No.537 眠った人々


”テキスト:1テサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

本日は「眠った人々」という題でこの箇所を見ていきたいと思います。

”13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。”
 

この箇所は前後を見る限り、あきらかに終末の日、主の再臨がある日について語っています。
その頃に眠る、すなわち死ぬ人々とは、どのような人々か?
私の想像では、いわゆる殉教の死と関係すると思えます。

さて、この頃の死について「眠る」と表現されています。
眠るということばは前に見たように、福音書に書かれた少女の死と復活、またラザロの死と復活を
思い起こさせます。

かつての復活は、少女の時もまたラザロの時も悲しんだのもつかの間、主が来られた時、
あっという間に死人は死から蘇りました。
彼等が死んでいたのは事実なのですが、それはほんのわずかの間だったのです。
主が来られた時、あたかもしばらくの眠りからさめたように、少女もまたラザロも蘇りました。
それで、ここで聖書が語ることはこういうことでしょうか。

終末の日に主につく人々の何人かは、死を経験すること、また殉教を経験することは
確かである、しかし、それをもって、もう全ての望みが断たれた、何もかもおしまいと
思うのははやすぎる、むしろ、それは眠ったに過ぎず、ほどなくして復活の日が来ることを
憶えよ:そのように理解できます。

”あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。”
 

終末の日の死について、私達は、信仰の目をもって見るべきなのでしょう。
それは確かに死なのですが、しかし、聖書は、それは眠りに過ぎないと述べます。
私達は聖書にまた神のことばに立ちましょう。
 
 

”14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。”

再臨の時、主は「イエスにあって眠った人々を連れてくる」ことが書かれています。
「イエスにあって眠る」とは、要するに信仰を貫いて死んだ人々と理解できます。
獣のしるしを受けたり、イエスのことばや聖霊を否定した人々のことではありません。
 

「イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来」るとは、要するに
イエスへの信仰のもとで命を失った人々は、その日、復活の命を受け、また復活した
主とともに来ると言うことを語っているのです。

このことはあり得ないことでしょうか?
私にはそうは思えません。
かつて、主が死んでいた少女を生かし、また死んでいたラザロを復活させたのなら、
彼等を眠りからさますように、復活させたのなら、終わりの日に主にあって
死んだ人々を生かすこと、復活させることは、難しいことではないでしょう。
聖書にあっては常識、今さら疑問符をつけることではありません。

”15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。”

優先とは順番についてすなわち復活する順番について書かれているようです。
終末の日、主につく人々の運命は2種類にわかれるでしょう。
ある人は3年半の艱難の中で殉教します。しかし、残りの人々、恐らくこちらの方が人数が多いのでしょうが、は最後まで、主の再臨まで生き残ります。
もちろん艱難はあるのでしょうが。

どちらが信仰があるとかないとかの問題ではないでしょう。
かつての主の弟子のうち、ペテロは殉教しましたが、しかし、
ヨハネは最後まで生き残り、パトモスに流されました。この2人において、
どちらがとうという問題ではないのです。

大事なのは最後まで主に忠実かどうかということでしょう。
しかし、復活に関しては明らかに順番があり、殉教者が先です。
主は信義を重んじる方であり、忠実さに報いる方であると思えます。
殉教者が優先:これは誰が見てもしかたのない優先順位と思えます。

”16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、”

主はその日下って来られます。
しかし、それは、艱難のクライマックス、あわや絶対絶命、全ての人が殺されるかと言うその
時なのです。いわゆる「艱難の後」なのです。
それは、艱難時代の型と思われるいくつかの聖書の記述を見ればわかります。
たとえば、ダニエルの日、彼の同僚
シャデラク、メシャク、アベデネゴがバビロン王の命令を拒んだため、死刑の宣告を受けた時、彼等に確かに助けの手が入ったのですが、それは彼等が何と、炉の中に投げ込まれた後です。
試練の「後」に救いの手が入るのです。
この火の試練は終末の日、再臨前の艱難の型です。以下の様に書かれています。
 

”1ペテロ4:
12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。”

火の艱難の時にも忠実に歩む者こそ、再臨の主の前で喜び踊るようになります。

またダニエル自身も神以外の者に祈ることを拒否したため、苦難に会いましたが、彼が救われたのは
獅子の穴に投げ込まれた後です。

ダニエルにしてもシャデラク、メシャク、アベデネゴにしても彼等の肉体の命は失われなかったので、
終末の艱難の時にも全てが命を失うとは限らないとはいえるでしょうが、
しかし、彼等の救いは艱難の「後」であることを注目すべきです。
 
 
 

さらに加えるなら出エジプトの日、イスラエルの民は荒野、紅海で神による救いを見ましたが、それは
パロによる試練の後でした。
 

このことを考えても、艱難の「前」に携え挙げられるという教理は全くの空想話、聖書とは相容れない
ヨタ話であることが理解できます。

どんな教理でも語ってもいいと考える人もいるかもしれませんが、
私にはそう思えません。
主はこのことに関して裁かれるでしょうし、教師への裁きは重いことを考えるべきです。


17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”
 

終末の日、主により携え挙げられる、栄光の体に変えられる2種類の人についてここに書かれています。
それは、
1. 艱難の中でも信仰を全うし反キリストを拝せず、殉教した人々。
2. 艱難の中でも信仰を全うし、命を永らえた人々

この2種類です。それ以外の人はどうなるのか?皆反キリストを拝んだのでしょうから、
ろくなことにはならないのでしょう。

それで私達、今の時代、まさに艱難の時代に入ろうとする時代に生まれた私達は、
これから世界に起きることを正しく理解しなければなりません。

それはサバイバルの様な日であり、堅く主につかない人々は揺り動かされ、永遠の命を失っていくのです。
 

”18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

慰めることについてここに書かれています。慰めるということは、逆にその日に悲しみがあり、涙があり、
落胆があることが予想されます。終末の日の悲しみとは何でしょうか?
それは、同信の兄弟姉妹の死であり、また殉教の死です。または自分達が受ける艱難かもしれません。
しかし、そのことと附随して、眠ること、これらの死は一時の眠りに過ぎないことをも聖書は語ります。
命を失ったようだけれどいずれまた得ること、死んでしまったようだけど、実はそれはまもなく、
目覚める迄のひと眠りであると語っているのです。

私達はこれらのことをつらつら思い返すべき時にもうそろそろ入りつつあるのではないでしょうか。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
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