NO. 527 主の選ぶ杖


”テキスト:民数記17:1 主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。
3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。
4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。
5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。
7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。
8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。
9 モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。
10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。
12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。
13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」”

本日は、主の選ぶ杖という題でメッセージをします。
民数記の記述からこのことを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”1 主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。”

この箇所では、イスラエル12部族から一本ずつ杖を出し、その中から主が一本の杖を選ぶということです。このことの意味あいは何でしょうか?それを考えてみたいと思うのです。

神のことばすなわち、旧約聖書のことばも新約聖書のことばもどちらも、ちよっと見は、
ただ無造作に書かれたように思えます。
しかし、これは唯一神が書かれた書だといわれているので、その
中にかくされたこと、暗示されていることをできる限り読み取っていきたいと思うのです。

さて、この箇所では、明らかに杖を選ぶということに神がこだわっておられることがわかります。
何故杖なのか?剣ではないのか、車ではないのか?
杖の意味あいは何でしょうか?以前見たように杖の意味あい、たとえの意味あいは、
人の(信仰の)歩みを助けるものとして、教師、指導者という意味あいがあるように思えます。
もしそうなら、この箇所でいわれているのは、神がどの様な教師を選ぶのか、
神が選ぶ教師の資格、特徴、それは何かということがらに思えます。

一つ言えること、はっきりしなければならないことは、この12部族の中から主はひとつの部族、
一つの杖を選んだということなのです。12本の杖がありましたが、しかし、全ての杖が
神に選ばれたわけではなく、逆に一本の杖のみが選ばれました。
明らかにこの箇所がいうことは、人の側には、どれ程多くの杖、すなわち、自称、多称の教師がいたとしても、それは人の推薦に過ぎず、神に選ばれなければ意味のないことを示します。

12本の杖、全てが尊いのではなく、主の選ばれたたった一本の杖のみが実を結び、それが尊いのです。
このことを理解し、尊重しなければなりません。

旧約のイスラエル12部族はそのまま新約のイスラエルである教会の型です。
教会においても厳然として、主が選ぶ一つの部族、杖があることがわかるのです。

今はどういう時代か?あらゆる部族から杖が乱立し、あらゆる教師が
大きな声で、自分の主張をくり返す時代です。しかし、今の時代も方法、原則は
一つであり、主の選ぶ杖があるのです。

私達はその杖を見分け、その杖に注目しなければなりません。

”3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。”

レビ族の杖が最終的に選ばれます。レビの意味あいは「くっつく」という意味であり、
主にくっついて寝食をともにした12弟子の様に、弟子の歩みをし、祈りに励む人々と
理解できます。

アロンの意味あいは、「光を持ってくる」という意味です。
まさに教師の役割を明確に語るものです。多くのクリスチャンの問題は何か?
それは、光がないことです。みことばは、聖書はあるにしてもどの箇所が
自分に適切なのか、光がないのです。また自分が歩むべき方向がわからない、光がないため、
道筋が見えないということです。
それに対して、アロンは光を持ってくる者であり、彼をとおして、何が正しいのか
わかります。

その様なわけで、主はあきらかに教会の中にこの種の人々を置くことを意図していることが理解できるのです。しかし、そうでは、あっても新約聖書では、先生と呼ばれてはいけない、すなわち、
真の教師はキリストであることも書かれています。


4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。”

杖は「あかしの箱の前に置」かれます。同じく教師も人々の前に「あかし」すべく
立たされていることを知るべきです。単に知識の切り売り、はたまた、語学の博識を
人前で誇るために杖、教師は神に任じられているわけではないのです。
彼等のなすべきこと、大きな任務は神がどの様な方か、聖書のことばを行うとどうなり、
何が起きるか、起きないか、それらを身をもって「あかし」すべく立たされているのです。

5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」”
 

神がえらぶ杖は芽を出すことが書かれています。
ということは、神が選ばない杖は芽を出さないわけです。
結果が選びをあらわすわけです。
そんなわけで、私達が教師、杖として歩もうと志す時、それは、
良い志ではありますが、しかし、芽が出ないなら、それは残念ながら、神により選ばれていないということになります。


6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。
7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。
8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。”

神が選んだアロンの杖は、「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んで」いました。
実を結んだのです。ですから、
このアロンの杖に関しては、こういえます。

1.以前はただの杖であり、「芽もなく、つぼみなく、花なく、実がなかった」けれど、
2. 神の選びにより、「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結ん」だのです。

