”テキスト:民数記22:10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。11
『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」
12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」
13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」
14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」
15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。
16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。
17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」
18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。
19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」
20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」”
本日は、「偽預言者バラム(2)」
としてこのテーマをさらに見ていきたいと思います。
テキストを順に見ます。
”10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。11
『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」
”
この日、モアブの王は、「エジプトから出て来た民..をのろってくれ。」とバラム に頼みました。
この時のイスラエル民族は実際にエジプトを出てきていたわけです。それは事実なのですが、この記述はそれのみで終わらず、このことはまた未来に関する預言でもあり、終末の日に真のイスラエル、
神につく民は出エジプトをします。
黙示録に記されている以下の記述は、その終末の出エジプトを暗示するものです。
”黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”
ですから、終末の日に出エジプトが再現し、それとともにこのバラク、バラムで予表される
真に神につく者達への偽預言者による呪いも再現すると想像できるのです。
「いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」
モアブの王バラクはこの預言者バラムがイスラエルの民を呪うことに非常にこだわり、
これを行えば、彼はこの民を追い出すことができると信じていました。
このことは暗示的です。何故なら、終末の日、真に神につく民が教会を追い出されるか、もしくはとどまれるかは、ひとえに教会の預言者こと、牧師、神父の判断にかかっているからです。
彼らがこぞって、意見を一致し、「こいつらは異端だ」といえば、彼らは追い出されます。
しかし、そうでないなら、彼らは教会内にとどまれるのです。
例をあげるなら、たとえば、ものみの塔やら、統一教会を考えましょう。
プロテスタントの牧師は、こぞって彼らを異端と定めています。結果、これらの教会は、
プロテスタントに入ることもとどまることもできず、逆に異端と目されています。
このプロテスタントの牧師の判断はもちろん正しいのですが、しかし、この正しいはずの目が
曇らされる日が来ます。それは、 偽預言者バラムにより予表される日のことであり、
その日、教会の牧師、神父は、利得のために意見を変え、異端ならぬ人々を異端呼ばわりし、
呪うようになります。
彼ら牧師、神父が真に神につく人々を悪くいい、呪い、非難するため、彼らは教会を追い出される様になります。このことがすなわち、「この民をのろってくれ。そうしたら、追い出すことができよう。」
とのバラクのことばの意味合いです。
”
12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」
13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」
14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」”
神はその民を呪ってはいけないといわれました。そして
バラムはその声を始めは聞いたのです。そして、始めはバラクの声に同調しませんでした。
同じく終末の日にも始めは牧師も神父も彼らを呪えと言う声に耳を傾けることはないでしょう。
しかし、彼らはいずれ変わり、意見を変え、変質していきます。
”14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」
15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。
16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。
17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」”
さて、この様に一度はバラムに断わられたバラクですが、しかしあきらめようとせず、
さらに魅力的なオッフアーをもって預言者バラムをいざないます。
同じ様に終末の日、預言者ならぬ教会の教師である牧師、神父は、いざないの中に入ります。
その日彼らの真の心がためされます。
「大ぜいの、しかも位の高いつかさたち」とのことばも暗示的です。おおぜいの信者が与えられる、また教団内で偉い地位につけるとの利得が提示されるのでしょう。
”18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。
19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」”
このバラクの度々の申し出は無駄に終わった様で実際はそうではありません。
預言者バラムのいうことが微妙に変わってきました。
彼は、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても..」とたてまえは正しいことを
いいながら、その実、「主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」と
変節したことを語っています。
すでに神のことばはあり、それはNO.ということばだったのですが、
さらに何か他のことばないかと彼はバラクのいう利得に引かれていっているのです。
同じことは終末にも起きるでしょう。
終末の日にも変わることのない神のことばがはっきりと厳命していることを前に「何か他のことばがないか」さがす奇特な人々があらわれるでしょう。
そして、これらのまめで研究熱心でというより、利得に目がくらんだ亡者共はいずれ
変わることのない聖書の中に「原理主義者、頑固に聖書のことばを守る人々を呪うことは聖書的」「彼らは異端である」という根拠になるみことばを不思議にも見つけるようになるのでしょう。
”20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」”
この日、不思議にも神はバラムに対して、バラクのつかさ達と行けと語られました。
そしてバラムは出かけたのですが、しかし、このことは彼バラムを困難に入らせました。
このことは次に見ましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー