NO.535偽預言者バラム(3)

テキスト:民数記22:
 

21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。
23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。
26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。
27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」
31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」
34 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」
35 主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。
36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。
37 そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」
38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」
39 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。
40 バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。
41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。”
 
 

本日は「偽預言者バラム(3)」としてさらにこのことを見ていきましょう。
 

”21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。”

彼、預言者バラムの行った方法、またその道はしかし神のみこころとは違い、結果として
神の怒りが彼に対して燃え上がりました。

ここの箇所を通して我々は何を学ぶべきでしょうか?
愚かな、少しユーモラスな箇所として、他人ごとと見過ごすべきなのでしょうか?
いいえ、いいえ決してそうすべきではありません。ここに書かれているのはこれから、大いに大量にキリスト教会に
起こるはずの偽預言者、偽教師、惑わされた牧師、神父達の姿なのです。
このことを読み取れない人はこの箇所を見た、読んだとはいえません。

この箇所が明らかに語っているのは預言者、神のことばを正しくとりつぎ伝えるはずの
人が欲に目がくらみ、見当違いの方向へ行ってしまったということであり、これは
歴史的な事実、現実に起こったことです。信仰的、聖書的にあってはならないが、しかし、実際あったことなのです。同じく終末の日に信仰的、聖書的にあってはならないことが、しかし、現実に教会で
大量に発生するでしょう。それは、教会の牧師、神父が、利得やら、御身大事になり、
神のみこころの人々を非難、呪う日のことです。

「主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった」

主の預言者である人がその行くべき道を間違えるとどうなるか?
その時、主の使いがその道をふさぐことが書かれています。
 

それで、私達はこれは正しいと確信して行った道でも主の使いにとどめられた時は
実は違うのではないかと再考することが大事だとわかります。
私達の道がちっとも進まないのは、実は神からのとどめが来ているからかもしれないのです。

”23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。”

この時、バラムはろばに乗っていました。ろばの意味合いは何でしょうか?
私の今の理解では、人を運び、みこころの地に運ぶ方としての聖霊のたとえと思えます。

この時、ろばはバラムの意図と全く異なる方向へ彼を運んでいきました。
この様なことは私達の歩みにもあるのではないでしょうか。
主に従ったはずなのに、自分では思いもかけない方向へ奉仕が行ってしまった。
自分の思いでは大変心外であってもしかし、実は主の意図が別のところにあることがあるのです。
 
 
 
 

”24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。”

ろばが石垣に身を押し付けたため、乗っていたバラムの足は押し付けられ、痛くなりました。
「なんてことをするんだ」というわけでバラムはろばを打ちました。
彼には全くろばのすることが理不尽の様にしか見えず、怒り心頭だったのです。全く自分が正しく思え、こんなことをひき起こすろばが全く悪く見えたのです。しかし、霊的事実、真の状態は彼の思惑とは違っていました。
事実はバラムは剣で殺される寸前であり、ろばは彼を助けたのであり、恩人なのです。

さて、この様なことはクリスチャンの歩みの中で往々にしてあることと思われます。
私達には、「何故私はあの人と結婚できないのか?!!」と怒り心頭だったり、不満をいうことが
あったりしますが、事実はその道を行くなら、剣で命があぶない、その道をとどめる
聖霊の深い配慮が自分には見えなかったり、そんなことが往々にあるのです。

バラムの足が押し付けられ、彼が「痛い」思いをしたことも暗示的です。
聖霊の声に一度で聞き従わずどこまでも我を通していると、場合によって我々は「痛い」目に会うことを知りましょう。それは、人前で恥をかくという精神的に「痛い」思いをするのか、
はたまた、腕や足を折ったり、けがしたりという肉体的に「痛い」のかは知りません。
何しろ、どこまでも御心とそれた道を行く、また頑固だと痛い目に会うことがあるのです。

「彼はまた、ろばを打った。」

従順でものをいわないろばは彼を運び、助けここでは、彼の命さえ救ったのに、
しかし、ろばは何と彼バラムから打たれののしられました。
これは何の姿でしょうか?私にはこれは、私達に仕え、語り、導きそのあげく頑冥な
クリスチャンからののしられ、たたかれても耐え忍ばれる聖霊として来られた主の姿の様に見えます。
 

”27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。”

ろばはうずくまり、結果バラムの歩みも全く止まりました。その結果彼はまたろばを打ったのです。
同じ様に、私達がどこ迄も神のみこころとそれた道を歩むと、もう歩みや働きや奉仕が全くとどまってしまう、停止する
ことがあります。その様な時、神を呪ったり、不満をいったり、すなわちろばをたたいたりせず、
しかし、自分の道を考えなおす必要があるかもしれません。
 

”28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」”
 

