NO.524金持ちとラザロ


”テキスト:ルカ16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”

本日は、「金持ちとラザロ」という題でメッセージをしたいと思います。
金持ちとラザロとはどういう話かというと、聖書を読む人なら誰でも知っている話です。

誰でも知っている話の様に見えるのですが、しかし、今まで見てきたように
聖書のいう金持ちとか貧乏人ということばには一種別の意味合い、隠された意味合いがあります。
このことを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。”

この例話の中には金持ちが登場します。彼は後の日に大きな苦難に会います。
彼はハデスで炎の中で苦しむわけです。
このことは悲惨であり恐ろしいことです。私たちはこのことから、教訓を受け、
何とかこの様な運命に会わないように願うわけです。

さて、教訓を受けるに際してわかることは、この金持ちの具体的な問題、罪、
足りないことはこの例話からだけでは理解できないことです。
金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」ので、これはよくないでしょうが、
しかし、ぜいたく、遊ぶということばもあいまいであり、何が彼の決定的な
問題なのか、今ひとつはっきりしないのです。

しかし、かねてから書いているように聖書は、私的解釈しない、すなわち、
該当のテキストのみから判断しないことが解釈の鉄則です。
この例話の金持ちの問題点を理解するためには、聖書の他の箇所に書かれている
金持ちに関する記述を参照しなければ正しい理解には至らないと思えます。

他の金持ちに関する記述といえば、何といっても以下のラオデキヤ教会、金持ち教会の記述です。

”黙示録3:
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

もしかするとこの金持ちに関する例話はラオデキヤ教会、金持ち教会と
関係があるのかもしれません。このことを視野においた上で見ていきたいと思います。


20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、”

さてこの例話にはもう一人の対照的な登場人物がいます。
それは貧乏人ラザロです。
この2人はあきらかに対照的、対比的に書かれています。

一体このラザロを通して語っていることは何でしょうか?
このことを考える時、先程のラオデキヤがヒントになるかもしれません。
ラオデキヤ教会のことを振り返るとき、このラオデキヤと対照的な
教会が存在することをかつて我々は見ました。

それは、
フイラデルフイアであり、この教会は、金持ち教会、すなわちたまものに満ち、富みしかし、
みことばを投げ捨てたラオデキヤ教会とは対象的であり、したがって、こちらは貧乏教会です。
もちろん人前でのことを私は語っているのです。
金持ちと貧乏人ラザロとの対比は実は、
終末の2つの教会、富めるラオデキヤ、それと反対のフイラデルフイアとの対比と
関係があるのかもしれません。
絶対そうだとはさすがにいいきれませんが、とりあえずその可能性は
考えておきましょう。

さらにラザロという名前で思い出すのは、マリヤ、マルタの兄弟、復活した兄弟の名前が
ラザロであることです。この貧乏人ラザロももしかすると復活に関係があるのかもしれません。

黙示録には、終末の日に復活があることが書かれています。
以下の通りです。

”黙示録11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

ここに書かれた2人の預言者、彼らもラザロの様にこの世では報われなかったのですが、しかし、
復活の恵みに与りました。ラザロと似ています。

”21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。”

金持ちは大いに富んでおり、逆にラザロは食べるものにことかき、
苦労していたのです。
この食べ物にあきる金持ちの姿は確かに「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」というラオデキヤのことばをほうふつさせます。

ところで素朴な疑問として、ラオデキヤは富み、金持ちなのに、何故フイラデルフイアは貧乏なのかという質問があります。フイラデルフイアは怠惰なのか?さぼっていたのか?

その理由を考える為には、終末の時代、世界中の教会があらゆる獣的な教理、獣的な霊で席巻されるという
ことを理解しなければなりません。
その時代を預言して黙示録は以下の様に書いています。

”黙示録13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”

世界中のキリスト教会においては、獣のしるしを受け、その名を持つもの以外、だれも
メッセージも本の出版もできなくなるのです。

結果、獣の食べ物、パン、教理、霊、水を喜んで受ける人は、大いに富み、不思議と奇跡を行い、
たまものに富み、有名、有力になります。金持ちになるのです。
反対に獣の食べ物、パン、教理、霊、水を受けない人は何も食べるものがなく、飢えるようになるのです。
貧乏になるのです。

