NO.531 貧しい者は幸い(1)


テキスト:”ルカ6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
 

本日は、
「貧しい者は幸い」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。
 

”20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。”

かつての日、主イエスの語られた「幸いなるかな..」とのこの箇所は、有名な祝福の箇所です。
さて、この箇所、貧しい者は幸いとの箇所は、しかし、終末における反対のことば、
「金持ち」に関する理解をもとに考えるとまた別の意味合いを語っているように思えます。
このことを見ていきたいと思うのです。
 

「弟子たちを見つめながら、話しだされた」

この「幸いなるかな..」との箇所を始める時、主の目は弟子の
上に注がれていました。この表現は、聖書独特のさりげない表現ですが、この貧しい者、金持ちが特殊な意味合いをあらわし出すのは、終末なのですが、
その日、みこころがあるクリスチャンは弟子なのだということを知ってください。
終末の日にみこころのあるクリスチャンの歩みは弟子の歩みです。
その様なことを語る聖書の箇所はいくつもあります。

岩の上、砂の上に家を建てるという箇所もそうです。岩の上に建てた家は
洪水にも、風にもゆらがなかったのですが、岩は、筆頭弟子、ペテロ、小石、岩に通じます。
 
 

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」

さて、ここでは、神の国は貧しい者のものであることが書かれています。
この世のことはいざ知らず、いざ神の国において意味のある人、尊重される人、
神のみこころにかなった人は、実は貧しい人である、その様に、理解すべきなのでしょう。

さて、貧しいといっても少しばくぜんとしたことばなのですが、
その意味合いを理解しようとする時、逆に反対のことばを考えると理解しやすいものです。
貧しいということばの反対のことばは、「金持ち」です。

そして私達は金持ちということばを今迄何度も見てきました。
金持ちとはラオデキヤの教会の記事にょれば、豊かになった乏しいものは何もないと
勘違いしながら、怪しい霊のたまものに惑わされる人々のことであり、
またヤコブ書では、(たまものに富み)貧しい人を殺す人々です。、
これらの金持ちを正しく理解するなら、ここでいわれている貧しいということばも
正しく理解できる、そのことを覚えてください。

世の中でもお金に目がくらみ、金持ちになることを
めざしたがために、道を曲げたり、人倫にもとったり、はたまた、
犯罪に手をそめるなどはうおおうにして起こり得ることです。

金色夜叉の物語では、ダイヤモンドに目がくらみ、お宮が貫一を裏切ります。
富や金が人の心を惑わすのです。
その例にもれず、金に目がくらんだり、富にばかり心がいくと
あるべきところから、外れたり、動かされたりしやすいものなのです。

さて、このことは信仰の世界においても全く同じなのだということを知らなければなりません。
信仰の世界における富や金持ちになることが
クリスチャンを誘惑し、惑わし、本来の歩みを曲げるのです。

誘惑と書きましたが、終末の日のクリスチャンは、誘惑に会うことが聖書には書かれています。

以下の通りです。

”黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練(誘惑)の時には、あなたを守ろう。”

この誘惑がどの様なものなのかは、今の誰も正確にはわからないのですが、
私の想像では、創世記における最初の誘惑、エデンの園の
「見るによく、食べるによく、賢くなるにふさわしい」との誘惑が繰り返されるのではないかと
思われます。
エデンの園におけるエバの失敗とは、要するに欲に引かれて神のことばを捨て去り、道を曲げたことなのです。

同じように終末の日の誘惑された女、教会も欲に引かれ、神のことばを捨て去り、
教理も正しい道も真理も捨て去るのです。

そして、七つ目、最後の教会、終末の教会、ラオデキヤへのことば、
「富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」とのことばと合わせて考える時、
この誘惑は、富への、欲に対する誘惑、リッチな信仰者となることの欲への誘惑と、理解できるのです。

絶対そうだ!とは、さすがに断言できませんが、大いに可能性があるように思えるのですが、どうでしょう。

さて、だいぶ、前置きが長かったようですが、ここまで金持ち、富、欲、誘惑ということを理解する時、
始めてここでのことば、「貧しい者は幸いです」とのことばが理解できるように思えます。
貧しいとは、明らかに富むということばの反対語であり、
要するに
「欲にひかれなかった者は幸い」
「富への惑わし、りっちなたまものに富むクリスチャンとの
誘惑に惑わされ、道を曲げたりしなかった者は幸い」
「富に惑わされず、それらの欲にひかれたり、また
リッチな、評判の良いクリスチャンになるとの誘惑に引かれず、それらの欲に従うよりは、
たとえ貧しく、何らのたまものがあらわれなくとも、堅くみことばの真理に立つものはさいわい」