しかし、それ以外の神のえらばなかった杖に関しては、
1. 以前は命もない実もないただの杖であり、
2. それ以降も何らの実もないただの杖であった

そういうことです。

それで、私達はこの原則をもって、現代の杖、教師を吟味できます。

すなわち、何らの実、御霊の実を結んでいない杖は神の選びが怪しいということを知るべきなのです。

1. 以前は肉や罪の実を結ぶろくでもない者だったが、
2. しかし今は御霊の実を豊かに結んでいる

これは神の選びの杖でしょう。
しかし、

1.以前は単なる人間の努力であり、
2. 今も同じことをしている、御霊の実は結んでいない

これは、選ばれていない杖なのです。

蛇足ながら、御霊の実とは、ガラテヤ書に書かれている
「愛、喜び、平和、寛容..」です。
その反対の肉の実は、以下の通りです。

”ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

肉の実を結ぶ者は、「神の国を相続することはありません。」とのことです。
肉の実、「不品行、汚れ、好色」なんかにとらわれている人々は、
天国が絶対確実に危ないわけです。

ですから、大いに性的スキャンダルを起こしている、某カトリック教会神父達、
某ヘンテコ、カリスマ系教会、某悪霊リバイバル系の教会なんかは大変危ないわけです。
この場合、人を教えている場合ではありません。自分の身が危ない、自分の天国が危ないわけですから。
 

”10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。”

神である主は、「アロンの杖をあかしの箱の前に戻し」、「逆らう者どもへの戒めのため、しるし」とするよう命じました。

何を逆らったのか?彼等は、一体誰が、神の選んだ杖なのか、誰が杖として立つべきかということで
争い、逆らったのです。
彼等の主張は、モーセ、アロンは自分勝手に立っている、そこには、何らの信仰的、
聖書的根拠はない、そもそも神は彼等を選んではいない、そういった類の主張だったのです。
これは、今の教会でも起きます。往々にしておこることなのです。

教会内の権力争いみたいなものです。役員派と牧師側が対立、
信徒と牧会者の意見が対立、はたまた、牧師と副牧師が対立など往々にしておこることなのです。

それに関して神は上記の様な答えを出しました。我々はよくよく、これらの
ことがらを心に止めるべきです。

何故なら、神が立てた杖に逆らうことは神御自身に逆らうことになり、
神自らの裁きを招いてしまうからです。

死の裁きを自らの身に招くことのないため、これらの教訓を心にとめるべきです。

決してこれからはイスラエルの中でこのことで逆らい、死の罰を受けることのないために、
アロンの杖はあかし、戒めとして、置かれ、全ての人に戒めを与えているのです。
そして、それは、旧約のイスラエルのためのみでなく、新約のイスラエル、教会の民のためにも
与えられているのです。

私達もこのアロンの杖を見、このことで分をこえないことを学ぶべきなのです。

そして、このことで神と争い、みこころにもない教会の権力闘争なんかに人間的な力を傾けている人々は、いずれ、ここに書かれている、「彼らが死ぬことのないように」とのみことばが
自分の身の上に厳かに成就することを知り、恐れるべきです。
神のことばは侮るべきでなく、そのように書かれているなら、いずれその様に成就するでしょう。

役員会が教会を牛耳り、信徒の多数決が教会の方針を決めているように
人の目には見えても、そうであってもなおかつ神のことばが
厳粛に成就することをこれらの人々は見るようになるでしょう。

教会の歴史において、
多くの人が神の立てられた権威に逆らい、すでに自らの信仰も永遠の命をも
失っていきました。このことは再度今、目の前で繰り返されるでしょう。
 

”12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。
13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」”

この様に厳かな神のことばを語ったモーセに対して、民衆の反応は、不平と不満だけでした。
残念ながら、民衆、大衆、会衆は、大体こんなものだということを知りましょう。
どんなことに対しても不満があるわけです。

まとめますが、神は明らかにこの箇所では、一つの会衆の集まりの中で、主に選ばれた器が
杖となることを語りました。杖は教師のたとえであり、一つの会衆の中に、神の選びの杖が立たされるのです。神の選びの杖の特徴は、芽を出し、実をだす、すなわち、復活の命を持ち、復活を経験しているということでしょうか。

神に選ばれた杖にこの特徴がありながら、しかし人々がその杖に人間的な動機や考えで、逆らい、
反抗していくことは、死をもって罰せられていると語られていることをもとらえましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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