NO.539モーセとヨシュア


”テキスト:民数記27:
12 ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。
13 それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。
14 ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。
15 それでモーセは主に申し上げた。
16 「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、
17 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」
18 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。

本日はモーセとヨシュアという題でメッセージをしたいと思います。

モーセはイスラエルの民を約束の地に連れていくことができなかった、そして
ヨシュアがその任にあたった、そのことの意味合いを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”12 ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。
13 それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。”

この箇所では、主がイスラエル人に約束した地について書かれています。
そして、その地を目前にモーセは民に加えられる、すなわち、命を失うことが書かれています。

この状況を考えて見ましょう。

モーセは誰かといえば、もちろん出エジプトをなしとげた人です。
エジプトで呻吟していたイスラエルの民をこの国から連れ出し、神の約束された地へ向かって連れ出した人です。そして、荒野における40年もの年月の間、不満や問題続出の民を導いた人です。

その彼は今や神の語られた約束の地の手前まで来ました。
この山に上ればその地を見ることができるのです。ゴールは目の前であり、彼の永年の労苦が報われる時が来ました。やれやれという感じであり、ほめことばの一つも欲しいところでしょう。

しかし、しかし、あろうことか、神はその約束の地を前にこの功労者、モーセは
約束の地に入れないことを語りました。

あまりにもモーセが可哀相と思えないでもありません。
人間的にはどう見てもそうなのですが、しかし、神のなさることは、人知を超えたものがあることを知りましょう。

何故モーセは約束の地へ入れなかったのか?神がこの記述を通して語っていることは何か、それを見ていきたいと思うのです。
 

それを考えるのに、そもそも「約束の地」とは何か、それを見てみたいと思います。
約束の地とは何なのでしょう、はたまた約束の地を通して神が語っていることは何なのでしょうか。

出エジプトしたイスラエルの民は天幕生活をしていました。
わかりやすくいえばテント生活をしていたのです。約束の地へ入る迄そうだったのです。
民の住居だけでなく、神の住まいもまた天幕、テントだったのです。
テントの意味合い、特色、それは要するに旅行者、旅人が使うものということです。

そして旅人とは、この世を旅するクリスチャンをさすことばでもあります。
以下の様に書かれています。

ヘブル11:13「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」

私達はこの世では、旅人、テント生活者、ほんのひととき通り過ぎていくものに過ぎず、
この世の定住者ではないのです。しかし、ヨハネに福音書にあるように、
主はこの私達のために天に場所を用意しにいかれました。我々の定住場所は、この世ではなく、天の住まいなのです。

イスラエルの民は;
1. 荒野では、テント生活をし、
2. 約束の地では定住生活をしました。家を建てたのです。

ですから、私の理解では、「約束の地へ入る」とは、「主の約束された御国」へ入ることのたとえと
思われます。
本当にそうかどうか、断定まではできませんが、そう見えるのでとりあえず、
その様に理解して進めていきます。

さて、上記箇所では、モーセは民を約束の地、すなわち、入るべき御国の手前までは
連れていけたのですが、そこに入ることには失敗しています。
このことには隠れた教えがあり、暗示があることを知りましょう。
 
 

旧約聖書に出てくる人々は、それぞれ役割が異なります。
そしてそれぞれの人の役割を通して神が語っていることがあります。
モーセの役割、その特徴は何でしょう?
モーセは他の人が決してしないこと、すなわち、神から直接律法をもらう、2枚の石の板に書かれた律法をもらうということを行いました。それで、モーセは律法すなわち、書かれた神のことばを
代表する人物といえるでしょうか。

モーセは律法を代表しており、もっとつっこんでいうなら、律法を行うことによる義、今でいうなら、神の教えを守るという「行いによる義」を代表するといえるでしょうか。
しかし,
モーセは民を約束の地へ入れることができず、失敗してしまうのです。

行いによる義を通して「約束の地」すなわち、神が約束された御国へ、我々は入れないということを語っているように思えます。

このことを同じく見たのかパウロは以下の様に語っています。
 

”ガラテヤ2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。”