貧乏人ラザロ、金持ちの食卓から落ちるもので飢えを満たしたいと願ったラザロの姿は、
おかしな教理、おかしな霊を受けず、結果、獣化したキリスト教会で何一つまともに食べるものを
与えられなくなったみことばに忠実なクリスチャンの姿をさすのです。

金持ちとは終末の時代、獣化したキリスト教会において我が世の春を祝い、
大いに獣の教理を食べ飽き、悪霊の水に飽き、獣の霊によるたまものに満ちた
うれしい楽しいクリスチャンをさすのかもしれないのです。

逆に「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思」う
貧乏人ラザロとは獣化したキリスト教会において何も食べるものはなく、逆に犬、異邦人からも
カルト扱いされ、悪く言われるそんなクリスチャンの姿と思えます。

彼が飢えるのは、決して獣化した食物を受けなかったからなのです。
その意味でラザロは最後まで主に忠実である人々をあらわし、何でもかんでも
食べる節操のない金持ちとは違います。
 
 

”22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。”

さて、この2人の死んだ後のことが書かれています。
何故、この二人の死後のことが描かれているのでしょうか?
その理由はこの2人のうち、どっちが得か損かを考える時、死後のことまで考えないと、
正しく判断できないからなのです。

どんなものごともそのゴールまで考慮しないと正しい判断、トータル的判断はできません。
たとえば、「ウサギと亀」の話で、そのスタートのことだけ見れば、絶対、ウサギが有利であり、
勝者です。でも最後のあたりを見ると、ウサギがひと休みして寝ている間に亀がゴールする、
最後の勝利者は亀であることがわかるのです。
前半だけ見て、ウサギが勝ったと思う人は間違いなのです。

さて、今さらながらの質問ですが、クリスチャンの勝利、勝ち負けはどの時点を見て判断すべきなのでしょうか?

この世でたまものに満ちていると賞賛され、たくさん信者が来て、大教会だとか、
その様な金持ちの前半部分だけでは、正しい判断はできません。
しかし、近視眼的なクリスチャンはその様な見えるところだけに注目しがちではありますが。
ここでは、後半部分、もしくは最終ゴールにおける状態が大事なのです。
これらの2者、金持ち、ラザロの後半の立場は逆転し、何と金持ちは、「ハデスで苦しんでいる」のです。
これは勝ちか負けか?全く負けており、最悪の結果です。

さて、この様に聖書において金持ち、ラザロの話の結末ははっきりしており、金持ちは
いずれ苦しむことになっているのです。
しかし、悲しいかな、この話から何らの教訓も学ばず、金持ち父さん、たまものおじさんを
めざすリッチ指向のクリスチャンは多いのです。

何故わざわざハデスのことが書いてあるのか?
それは、ものごとを今見えることのみで判断する
人々、またその様なクリスチャンが多いからなのです。クリスチャンは信仰によるなんて建て前はともかく、
何だかんだいっても皆結局は見えることのみに終始していくのでしょう。

キリスト教界全体でしるしと不思議のムーブメントが拍手喝采されるようになり、
それらの器が大いにもてはやされ、誰も彼もがたまもの指向になった時、
堅く聖書に立つのは難しいのです。

聖書の昔からの教理に立つラザロ系の人々が時代おくれ、また非科学的、さらに
原理主義者、異端者だとさえいわれ、ベルゼブル扱いされ、小数派に
なる時、誰でも見えるところをみやすいのです。

しかし、そのためにこそここに2人の結論、金持ちとラザロとの話の結末が既に描かれていることを知るべきなのです。

今、どれほど、金持ちクリスチャン、霊の戦いクリスチャンが脚光を帯びていてもその
結末は既に聖書に記されており、その結末とは、ハデスの苦しみなのだということを知るべきなのです。
 
 
 

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると」

ハデスやら地獄のことはあまり考えたくありませんが、しかし、実際にそこへ行ったらもっと
大変なので私達は転ばぬ先の杖ということで、前もってこのことを考えておくべきと思われます。
すくなくともこの箇所で、明らかに金持ちとハデスとが関係があることがわかるのです。
そう「富んでいる豊かになった」とうそぶく金持ち教会、ラオデキヤの末路、行く末とハデスの苦しみとは明らかに関係があるのです。
 

