなと語っているのです。

このことを念頭に主が弟子にいわれた 「道であいさつ」するなとのことばを考えると、
意味合いが理解できる気がします。
それは、終末の日、弟子として立たされた人は、道を曲げる人々、異端的な
教えを繰り広げる人々に挨拶するな、妥協するな、喜ばれようとするな、
そのことを語っているように思えます。

何故なら、もしそうするなら、聖書より、人間の情を優先するなら、
終末の日の弟子、忠実な弟子としての働きは全うできないから、そう
理解できるのです。
 

”6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
7 その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。”

平安のことが書かれています。平安とは、日本語では、抽象的なことばですが、
私の理解では、聖霊のたとえと思われます。

平安、聖霊にふさわしい人が家、教会にいるなら、その聖霊はその教会にとどまるでしょうし、
そうでないなら、帰ってくる、そう理解できます。
 

”9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。
10 しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。
11 『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』
12 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。”
 

神の国が近付いたことを弟子が語るよう記されています。
終末の日における神の国が近付くとはどういう意味なのでしょう。今の私の考えでは、
主の再臨が近いこと、またその後に続く神の国と思われます。

それでここでいわれていることは、
1. 主の再臨とその後に現れる神の国の日が近いこと
2. それとともに、主の再臨に続く全ての人に対する裁きの日が近い
3. だから、悔い改め、間違った道を歩いているなら、それをただすよう伝える

そう理解できます。だからこそ、それに聞き従わず、
正しい道に立ち返らない人々に対して、「その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです」
と書かれているのです。

それで、私達がこの終末における主の弟子として立つつもりがあるなら、
終末の日の神の民、クリスチャンに対してその歩みをただして、正しい道に入るように
すすめることが必要だとわかります。

いつまでも「キリストの再臨は2回あります」などと聖書にもないヨタ話を吹聴せず、
また悪霊のリバイバルに狂奔せず、主の再臨に備えるべきなのです。
 

かつての日、旧約の神の民の間に主から70人の弟子が遣わされました。
その弟子のことばを聞き、ある人々は正しい道に立ち返り、またある人々はそのことばを
退け、裁きに入りました。

これはかつて実際にあったことですが、しかし、それはまた、終末の日、70週の終わり頃に
遣わされる弟子の型です。

終末の日にも主の弟子が神の民、クリスチャンの間に遣わされ、
曲がり切った教理の中にいる人々に悔い改めを促すでしょう。
結果、ある人は聞き、ある人々は聞かないでしょう。

聞かない人々は単なる人のことばを退けたと思うのでしょうが、しかし、実際はキリストのことばを退け、その結果、
「その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです」とのことばが
成就するでしょう。

私の理解ではもうすでにこの預言は成就しつつあり、主の弟子は遣わされつつあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
  -----------------------------7d71861f300ac Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream