NO.519 主よ主よという者


”マタイ7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”
 

本日は、「主よ主よという者」としてさらにこの件を
見ていきたいと思うのです。
 

上記、主よ主よといいながら、なおかつ「『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。」などと主にいわれてしまう人々のことははっきりいって、驚き、衝撃です。
「何でそんなことが起きるのか」と正直、読んでいて、恐怖を覚える箇所です。

福音の総合理解が必要、神は愛なので、決して我々をさばくことはない、なんてたわごと教理もありますが、そんなぬか喜び、嘘つき教理にだまされず、この箇所をまじめに考えてみたいと思うのです。
「福音の総合理解」というガセ教理は、「聖書の中には、個々に何か厳しいことを語っているように
見える箇所もあるが、しかし、我々クリスチャンは、”神は愛である”という絶対理解のもとに
福音を理解すべきであり、全体としての福音の光の下で個々のみことばを知るべきである」
なんてわかったようなわからないような、とぼけた言い方で明確に聖書に書かれた
神の裁き、神の民への裁きのことばを否定します。それは、決して裁かれることはないなんて、エデンの園の
蛇みたいな嘘を語る偽預言者の教えなのです。

ぬか喜び、嘘教理に「だまされてみたい人」は、その道を選べばよいでしょう。しかし、
堅く主のみことばに立つ人々は、この箇所の警告に目をとめるべきです。
テキストに沿って見ていきましょう。

20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。”

「実」は御霊の実に通じ、御霊の実は、愛、喜び、平和、善意というものです。
変な霊の戦いののりで、好戦的になり、反対者は削除せよと叫ぶ悪霊の第三の波系の
削除教理や、敵をののしる教理は、たしかに上記御霊の実は皆無です。
したがって、彼らは偽預言者系の人々です。
 

”21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』”
 

この箇所はまことに驚くべき箇所なのです。
キリストの名により、預言をし、悪霊を追い出し、その上、たくさん奇跡を行った人々でさえ、
キリストに知らないといわれ、不法をなすものどもと追い出されてしまうというのです。
それでは、「預言もできない、悪霊もなかなか出ていってくれない、その上、奇跡なんて
全く起こせない」私達は一体どうなるのか...という疑問が起きるのです。

高いハードルを超えた人さえ、危ないなら、低いハードルもよう超えない我々はもっと
悲惨なことになるのではないか...、不安を起こす箇所でもあるのです。

さてこの様な堂々回りをやめて少し違った観点からこの箇所を考えてみましょう。
上記、「<その日:that day>には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。」
この箇所ではあきらかにある特定の日、一つの日について語っていることがわかります。
一週間は7日(days)からなりますが、主はその中のある特定の日(that day)について語っているのです。
その特定の日、特定の一日とはいつのことでしょう?
私の想像ではそれは7日目、安息日についてのことではないかと思えます。
そして安息日は7つ目のミレニアム、今のミレニアムのたとえなのです。

もしそうなら、この箇所は、いわゆる普通の教会時代、一般的な教会時代のことではなく、
ある非常に特別な時代をいっていると考えられます。それは、主がわざわざ、その日(that day)と特定した特別な日なのだと考えるなら、
この箇所の意味合いも少しずつわかって来る気がします。

そうこの日は御霊のたまものをダシに、多くのクリスチャンがだまされる日、偽預言者の
しるしや不思議にだまされ、それをニンジンのえさみたいに追いかけて、
結果として、大事な教理や、聖書の真理を投げ捨て、変質し、みことばを行わなくなる
日に関する預言なのです。

子供をだますのに、お菓子やおもちゃを使います。
このチョコレートをあげるよなどと言われて、釣られてついていくと誘拐されたりするわけです。
おいしいチョコレートがわなになるわけです。
同じく、終末のクリスチャンをだますためのお菓子があり、それは御霊のたまもの、
カリスマ、預言、霊の戦い、悪霊追い出し、奇跡、いやし等のたまものです。

これらのたまものを受けることに一生懸命になり、目が集中すると、
他のことが見えなくなり、ただただ、ひたすら、ベニーヒンだのの「神の器」に
聞き従うことしか考えに入らなくなります。彼らは微妙に少しづつ、おかしな教理を
入れているのですが、何とかたまものを受けたいと血眼な人々は、そのことに気がつきません。
 

すでにおかしな器、怪しい器は群れをなし、パラダイムシフト、ニュースイング(new thing)、
再建主義、パーパスドリブンチャーチなど長い間保たれていた聖書信仰をくつがえすようなことを
提唱しているのですが、「たまものを大いに受けて」神のようになりたい人々はそれを理解しません。

かつて、すっかり「よいことを語る蛇」にだまされたエバにとり死をもたらす木の実が
「見るによく食べるによく賢くなるにふさわしく」見えたように、彼らにとっても
これらの曲がった教えはまったく正しく見えるのでしょう。

そうです、かつての日、サタン、蛇は用意周到に人間、アダム、エバをだますための
えさを用意し、しかけを行いました。彼の作戦、試みは成功し、もののみごとに
最初の人間、アダム、エバはだまされ、自ら、死をもたらす木の実を食べ、
神の戒めを破り、永遠の命の木から離されてしまったのです。
永遠の命を失ってしまったのです。

創世記に起きたことは、黙示録の日に起きることの予表であり、
終わりの日に多くの人々が、エデンの園と同じく偽りにだまされるでしょう。
そしてそれを描いたのが、この箇所であり、みごとに蛇にだまされ、
神のことばを破る人々が、ここで「『主よ、主よ」という人々なのです。
 

「預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」

彼らにとり、良いもの、ほめられるべきこと、人から感嘆されること、
それらがむしろわなとなり、彼らの信仰の変質を加速させ、また気がつきませんでした。

さかなを取る時、えさをわなとして使います。
魚の好きそうな、ミミズなりの虫を海に投げるわけです。これはうまそうだと
魚が食い付けば万事きゅうす、ミミズには針がしかけてあり、見事に魚はつり上げられてしまうのです。

終末の日にサタンにより、釣り上げられ、みごとにみことばの教えからずらされていく
愚かな魚、クリスチャンのために餌として、「聖霊のたまもの」が使われることを知りましょう。

実はえさは「聖霊のたまもの」だけではないのです。
「伝道」さえ、わなとなることを聖書は暗示しています。
以下の箇所がそれです。

”マタイ22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、”

畑とはみことばの種をまくところとしての教会のたとえです。
伝道がわなとなり、再臨の主に会えないという恐るべきことがここに暗示されているように思えます。
バーパスドリブンチャーチすなわち、人さえ集まれば、世的になるのもオッケーだというような
カンちがい教会のなれの果てがここに書かれた、「畑、商売に行くからと
神の招待を断わる」愚かなクリスチャンなのです。

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。」

ある特定の日、7つ目のミレニアムの日に何と「大ぜい」の者が
勘違いし、まちがえ、誤り、捉え違いをすることがここに書かれています。ボウフラの大量発生ならぬ、
大量の「勘違いクリスチャン」が発生するわけです。
 

「そんな」と思うかもしれませんが、その日は預言されており、
このことはー私達の目が開かれるならー多くのみことばが前もって語っています。
以下の箇所もその一部でしょう。
以下のラオデキヤ、7つ目の教会こそ、その7つ目のミレニアムにおける
勘違いクリスチャンにあふれた教会です。

「黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」

彼らのいう、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」とのことばは、
上記、「私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』」とのことばと符合しています。

というより、まさにこの教会のことを主は語られたのです。
富むとは聖霊のたまものに富む、(実際は悪霊)、豊かになった、乏しいものは何もないとのことばも
聖霊のたまものと関連していると理解できます。

彼らは自分ではまた他のクリスチャンにもすばらしい、「たまものに満ちたクリスチャン」と
見えるのでしょうが、肝心のキリストの前には、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」そして、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』といわれてしまうものなのです。

恐ろしい、変質が教会に来ようとしています。
 


23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

彼らは前代未聞のすばらしい「聖霊のたまもの」に満ち、それゆえ
自信満々であり、あらゆる世界中の教会で絶賛されるのでしょうが、
しかし悲しいかな、その日再臨の主からのことばは、『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』です。

何とも皮肉、大変な大変な勘違いに入るのです。

彼らの間違いの一つは、不法をなすということです。
不法とは律法すなわち、神のことばを侵すということであり、
彼らはたまものにひかれ、みことばを冒涜、行わない人々です。
すでに第三の波系の人々は、パラダイムシフトなどともっともらしいことばの下に
神のことばを冒涜する教理を強調しています。

繰り返していいます。
これからキリスト教会は、違った時代、変質した時代へ入っていくのです。
具体的には、不法をなす人々、たまものを最優先し、結果として惑わされ、
神のことばを守らない、律法を冒涜し、行わない人々が多く出てくるはずです。
もうすでにそのきざしは見えています。
第三の波系の教会では、「殺すな」という律法はないがしろにされ、アメリカの教会において、
パレスチナ人の虐殺、アフガン、イラクの虐殺はもろ手をあげて賛成されています。
同性愛もへりくつをいう人々により容認されつつあります。

パラダイムシフト(軸変換)、トランスフオーメーション、new thingなど
新しいこと、変化について彼らは語り、結果として「天地が過ぎ去っても決して
過ぎ去ることはない」といわれたみことばの教理を変更しようとしているのです。

そして、その結果、情けなくも、聖書と全く異なった教理を信じ、冒涜教理を受け入れ、
そのため、主に「不法をなすもの」と呼ばれる愚かな人々こそ、この「主よ主よ」という
人々なのです。
 

”24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。”
 

「主よ主よ」といい「預言、悪霊追い出し、奇跡を行い」ながら、主に裁かれる人々とともに、雨や洪水に関して書かれています。雨や洪水は、霊に関することであり、
ノアの洪水をもって予表される終末の悪霊洪水の日のことと思われます。
その日は、みことばを行う、みことばに忠実な人々にも臨みます。
しかし、彼らはみことばを行いつづけ、その結果、これらの悪霊の惑わし、
愚かなキリスト教会を襲う、「しるしと不思議」のムーブメントにも動じず、
流されません。結果として、命を失いません。

これは、以下のフイラデルフイアの教会を襲う、誘惑ともいえるのでしょう。

”黙示録3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練(
試み、誘惑)の時には、あなたを守ろう。”

ここに「全世界に来ようとしている試練(誘惑)」と書かれているように、
この悪霊によるリバイバルの惑わし、誘惑は、全世界を襲い、ノアの日の大洪水の様に全ての教会、教団がこの洪水の水を浴びるようになることを覚えましょう。
かつて、ノアの日の大洪水は全世界の地を襲いました。その証拠にたとえば、日本でも山の上で、海の魚等の化石が
発掘されます。これをもって、日本の山もかつての日、大洪水に覆われたことがわかるのです。
地学でいう「洪積層」とはこのことをいうのです。
同じく、全世界の教会が大洪水の水を受けます。例外的な教会は一つもありません。
その洪水の今の進行状況、被害の実態は?

もうすでにペンテコステ、カリスマ派、カソリックカリスマ運動など、洪水に苦もなく、飲み込まれている
教団各派がいます。福音派においても聖霊の第三の波とかいうヨタ話を真に受けて、信者もろとも、
悪霊の洪水に身を投げている、愚かな教会がいくつも散見できます。
まさに大洪水は地をおおっているのです。
 

”26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”
 

みことばを行わない、実行しない人々が、悪霊の大洪水に投げ込まれ、飲み込まれていくことが
書かれています。
その結果が冒頭の勘違いな人々、「主よ主よ」といいながら、イエスに「私はあなたを知らない、
不法を行う者」と呼ばれる人々なのです。

ですから、まとめますが、終末の日の惑わしはこうなるはずです。

1. 終末には、すばらしい霊のたまもの、預言、いやし、悪霊追い出し、奇跡のたまものが強調される
2. これらのたまものをエサにして、巧妙に神のことばを行わせない、みことばからずれた教理、
、律法を破る教理が強調される。そして、その中で、たまものに目がくらむ人々は、惑わされ、
神のことばを行わなくなる。
3. 結果として、これらのたまものをエサに惑わされる人々は、再臨のイエスの前に
「不法を行うもの」となり永遠の命を継がない。

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明らかにみことばはこの様な未来を語ります。聞くべき耳のある人、「この預言のことばを
聞くものは幸い」です。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー
 
 
 
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