”24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』”
 

ここでは、金持ちの苦しみが炎であることが書かれています。炎の意味することは?
かねてからいっているように火や炎は霊と関係しており、この金持ちの罪、問題のもとは、
霊、悪霊のたまものを用いたことと関係があるのです。
悪霊リバイバル、トロント、ペンサコーラリバイバルは明らかにこの金持ちと関係があります。

「水に浸して私の舌を冷やすように」

水はこの金持ちの舌を冷やし、助けます。しかしそれは与えられません。何故か?
さっするにこの金持ちの罪は悪霊のリバイバルを受け入れたこと、そして水、聖霊を排除し、
あろうことかその聖霊の器を悪霊よばわり、ベルゼブル扱いしたことと思われます。

「舌を冷やすように」

舌はことば、みことばと関係します。察するにこの金持ちの罪はまた、みことばを行わず、不法を行ったこと、そのことにあると推察できます。

”25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”

金持ちは生きている間、良い物を受け、
ラザロは生きている間、悪いものをうけました。これは、
いわゆる艱難時代における2者の関係、状態をさします。

ここではいわゆる艱難時代における2者、すなわち、ラオデキヤ、金持ち教会と
フイラデルフイア、貧乏教会との対比が書かれていえるように思えます。

この2者は非常に対照的であり、わかりやすい経過をたどります。
以下の通りです。

<生きている間>
フイラデルフイア:悪いものを受ける
ラオデキヤ:良いものを受ける

<死んだ後>
フイラデルフイア:慰めを受ける
ラオデキヤ:苦しみもだえる

-----------------------

この2者に関しては間違えようのない程、はっきりした未来が預言されています。
我々は座り、じっくり考え正しく判断すべきなのです。
どちらを選ぶべきなのか、どちらが賢明なのかを。

私に関していわせてもらえるなら、考える迄もなく、フイラデルフイアの道、すなわち、
貧乏ラザロの道の方が正しいに決まっていますので、それを選びます。
しかし、それととともに、私はこのことをも知っています。すなわち、
この様にはっきりとみことばに示されていたとしても、しかし、なおかつ、金持ちの道、
見える富の道を選ぶ人の多い、そのことをも知っているのです。

今さらいうまでもないのですが、しかし再度いいます。
私達クリスチャンの成功、勝利、名声はこの今の世において決まるものではありません。
しかし、後の世において決まるものなのです。
今の世、後の世どちらにおいても勝利、名声、成功が得られればいいのですが、
そうもいかない、どちらか一つしか選べないものなのです。その時、
一体どちらを選ぶのか、その選択をはっきりと決めておくべきです。
そうでないと結局惑わされる人が多くなるからです。

聖書の標準、基準、選択ははっきりしており、この世ではなく、
後の世の名声を求めよと言うものです。

主イエス自身、「私の国はこの世のものではない」と明言されています。
主のこの世における最後は、名声もなく、逆に恥と非難と十字架で命を失うことでした。
パウロ、ペテロ、ヨハネもこの世においては、同じ様な扱いを受けました。
主イエス、パウロ、ペテロにつらなる線を歩もうと志す我々がこの世で
大成功、大名声、大発展で終わるはずがないのです。もしそうなら、
そんなことを望んでいる人は何か勘違いをしているのです。私達の
最後は、この世においては、貧乏人ラザロで終わるというスタイルが
望ましくはないが、しかし、聖書的には順当なところ、妥当な線なのでしょう。
 
 
 
 

「おまえは生きている間、良い物を受け」

金持ちの失敗、間違い、敗因は何だったのでしょう?
彼の失敗は、この世のこと、生きている間のことしか考えていない、考慮していない、
後の世を計算していなかったということです。
しかし、世の中の未信者はともかく、私達は見えるこの世のことでなく、目に見えない、
後の世を考慮すべきなのです。

しかし、そうではあってもこれから、近視眼的なクリスチャン、この世のことしか
見えないクリスチャンが増えて来るでしょう。

この世でたまものを受けること、この世で名声を得ること、聖書に忠実になるよりは、この世で
非難されないことを選ぶクリスチャンが増えてくるでしょう。
またエキュメニカルすなわち、この世的なことを選ぶクリスチャンが増えてくるでしょう。