ここでろばが口を開きました。
この箇所に関して、ペテロはこういっています。

”2ペテロ2:15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

ここでは、ろばはものをいわないこと、しかし、人間の声を通してものをいうことが書いてあります。
ですから、ものをいわない方、聖霊は人の声、人間の声を通して語ることがわかるのです。

何をいっているのか?
一般的なことをいいますが、我々が往々にして間違った道を進むことがあります。
その時、聖霊はどの様にして我々にその間違いを語るのでしょう?それは、人の声すなわち、私達の知人や、兄弟姉妹や、牧師なりの人の声を通して語る、このことを
語っているように思えます。

”31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」”

バラムの目が開けた時、彼は自分が置かれている位置、霊的な真実を見ました。
彼は何と、剣の前におり。それ以上進むなら命も危ない場所にいたのです。
そして、始めて全てを理解したのです。

バラムは神の預言者であり、王バラクにわざわざ依頼される程の存在であったのに、何とバラムの目は閉じており、
真実を見ることはできなかったのです。このことは、終末の偽預言者、牧師、神父達の上に成就するでしょう。彼らは人からも世間からも信者からも「目の見える存在」として扱われますが、
その実態は盲目であり、自分がどの様な位置にいるのかさえ理解せず見えないのです。

さてこの箇所では、度々剣に関して書かれ、主のみこころと異なった道を歩もうとしたバラムが
剣により殺されようとしたことが記されています。

このことは現代の私達に対する警告として書かれており、今でも否今こそ、
主のみこころと反対の道を歩む偽預言者達は剣の下におり、否もうすでにその多くは剣で
刺され、倒されていることを知りましょう。

剣は「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているように、神のことばと関係しており、
具体的にはみことばの教理、教えです。

現代の多くの教師、牧師、神父は神の道からずれたが故にすでに剣で倒されています。

「クリスチャンと名がつけば決して救いからもれることはない」という
カルビン(この人は隠れユダヤ)由来のよた話を信じている人はすでに
剣で倒されており、聖書にもない、「キリストの再臨が2回ある」という2段階携挙説を
語り恥じない愚か者の教団、牧師はまた、剣で刺され、あほになった人々です。
 

”34 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」
35 主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。
36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。
37 そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」”
 

この時、モアブの王バラクは鄭重に預言者バラムを迎え、もてなしました。
さらに彼は金や銀に満ちた家を提供するとの申し出までバラムに与えているのです。
これを今の牧師や神父と置き換えてみるなら、大教会の牧師、神父になるとのオッフアーであり、
破格の条件です。

そしてこの大教会の牧師になるための唯一の条件は、「この民、みこころの民を呪うこと」なのです。
このことは必ず終末の日に再現され、成就すると私には思えます。

その日多くの牧師、神父が結局は「不義の報酬」を愛して、神につく民を呪い、
カルト呼ばわりすることに同調するようになるでしょう。

彼らは牧師、神父、神に仕える人々なのだからそんなことはあり得ない、なんて意見もあるかもしれませんが、それは歴史を知らない意見です。
キリスト教の歴史は残念ながら、多くのバラム、利得を追求する偽預言者の歴史でもあるのです。

かつて第二次世界大戦中の日本のキリスト教会も同じでした。
いそいそと神のみことばを捨て、政府と妥協し、天皇崇拝やらにいそしんだ、
某キリスト教団(複数)を通して、あくまで頑固にみことばにとどまる
キリスト教団、教会は見捨てられ、裏切られ、悪くいわれ、投獄、殉教さえあったのです。
そうその時は、「不義の報酬」を愛して、主につく人々を悪くいう多くのバラムが日本にはいたのです。
この日本のキリスト教会にいたのです。
 

”38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」
39 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。
40 バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。
41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。”
 

「バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それを
..配った。」と書かれているように牛も羊もバラクの所有であり、彼の一存で
誰に配るかは決断されます。そして牛、羊は、教会の信者のたとえです。

その日、誰にまたどこの教会に信者、クリスチャンを集わせるか、どの教会をカルト認定するか、
正統的キリスト教会と認定するかは、ひとえにバラクの手に与えられるようになるでしょう。

バラクは モアブ、すなわちサタンを父とする人々であり、みこころからずれた人々です。
具体的には、その頃には、アメリカ主導のカルト認定が巾をきかせ、それに反対する人々は、
めでたくもカルト呼ばわりされるようになるでしょう。

問題はまたその日の主からのためしは、これらの誘惑や不義の報酬の申し出の中でも堅く主につき、みことばに立てるかどうかなのです。

まとめますが、聖書は明らかに終末の日にバラムすなわち、不義の報酬を愛し、神の民を
悪くいう牧師、神父が大量に発生することを語ります。

ですから、その様な日が来てもびっくりする必要はありません。これは、前もって預言された日であり、

これらはいずれ来ることです。びっくりせず、驚いたりせずたんたんとみこころを行いましょう。
私達の主の来られる日は近いのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
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