そのようなことを語っているのです。
貧しいという一語を通して、富への惑わしに入らなかったもの、欲に引かれるよりは、
堅くキリストのことばの真理に立ち続けた者、欲に引かれてみことばを売り渡さなかった者、
その様な人々について語っているのです。
 

「神の国はあなたがたのものですから。」

この様な貧しい人、富の惑わしの中で、みことばなる方を裏切らなかった者こそ、
真に神の国を受け継ぎ、それを継承します。逆に富や、金持ちになる欲にひかれ、
たまものの欲に引かれ、みことばを売り渡したり、曲げたりする人々はこれを
受け継ぎません。
 
 

”21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。”

「いま飢えている者は幸いです。」という時、当然その人は食べるものがない、
そのため飢えていることが想像されます。しかし、何故飢えるのか?
食料危機になったのか、はたまた貧乏で、食べるものがないのか?
もちろん、そんな場合もあるのでしょうが、しかし、たとえの意味合いもあると思われます。

たとえでいう飢えるとは、食べることすなわち、みことばのパンに関係したことばです。
パンがない、食べるべきパンがないということと関係しているのです。
もっと具体的にいうと教会へ行ってもキリスト教書店に行って本を見ても、
ろくでもないパン、教理しか亡いので、食べるものがない、結果飢えてしまう人のことをいっているのです。

このことを理解するため、例として、世の中のことを考えてみましょう。
今は飽食の時代といわれますが、ある種の人々にとっては食べるものがない、結果、飢えかねない時代です。牛丼屋に入っても狂牛病がこわくて、食べられません。定食屋にはいっても農薬やら、添加物が不安で食べられません。
ジュースを飲もうとしても添加物やら、着色剤がこわくて飲めません。
普通の人はそんなことを気にせず食べて、結果ガンが急増しているのですが、
深く考える人には、今は気楽に何でも食べられるという時代ではないのです。

キリスト教の世界も実はもう世の中と同じなのです。
添加物、農薬ならぬ、おかしな教理やら、不信仰な教理やらがてんこもりなのですが、皆、
鈍感なのか、気にせず食べている、結果、おかしな不健康な信仰者が急増という状況なのです。
その様な時、我々はどう対応すべきなのか?
神経質にならず
何でもパクパク食べるべきなのか?感謝していただくべきなのか?
「いま飢えている者は幸いです。」とのことばがその答えです。
この様な時代に気にせず、何でも食べて、不信仰になったり、信仰を崩されたり、
病気のクリスチャンになることにはみこころがありません。
逆にそれらの明白な毒教理をさけ、身をきよく保ち、たとえ飢えてもそれらの
冒涜教理とは一線を画す人にみこころがあるのです。そして、
それらの忠実な人々を
さし、「いま飢えている者は幸いです。」といわれているのだということを知るべきです。

 「いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。」

これらの飢えている人々に対して、「やがて飽くことができますから。」との
約束が語られています。具体的にいうと、毒パン、毒教理に妥協せず、受け入れることを
拒んでいた忠実な人々に対して、いずれ、良質なパン、安心して食べられるパン、教理が与えられるとの約束がここで語られているのです。

ですから、終末とは、一面毒パン、毒教理が満ちる時代ですが、しかし、それだけでなく、いずれは良いパンが満ち、良い教理があらわれて来る時代なのだということをも知ってください。
私達の目が開かれるなら、このことを多くの聖書の箇所が預言していることを見るでしょう。

いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。”

泣くのは、悲しいからであり、このことは一般的にあまり好まれることではないのですが、
しかし、終末の時代においては、泣くものが幸いであることが書かれています。
終末の時代は、多くのことが逆転する時代であり、結果、主につく人々にとっては、泣いたり、
嘆く日となることが予想されます。
多くの教理が曲げられ、クリスチャンが背教の道を歩みだし、また堅く主とそのみことばに
立とうと志す人々に対して、バイバルカルトだの、原理主義者だの、あらゆるわざとらしい、
非難が浴びせられます。

終末とは、背教者、変節者には楽しい暮らしやすい時代、しかし、堅く主のみことばに
立つ人々には、嘆きや悲しみのある時代なのです。
その様な時代においては、「いま泣いている者は幸い」なのです。

この泣くということばは、かつてエゼキエルに語られた以下の「嘆き、悲しむ」というこばを
連想させます。

”エザキエル9:4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。

かつての日、エルサレムにおいて「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」は幸いでした。彼らには額にしるしがつき、裁きを免れたからです。

同じ意味合いで、この終末の日、泣く人、嘆く人は幸いなのです。彼らは裁きを免れ、
笑うようになるからです。

本日はこのあたりまでにします。

「貧しい者は幸い(2)」として続きます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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