NO.525大群集

テキスト:

”黙示録7:
9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”
 

本日は大群集としてメッセージしたいと思います。
上記黙示録の箇所には、白い衣を着た大群集が描かれています。
この人々はどんな人々なのかを見ていきたいと思うのです。

”9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。”
 

この人々はどんな人々なのでしょうか?
この箇所で理解できるのは、これらの人々が白い衣を着ていることです。
白い衣は明らかに義をあらわします。
黒は汚れや罪があることをあらわし、それらがない白い衣は義の衣をさします。
これらの人々は、終末の日、背教や、不道徳が行き渡った時代に
堅く義に立つ人々です。

これらの人々を特定するもうひとつのことばは「しゅろの枝」ということばです。
しゅろは仮庵の祭りと関係があります。

以下の箇所の仮庵の祭りの記述にも「しゅろ」ということばが使われています。
日本の新改訳には出てきませんが、KJVでは出てきます。どうしてそうなるのか?
残念ながら、しかし
くり返していいますが、最近の聖書の訳は油断もすきもないことを覚えましょう。
怪し気な店で買い物をすると、つり銭をだまされたり、インチキな品物を売り付けられたりします。
きょう日の聖書翻訳も同じ様なものだということを知るべきです。最新の文献学の成果が盛り込まれた
聖書なんて、ヨタ話を本気にしてろくでもない訳を高い金を払って買い、あげくの果て、信仰を失う愚か者になってはいけません。
 
 
 
 
 
 


レビ23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。
(KJV:Le 23:40 And ye shall take you on the first day the boughs of goodly trees, branches of palm trees
(しゅろの木の枝), and the boughs of thick trees, and willows of the brook; and ye shall rejoice before the LORD your God seven days.)

41 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。
42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。
43 これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」
44 こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。
 

レビ記の箇所にはしゅろの枝が仮庵の祭とともに記されています。
従って、黙示録のしゅろの枝の大群集が実は仮庵の祭りと関係があることも想像できるのです。

かつての日、モーセの時代、出エジプトした民は仮庵に住みました。
この出エジプト、また仮庵の祭りはどちらも預言的なできごとであり、その最終的な
成就は終わりの日になされると理解できます。
この黙示録の箇所こそ、まさに終末の日に出エジプトが行われ、大群集が仮庵の祭りを行っている、
その成就を記した箇所なのです。

出エジプト、また仮庵の祭りの意味あいは?
出エジプトは、エジプトを出ることであり、終末の日にソドム、エジプト化した教会、
すなわち、黙示録11章で「ソドムやエジプトといわれる都」と呼ばれている、終末の
背教教会から出ていくことを語っています。
そうです、かつての日、神の民がエジプトから出ていくことにみこころがあったように、終末の日には、
エジプト化した教会から出ていくことにみこころがあります。

尚、蛇足ながら、黙示録11章の「ソドム やエジプトと呼ばれる都」を「エルサレムのことだ」
などと解釈するガセネタが流通していますが、あほたれにならずよく聖書を読まなければなりません。
黙示録11:8には、「ソドムやエジプトと呼ばれる(大きな)都」と書かれています。現実の
イスラエル国の首都、
エルサレムはちっぽけな都であり、2ー3時間で行き巡ることができます。
この「大きな都」とのみことばと全く矛盾します。
ろくに聖書も読まずすぐガセネタにひっかかる愚か者になってはいけません。

出エジプトと仮庵はセットになっています。すなわち、「背教の教会を出て」(出エジプト)、
「地下教会を作る」(仮庵の祭り)のです。

”10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」”
 

これらの大群集は明らかにもう地上にはいない人々です。彼等は神の御座の前にいます。
すなわち、殉教者なのでしょう。ですから、私達は、知るべきです。
正しい人、またエジプト化した教会を離れ、地下教会に潜った人々が殺され、殉教する
日、これが黙示録の時代であり、終末の時代なのです。
そして、その迫害、殺害は他でもない彼等の兄弟である、仲間のクリスチャンから来るのです。
 


13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。”
 

彼等は大艱難から、抜け出てきた人々です。彼等は艱難を経験し、その中にいた、
そしてそこから出てきた人々です。いわゆる「艱難前に携挙」された人々ではありません。

「大きな患難から抜け出て来た者たち」とのことばの「(患難)から」とのことばの
原語は、exであり、exodus,エクソダス、出エジプト、「(エジプト)から出る」と同じことばが使われています。出エジプトをした民はもともとエジプトの中に長年住み、そこで困難に会い、そこから
出てきました。彼等はエジプトの困難、艱難を経験しなかったわけではないのです。
同じ意味あいで、この白い衣の大群集も大艱難から出てくるといってもその艱難を全く経験しないわけではないのです。ですから、艱難の前に教会は挙げられるとする「艱難前携挙説」はこの箇所とも矛盾します。

「大きな患難」

世の終わりには大きな艱難があるとは聖書が明確に語ることですが、
私達はその艱難に関してどう考えるべきなのでしょうか?