"
26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』"
 

金持ちとラザロとの間には大きな淵があり、金持ちは決して、
向こうへ行くことはできませんでした。もう後悔は遅いのです。
そんなわけで、この様な日が待っているので、私達は今の世のことばかりでなく、後の世のことを考えるべきです。
何故なら、私達のこの世における時は少なく、後の世は長いからです。
ほんの短いこの世における月日の間に私達は行くべきところへいくよう備えなければならないのです。

普通の教会時代でもそうでしょうが、まして私達は多くの者がふるわれ、よりわけられ、
試みの中で振り落とされると明確に預言されている、終わりの時代に入りつつあるのです。
何はともあれ、備えは必要ではないでしょうか。

老後の備えもあり、土地もあり、家も貯金もあるかもしれませんが、さらに
大事な備え、後の日に備えるべきなのです。

ある人々は、もうこの世のテレビも見ず、音楽も聞かず、映画も見ず、しかし、
熱心に来るべき日に備えています。過ぎ去るべき世とは交わらなくなったのです。

極端な人々と思う人もいるかもしれませんが、今はもうその
様な時代なのかもしれません。
耳のある人は聞いてください。
 
 
 
 
 

”27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』”

ここで金持ちは自分の兄弟について語っています。
ここで注目すべきは、兄弟が5人であること、そしてここに書かれている
金持ち、ラザロを足すなら、合計7人の登場人物がいるということです。
7は教会の数であり、このことは教会に関するたとえと理解できます。

他にも以下の様に7の数がよく聖書に出てきますが、どれも教会をさす数と思われます。

”マタイの福音書 22:28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」”

”使徒の働き 19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。”

似たような例としてサマリヤの女の話があります。
彼女はかつて5人の夫があり、今一人の夫でない男と一緒におり、さらに
もう一人の男、イエスキリストに会って話しているわけです。ここにも7人の登場人物があります。

彼女、サマリヤで代表されるローマカソリックの人々が終わりの日に真の夫、イエスキリストに巡りあうことが予表されるのです。

ラザロの話に戻るなら、7人の登場人物のうち、7人目すなわち、最後の金持ちは
明らかに裁きと直結しています。これは前にも書いた最後の教会、富んでいる、豊かになったという
金持ち教会ラオデキヤの予表です。この教会は特別な教会であり、裁きと直結しているのです。
これはあたかも一週間7日の中で7番目の日、安息日だけは他の日と区別され、
冒涜や行いと関係しているのと似ています。

そして、金持ちと対照的な人物、ラザロは金持ち教会、ラオデキヤと同じ時代にあらわれるフイラデルフイアの予表です。
そして、金持ちにこんなところへ来るなと警告する5人の兄弟とは、
あとの残りの5つの教会のことでしょう。
 


29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』”

金持ちは残った5人の兄弟への警告として、ラザロが生き返って警告することをいいますが、
しかし、アブラハムの答えは、彼ら5人の兄弟は、「モーセと預言者」に聞くべきとの答えです。
これが聖書の標準です。モーセはみことば、聖書のことでしょうし、預言者はそのみことばに沿って
語る働き人のことでしょうか。
これらはどこの教会にも与えられており、彼らはこれに聞くべきなのです。
それ以上の特別な警告はどこにも与えられないのです。
 
 
 

”30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”
 

ここで金持ちは死人の中から、誰かが行けば、彼らは悔い改めるといいます。
金持ちは繰り返しますが、ラオデキヤの予表です。ですから、ラオデキヤの時、復活が起こるのかもしれません。黙示録の時、すなわち、ラオデキヤの時代に復活が起きることが聖書に記されています。
以下の通りです。

”黙示録11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

この日、明らかに復活があり、彼らの敵もそれを見るのですが、どうも悔い改めるようには
思えません。残念ながら、『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』とのことばが成就してしまうのでしょう。

繰り返しますが、ラザロは貧乏人の名前ですが、それはまた復活した人の名前でもあり、
フイラデルフイアの中で復活があることが想像できるのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d630d3320030 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream