NO.540 人々の手に渡される


”テキスト:ルカ9:43 人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。”
 

本日は、「人々の手に渡される」との題でメッセージしたいと思います。
テキストは上記箇所です。

テキストに沿って見ていきたいと思います。

”43 人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」”

この時、人々はイエスのなされたわざに驚いていたのですが、そのさなか、主は自分が
人の手に渡されることを語りました。

そして、そのことに関して、わざわざ、「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」とまで、
語りました。このことが意味のあること、大事なことであることが分かります。

さて、それでは、人々の手に渡されるとはどういうことをさすのでしょう?
このことは、具体的には、主の十字架の時に成就しました。

祭司長、律法学者達に扇動された人々は、イエスを非難し、そして、彼を十字架の死に追いやりました。
確かに人の子、イエスは、人々の手に渡され、死に追いやられたのです。
彼は神の子であったのに、人々を救うため人間の姿をとり、人の子として来たのですが、しかし、
その当の相手である、人の手により、死に渡されたのです。

このことは第一義的にはそうなのですが、しかし、隠れた意味合いがあると、理解できます。
このこともやはり、終末の日に再度、繰り返されるように思われます。
だからこそ、主は弟子達に「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」といわれた、
そのように理解できるのです。
 

”45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。”

さて、このことばは、何か特別なことばと思えます。
わざわざ、「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」とまで
書かれているからです。

確かにこの当時の弟子達にとり、このことばが分からなかったのは事実です。
弟子達はまさか、この救い主、ダビデの子として来られた方、ダビデの座、すなわち、
王座につかれると思われる方が、いずれ、人々の手に渡され、
十字架で死ぬとは思いもよらなかったのです。

イエスがダビデの座についたら、自分は右大臣、自分の兄弟は左大臣などと
もくろんでいたのですから、そんなもくろみの全てが外れる、「イエスが人々により
十字架の死に渡される」とは全く思いもよらなかったのです。

さて、このことは、当時の弟子達にとり、思いもかけず、彼らにとり、
「みことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていた」のですが、
同じことが終末の日にも起きるでしょう。

それは、主の弟子にとり、思いもかけないこと、それは、主である方、キリストが終末の日に
「人々の手に渡され」、死に渡されることです。

そしてそれは、今の弟子達にとっても「このみことばが理解でき」ず、
彼らにとり、今も「みことばの意味は、わからないように、彼らから隠されて」いるのです。

「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」

上記みことばで「人々」と訳されたことばの原語は、anthropos
というギリシャ語です。意味はそのまま、人とか人類という意味合いです。

渡されると書かれたことばは、裏切られるとも訳すことができます。
ですから、イエスが人により、裏切られ,渡されるそんな意味合いがあります。

だから、ここで主がいわれていることには、やはり、こういうニュアンスがあるように思えます。

主は「人の子」として、人、人類を救うため、そのために神の子の位を捨てて
降りて来られたのに、人は主を拒絶し、結果、彼らの手に渡される:
そんなニュアンスです。
 

ですから、終末の日、この人類の世界におけるトレンド、風潮、方向は、
「イエスを否定」、「イエスを裏切る」、「イエスを罵倒する」そんな方向へ行くことを知りましょう。

世の中はそんな方向へ行くのです。

過去1ー2世紀の世界、人類のトレンドは、神否定、神追い出しの風潮といえるでしょう。
ダーウインの提唱した、愚にもつかない非科学的なヨタ話、進化論を起点に、
世の中の人はもう神なんかいない、人間は偶然にできたもので、神様なんかに
世話になっていないことになりました。

無神論を基本にした共産主義国家がたくさん誕生し、神の存在を認めることは非科学的だということに
なりました。

自分の人生から、神を追放し、人は神に対する恐れなど、消し去り、何の制限も制約もなく、生きられるすばらしい時代がやってきたのです。

さてこのトレンドは終末に向かってさらに進み、世の中の人々はいずれ、「神の子イエス」なんてのは、
そもそもつくり話で、「イエスの奇跡」やら、復活なんていうのもただのおとぎ話であると
言い出すようになるでしょう。

そう、「人の子は人々の手に渡され」、裏切られるのです。

もうすでに「人の子イエス」は人々の手に渡されており、「ダビンチコード」を始めとした
嘘八百のヨタ話は世間を席巻しています。

何でそんなものが売れるのか?人々は教会やら、聖書やら、神の存在やらをうっとうしく
思っており、イエスキリストなんかも自分の人生から追放したいからです。

イエスキリストが本当に復活した神の子なら、これは、聖書どおりの生き方をしないと
まずい:しかし、キリストが実は復活もしていないなら、
もう聖書やら、神やら、何一つ気にせず、生きていける:
これはいいことを聞いた:というわけで、このヨタ本は不信仰者どものニーズにマッチし、
ベストセラーになったのです。

終末の時代がますます進むにつれ、この傾向はますます進んでいくでしょう。
あげく、これらの不信仰な人々により、堅く主につき、みことばにつく人々が、艱難に会う日が来るでしょう。
しかし、その時にこそ「彼を待ち望む人々の救いのために」主は再臨されることを思い出しましょう。

時代は預言されたように、暗黒に向かっています。しかし、結果として、全ての預言が
成就していることもわかるのです。結果、最後の預言、約束、主の来臨もまさに確実であることが私達にはわかるのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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