艱難時代なんてない、黙示録はローマ時代の事をいっているのだなんて
わけのわからない人々に関しては論外です。話にもならないので、相手にする
気にもなりません。コメントなし。

環境のこと、エコのことばっかりやけに強調して、終末論は、
地球の終わりについて語っている、反環境的神学だなどとどっかの偽ユダヤ発の「意図的な
主張」を愚かにもうのみにしている、神学者だか、環境学者だかわからない
人々も相手にするに足らない、論議以前なので、コメントなしです。

大きな艱難があるというので、何とかそれを逃げたい、わらをもつかみたいということで、
「キリストが2回にわたって再臨する」という非聖書的、何らの聖書的根拠のない、
「2段階携挙説」を受け入れてしまった人々もいますが、残念ながら、この人々は終末のふるいにかけられ、ためしに合格できなかった人々です。
彼等はみことばの真実を受け入れるよりは、嘘や、作られた空想話を受け入れることにした人々です。

ところでというか、一体何故神はその様な日、艱難の日を終末に許しているのでしょうか?
神はいじわるなのか、はたまたきまぐれなのか?

私の今の理解では、神はその日、真にみことばに立つもの、神をまこととする者とそうでない者とを区分しようとしているのはでないかと思われます。

このことの例はあの日、主イエスの3年半の公生涯、またその日の間、主について歩んだ
弟子達のことを思い出すと理解できると思われます。
かつての3年半の間も主とその弟子達は神のみことばの真実に立ったため、偽りや、
偽善、曲がった教理を受け入れていた、パリサイ人、律法学者と衝突し、迫害され、
命まで狙われました。
弟子達はみな、逮捕の危機にあり、主イエスは逮捕、裁判を経て、命を失いました。
すなわち、殉教したのです。

主イエスの時のこの3年半の苦難は、人間的には望ましいものではありませんが、
しかし、本物と偽物とを区分する手段として用いられたのです。
この3年半の苦難をとおして、残るべき者、すなわち、12弟子を始めとして、
堅く主につく石、岩の様な人々は選ばれ、選別され、残されたのです。
逆に建て前はともかく、神のことばのために苦難に会う気などさらさらない人、
そんな意志のない人々は篩にかけられ、消えていき、離れていってしまったのです。
主の時の3年半の苦難は、その様に用いられ、人々を選別するために用いられたのです。

同じ区分、ふるいの日が終末の3年半で起きると想像できます。その大艱難の日、
苦難の日は、本物の弟子、残るべき人を残し、そうでない人々をよりわけてしまうために
用いられるでしょう。

”15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。”

「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく」という時、食べるもの、飲むものがないということが想像されます。これは、文字どおりの食べ物、飲み物の意味あいがあるかもしれませんが、
しかし、聖書において、食べる、飲むとは特別な意味あいがあることを知りましょう。

すなわち、パンであるみことばの教理が食べられないものばかりになる、
まともな教理がないので、食べることに苦労するという意味あいがあるでしょう。
同じく「渇くこともなく」とは、飲み物、水、ぶどう酒に関することばであり、
悪霊の水ばかりで苦労するというニュアンスがあると思われます。

「太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」

太陽は以前見たように、星、アブラハムの子孫である、クリスチャンと関係することば、
具体的には、大きな器のことです。終末の日には、教会の器が災いとなり、
人々を強制し、圧迫し、どう喝するのに用いられます。今もうすでにその兆候は見え始めており、
偽予言者、ピーターワグナーや悪霊男ベニーヒンなどが強硬に使徒だ預言者だと、
地位を求めつつあります。

いずれ彼等は堕落した教会において教皇みたいな地位を占めるようになるでしょう。
そして、彼等の命令が背教の教会のすみずみまで、行き渡るようになるのです。
その支配下で主につく人々は、苦難を受けます。それが、
ここで書かれた彼等を打つ「太陽による炎熱」の意味あいです。


17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”
 

涙と書かれていますが、涙がある以上、終末には、主につく人には困難があることを知るべきです。

まとめますが、明らかに聖書は終末の日、みことばに堅く立つ人には困難があることを語ります。その供えはやはり必要であることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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