「律法の行ないによっては義と認められず」、従って神の約束された御国に入ることはできないのです。
モーセ、律法の行ないを象徴するかと見える人物が約束の地に入れなかったこととまさに符合しているのです。

モーセは民を約束の地に入れることはできず、ヨシュアがその任にあたったのですが、このことにも
語りかけがあります。ヨシュアとは新約でいうイエスのことです。すなわち、イエスキリストのことです。
上記ガラテヤ書に、「キリストを信じる信仰によって義と認められる」とまさに符合します。
モーセ、律法の行ないによっては、約束の地に入れず、しかし、ヨシュア、すなわち、
キリストを信じる信仰による義により約束の地へ入るとまさにこの箇所は語っているのです。
 
 
 
 
 

”14 ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。”
 

何の欠点もないかの様な立派なモーセの生涯だったのですが、しかし、たった一つのささいな失敗を
もとに神は彼が約束の地へ入れないことを語ります。「メリバテ・カデシュの水のこと」とは、
モーセが「岩に命じろ」と語られたのに、「岩を打った」ことです。
岩に命じるのと打つのとどれ程の違いがあるのかと、人間的には思うのですが、
しかし、完璧な神のしもべ、モーセはこのほとんど唯一の失敗をもとに約束の地へ入る
栄誉にあずかれなかったのです。

何とも厳しい神様と思えないでもないですが、しかし、ここにも語りかけがあると
思われます。モーセ、律法に関して聖書はこう語ります。律法により義とされる人は律法の
「全て」を行う必要がある、と。
律法によって義とされるためには、100ある律法のたった一つでも満たせないなら、
もう失敗なのです。モーセの失敗は、まさにそれを語っているように思えます。
良くも悪くもモーセは律法を代表する人物であり、たった一つの誤りがもとで
約束の地に入れなかったことは、まさに律法を行うことにより義とされることの
厳しさを表しているのです。

”16 「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、”

「全ての肉なるもののいのちの神」と語られていますが、私達、肉にある者にとって、
律法を行うことにより、あらゆる新約の教えを行うことにより義とされることは、
難しいのです。だからこそ、一人の人が必要であり、我らをいのちの道へ導く一人の
方、キリストが必要なのです。「主よ。ひとりの人を会衆の上に定め」とは
まさにそれをさしているのです。

”17 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」”

私達クリスチャンはどの様にして神の約束した約束の地、すなわち、天の御国に入るのでしょう?
どのようにして、神のみこころに沿った歩みを行い、そこに入るのでしょう?
それは、非情に難しいのです。「命に至る門は狭い」と書かれている通りです。
しかし、その様な私達のため、神は、私達に「先立って出て行き、先立ってはいる」方、キリストを与え、
またその方の霊、聖霊を与えられたのです。この方に従っていくなら、私達は入るべきところに入れるのです。
私達がこの世的だったり、または誤りに入っているとしても、しかし、この方は私達を正しい道へ
導きます。「また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。」と書かれている通りです。

かよわい羊は良い牧者がいなければ、狼に食べられたりするし、また、食物や、
水にありつけません。私達、羊であるクリスチャンも同じくです。
しかし、幸いにも神は一人の羊飼いを与え、行くべき道を与えて下さいます。「主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」とはこのことをさします。

”18 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。”

ここで、ヨシュアが登場し、彼がモーセに代わって民を約束の地へと導きました。
新約においても話は同じです。私達は、モーセ(律法、旧新約の神の聖書の教え、を行うこと)
により、約束の御国に入るのでなく、一人の人イエス(ヨシュアと同じことば)の義により、
御国に入るのです。
そして、今、ヨシュア、イエスは神の霊、聖霊として私達を助けます。「神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュア」とはこのことをさします。

”19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。”
 

イスラエル人の全会衆が彼に聞き従うことが書かれています。
そうです、彼に聞き従う者こそ、約束の国、天の御国に入るのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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